第9話: 正直な売り手
朝の帳場に、書記の運んだ机が三つ並んでいた。
窓はまだ白い。廊下を湯の匂いが通り過ぎていく。臨検の下でも、家の一日はいつもどおりに回りはじめている。
ミラはそのいちばん端に座った。十一年、座り慣れた席だ。窓から差す光の角度も、椅子の軋みも指が覚えている。
ただ、向かいに監査官が腰を下ろすのは初めてのことだった。
レオは手袋の手で、卓の二冊を軽く押さえた。家の元帳と、商会の公示。ゆうべのまま、重ねずに離して置かれている。
「昨日、あなたは一つの年で、ロシュだけが値を下げないと示した」レオは言った。「あの人は相場のせいだと逃げた。値の崩れた年に強気を通す商人もいる、と」
「はい」
「わたしは、商いを知らない」レオは元帳の頁を繰った。「だが、一つだけ引っかかる。相場というのは、あの家一軒にだけ都合よく吹く風なのですか」
ミラは顔を上げた。その手があった、と思った。
昨日は一日、縦の列ばかり見ていた。横の読みは、数字の読めないこの人の目が先に見つけた。
「相場なら、同じ年に同じ物を納めたほかの売り手も高いはずです」ミラは言った。「相場は、一人だけを高くしません」
時をさかのぼって一社を追うのが、昨日の照合だった。今日はその逆をやる。
一つの年で立ち止まり、同じ品を納めた売り手を横に並べる。相場の高い年だったなら、どの売り手の値も揃って高い。ロシュだけが高いのなら、それは相場ではない。
縦に読んで、次は横に読む。帳面の読み方が、一晩でひとつ増えた。
「葡萄酒は、ロシュがほとんど独りで納めています」ミラは言った。「でも、樽材は違います。樽の木は何軒かが競って納めていました」
「その何軒かの値を見たい」レオは言った。「同じ年、同じ樽材。ロシュと、ロシュでない者と」
ミラは麻袋から自分の控えを開いた。
樽材の頁は、葡萄酒ほど厚くない。それでも十一年ぶんの仕入れが几帳面な自分の字で並んでいる。
売り手の名で拾い分けていく。フェリエ。ガロン。そして、ロシュ。
書きながら一度も気に留めなかった並びが、今朝は別の顔をしていた。
今年の樽材、ひと組の値を三人ぶん抜き出した。
商会の公示は、二リーヴル。
フェリエは二リーヴルちょうどで納めていた。公示のとおりだ。ガロンは一リーヴルと十八ソル。公示より二ソル安い。値切ったのだろう、とミラは思った。
品が余れば売り手は下げる。買い手が急げば上げる。商いとは、そういうものだ。
ロシュは、二リーヴルと八ソル。
一リーヴルは二十ソル。二リーヴルは四十ソル。その二割は八ソル。二リーヴル八ソルは公示のきっかり一・二倍だった。
ミラは去年の頁をめくった。去年の公示は一リーヴルと十五ソル。樽材の安い年だ。
フェリエは一リーヴル十三ソルで公示より二ソル安い。ガロンは一リーヴル十五ソルで公示ちょうど。
二人ともその年の相場に素直に従い、買い手の強い年には正直に値を下げていた。
ロシュだけが、その安い年にも公示のきっかり二割上を乗せていた。二リーヴルと二ソル。
一リーヴル十五ソルは三十五ソル。その二割は七ソル。割れば、また一・二だ。
ミラの指が止まらなくなった。おととし。三年前。
フェリエとガロンの値は年ごとに上下していた。高い年もあれば、安い年もある。二人の値は公示に寄り添って、生きて揺れていた。
ロシュの値だけが、その揺れのいつも二割上に貼りついていた。公示を書き写してから二割を足したように。
それは、テュレの宿の夜にミラが一人でたどり着いた結論だった。今度はフェリエとガロンという生きた二人の売り手が、その結論を隣で裏書きしていた。
一人の夜の答えが、二人の昼の証しになった。
昨日まで、ロシュの値が揺れないことをミラは一人で知っていた。けれど、それを言い張るには並べて比べる相手がいなかった。
いま、その相手が二人いる。
フェリエとガロンは正直に商っていた。品が余れば下げ、足りなければ上げる。
その二人が年ごとに揺れているからこそ、ロシュの不動が際立った。樽材も年も市場も、同じなのに。
それも、品余りの年でさえ二割を譲らずに。ミラはそこにいちばん寒いものを感じた。
品の余った年に二割も高く売りつければ、ふつうの買い手は逃げる。よそから安く買えばいい。それでもロシュが二割を通せたのは、買い手が逃げなかったからだ。
逃げられなかった、と言うほうが正しい。買う者と売る者が、同じ財布の中にいたなら。
昼を過ぎて、帳場の戸が開いた。ノックは、なかった。
ベルナールだった。書記たちが手を止め、頭を下げる。
彼は鷹揚にうなずいて卓の紙に目を落とした。フェリエ、ガロン、ロシュ。三つの名が並べて書き出されている。
その意味を、彼は一目で読んだらしかった。温厚な眉がわずかに寄る。
読める人なのだ、ほんとうは。
「ずいぶん熱心だね」ベルナールは言った。「だが、ミラや。お前は商いというものを知らない」
彼はロシュの名を指で軽く叩いた。
「ロシュの樽は品が違う。目の詰まった良い木を使う。漏れが少ない。だから、うちは長くあそこから買ってきた」
声は講釈の調子になっていた。
「良い品には良い値がつく。それだけのことだよ。フェリエやガロンの安樽と、同じ物差しで測るものではない」
筋の通った話だった。書記の一人が、なるほど、という顔をする。良い品は高い。誰もが知っている理屈だ。
ミラはフェリエの頁とロシュの頁を、並べて置いた。紙の位置を直す指は、震えなかった。
「旦那さま。帳面では、三人とも同じ『樽材』の科目です。等級を分けては書いてありません」ミラはフェリエの頁を指した。「それに、良い品でも値は動きます」
「なに」
「良い樽なら、ロシュはよそへも高く売れます。品薄の年にはもっと高く。品余りの年には、少し下げても買い手がつく」
ミラは息を継いだ。
「良い品でも、相場につれて値は動きます」
ミラはロシュの十一年を指でなぞった。
「でも、ロシュの値は動きません。品薄の年も品余りの年も、いつも公示のきっかり二割上」
指が列の終わりで止まる。
「良い品だから、では、こうはなりません」
ベルナールの指が止まった。
「良い品の値は揺れます」ミラは続けた。「揺れない値は、品ではありません。取り決めです」
帳場が静かになった。
ベルナールはしばらく紙を見ていた。それから息を抜くように小さく笑った。
「よく言う」彼は言った。「だが、それもお前の見立てにすぎん。ロシュが強気の商人だったと言えば、それまでだ」
声だけはまだ講釈のままだった。
「強気の商人は、値を動かさん。買い叩かれるくらいなら売らん、という者もこの世にはおる」
「値を動かさないなら、毎年、同じ値のはずです。二リーヴルと八ソル、と」
ミラは言った。
「でも、ロシュの値は動いています。公示が上がれば上がり、下がれば下がり、いつもその二割上へ」
卓の三つの名がそれを黙って裏書きしていた。
「これは、公示を毎日見て二割を足せる人にしか書けない数字です」
ベルナールは、答えなかった。
「それに、強気でも、正直な売り手なら商会に名を届けます。十一年も商う人が、届けを出さないことはありません」ミラは顔を上げた。「ロシュの名は、商会にありませんでした。どこの誰かもわからない。ほんとうにいるのかどうかも」
温厚さの下で何かが硬く動いた。昨日、数字の話になったときと同じだった。
「……お前は」ベルナールはようやく口を開いた。声はまだ、やわらかい。「良い品を高く買うてやったことまで、罪にするのかね」
彼はそれきり、鷹揚な笑みだけを残して帳場を出ていった。
廊下の足音は来たときより少しだけ速かった。
壁を一つ譲って、その奥へ退がったように、ミラには見えた。
戸が閉まると、レオが初めて口を開いた。
彼はミラの書き出した三つの名を長いこと見ていた。
「これは効く」レオは言った。「昨日の照合より、ずっと」
「昨日のと、何が違うのですか」
「昨日は、ロシュの値が揺れないことを示した。それだけなら、相場のせいだと言い張る隙が残る」
「強気の、変わり者」
「そう。値の崩れた年に強気を通す変わり者が、たまたま一人いた、と」
レオはフェリエとガロンの名を指した。
「今日は、その言い訳をこの二人が塞いだ。同じ年、同じ樽材、同じ市場で、正直に商った二人がいる」
「二人の値は揺れた。ロシュだけが、揺れない」
手袋の指が二つの名の上で止まった。
「相場がこの二人に等しく効いて、ロシュ一人にだけ効かない。そんな相場は、ない」
ミラはフェリエとガロンの、揺れる値を見た。この二人は、自分たちがロシュを裁く証しになっているとは知らないだろう。
ただ正直に、その年の相場で樽を売っただけだ。その正直さが、いま一つの嘘を照らしていた。
「正直な売り手が、二人」レオは言った。「あなたが十一年かけて集めた証人だ。名も顔も知らずに」
ミラはロシュの頁に目を戻した。
十一年、何百回とこの名を書き写してきた。葡萄酒を、樽材を、いつもいちばん高く納める売り手。
けれど、ミラはその顔を知らない。荷を運んできた馬も御者も、記憶にない。
ロシュとの受け渡しは、いつも当主が手ずから差配していた。帳場のミラには、伝票だけが回ってきた。
書いた名の数だけ、会っていない相手だった。
「レオさま」ミラは言った。「ロシュの荷をこの家で受け取った者がいるでしょうか」
レオがミラを見る。
「わたしは十一年、一度も見ていません。荷受けの控えも、ほかの業者にはあるのに、ロシュのぶんだけありません」
声が少しだけ低くなった。
「伝票はいつも当主から、直に回ってきました」
「つまり」レオはゆっくりと言った。「この家の誰も、ロシュを見ていないかもしれない、と」
「わかりません。でも、確かめられます。荷を受けた者がいるなら、その者に訊けばいい」
「いないなら」
「誰も見ていないなら、それはそれで、一つの答えになります」
レオの目が細くなった。この帳場に来て、彼が初めて見せる猟犬のような目だった。
数字を追う目ではない。人を追う目だ。この人の狩り場はここから始まるのだと分かった。
「明日、この家の使用人に順に訊きましょう」レオは言った。「ロシュを見た者が一人でもいるか。荷をいつ、どこで、誰が受け取ったか」
彼は手袋の手で、卓の元帳をそっと閉じた。
「正直な売り手は、もう見つけた。次は、正直でない売り手がそもそもこの世にいたのかどうかだ」
窓の外はもう暮れかけていた。書記たちが紙を揃える音が夕の帳場に低く重なる。
ミラはフェリエとガロンの名を、もう一度なぞった。会ったこともない、正直な二人。
その揺れる値だけが十一年、ほんとうのことを静かに言い続けていた。読む者のいない帳面の中で。
ミラは隣を見た。手袋の監査官が同じ頁を見ている。
読む者は、もう、いる。




