第8話: 二冊の帳簿
エルフェルト家の門は、追い出された日と寸分も変わっていなかった。
屋敷を出て、二十二日。ミラはその数を、街道のあいだずっと数えていた。荷馬車で二日かけて宿場町へ。そこで十八日。王都から許しが下りて、また二日かけて屋敷まで戻ってきた。
日付を数えるのは、心を数えずに済ませるいちばん静かなやり方だった。
門は変わらない。変わったのはミラの立っている場所だった。
あのときは荷台の上から、遠ざかる門を見ていた。いまは門の前に自分の足で立っている。
隣には黒い官服の男がいた。
「二十二日ぶり、ですね」レオが言った。
「数えて、おいででしたか」
「あなたが数えていそうだったので」
「入りますか」
「はい」
そう答えた自分の声が思ったより固くないことにミラは少し驚いた。
門番はレオの胸の紋章を見て、何も言わずに扉を開けた。
王室監査院。その言葉の前では伯爵家の門もただの木でしかなかった。
中庭を歩くと、洗濯場のほうから下働きたちがこちらを見ていた。ひそひそと何かを言い交わす声。
無能な養女が、黒い官服を連れて戻ってきた。
その中に、そばかすの浮いた小さな顔があった。
ネルだった。追い出される朝、厨房頭に内緒でパンを一つ握らせてくれたあの下働きの娘だ。
ミラと目が合うと、驚いたように口を押さえた。それから両手で小さく、いってらっしゃいのような、おかえりのような、どちらともつかない仕草をした。
ミラはその仕草を胸の帳面にそっと書き留めた。
二十二日前、この娘のパンだけが無償だった。合わない世界のなかでたった一つ、きれいに合った数字だった。
玄関の広間で当主が待っていた。
ベルナールは仕立てのよい上着に大ぶりの印章指輪をはめていた。ミラを見ると、いかにも困ったように白髪交じりの眉を下げた。
「ミラや。戻ってきたのか」
やわらかい声だった。十一年、この家でいちばんよく聞いた声だ。
誰にでも愛想がよく、善良な当主で通っている声。
「監査院のレオ・ヴァンスと申します」レオが手袋の手を胸に当てた。「エルフェルト伯。王室の許しを得て、当家の帳簿の臨検に参りました」
「臨検」ベルナールは、その言葉を初めて聞くもののように繰り返した。「これはまた大げさな。監査官どの、何かの行き違いではありませんかな」
「行き違いなら、帳面がそう言うでしょう」
「これは手厳しい」ベルナールは笑った。「どうぞ、ごゆるりと。うちの帳面は、いつでも開いております」
「では、開けていただきます」
「ええ、ええ。どうぞ」
彼はちらりとミラを見た。
「この子が何か申したのでしょう。悪く思わんでやってください。数字だけは器用な子でしてね。ですが、それだけなのです。追い出された腹いせにありもしないことを。よくある話です」
ミラはその言葉を黙って受けた。
二十二日前なら、この声にうつむいていた。無能だと言われれば、そうかもしれないと思った。
けれど、いまは違った。ミラの手元には、もううつむかずに済む数字があった。
レオは笑わなかった。
「エルフェルト伯。私は、この方の言葉をまだ信じてはおりません」彼は静かに言った。「ですが、数字は腹いせをしません」
ベルナールの眉がわずかにゆるんだ。味方が現れた、とでもいうように。
レオは後ろに控えていた書記に合図した。
「二冊のほか、何も卓に載せないように」
書記が、二冊の帳簿を広間の卓に置いた。
一冊は、この家の帳場に残ったままの醸造の元帳。ミラが十一年、書き継いできた帳面だ。
だが、追い出された日を最後に、ミラはもう指一本触れていない。
もう一冊は、革の表紙に赤い封蝋の割られた跡があった。商会の原本だった。
市場がその年その年、葡萄酒に何リーヴルの値をつけたか。商会が公に記した、まっとうな相場。ミラが生涯、一字も書き込めない記録だ。
「あなたが持ち出した控えは使いません」レオはミラに言った。「あなたの写しは追い出されたあとで書き換えた、と言われかねない。ですから、あなたが二十二日ぶん指を触れられずにいた元帳と、あなたの手が生涯届かない商会の公示。その二冊だけを並べます」
ミラはうなずいた。
「この元帳の値を書いたのは、あなたですね」
「はい。わたしの字です」
「迷いなく答えますね」
「字は、迷いようがないので」
「ではその値を決めたのも、あなたですか」
「いいえ」ミラは首を振った。「ロシュへの支払いは、いつも旦那さまの伝票から回ってきました。わたしはそれを写しただけです。公示の値も、知らないまま」
「その伝票は残っていますか」
「帳場には、ありません」ミラは首を振った。「伝票は、写したら旦那さまの手元に戻る決まりでした。残るのは、わたしの字だけです」
「決まりも何も」ベルナールが穏やかに口を挟んだ。「古い紙を全部は取っておけんよ。どこの家でもそうしておる」
公示を知らずに写した数字が、その公示のきっかり二割上に十一年、並んでいる。
それを書けたのは、公示を毎日見て二割を足せる者だけだった。
二冊が、卓の上に並んだ。
ミラは指を伸ばしかけて、止めた。触れてはいけない。目だけで二つの列を上から下へ辿った。
今年。家の元帳、九リーヴル十二ソル。商会の公示、八リーヴル。割れば、一・二。控えで見たものと、同じだった。他人の目でもまだそこにあった。
去年。十リーヴル四ソル。公示、八リーヴル半。一・二。
おととし。九リーヴル。公示、七リーヴル半。
その頁でミラの目が止まった。
七リーヴル半。相場がいちばん落ちた年だ。葡萄が豊作で、どの蔵も樽が溢れた年。
物が余れば、値は崩れる。売り手は買い手に値切られ、売れ残りを抱えたくない者から先に値を下げる。それが、生きた市場だった。
なのに、ロシュだけは下げていなかった。崩れた公示の、きっちり二割上。誰もが値を割った年に一人だけ、平気で高値を取り続けている。
「旦那さま」ミラは顔を上げた。「おととしは葡萄が豊作でした。物が余って、どの商人も値を下げた年です。市の札も七リーヴル半まで落ちています」
ベルナールの労わるような目が、ミラに向いた。
「なのに、ロシュだけは崩れた相場のきっかり二割上を取っています。値が崩れた年に、一人だけ値切られない売り手。買い手に頭を下げなくていい商人。そんな人は、いません」
ベルナールの、両手を広げかけた仕草が途中で止まった。
やわらかい口が答えを探して、ほんの少し動かなかった。
書記の筆が止まった。卓の隅のネルが盆を取り落としかけて、あわてて胸に抱え直す。
当主が娘の数字に詰まった半拍を、この広間はたしかに見ていた。
だが、ベルナールはすぐに笑みを戻した。
「一年の、たまたまだよ、ミラや」
彼は言った。声はやわらかいままだったが、ミラを見る目から労わりの色だけがすっと抜けていた。
「値の崩れた年に強気を通す商人もたまにはおる。運の悪い仕入れだ。それだけのことだ」
彼はミラの顔を値踏みするように見た。
「お前が、そこまで数える子だとは思わなんだよ」
彼は卓の元帳を指先でとんと叩いた。印章指輪が燭台の光を鈍く撥ねた。
「監査官どの。今年の値をごらんなさい。九リーヴルと、いくらか。相場の幅の内です。去年も、おととしも、法に触れる値ではない」
印章指輪の指が卓の縁を軽く撫でた。
「この子は数字を一つ見つけては大ごとにする。二割。ええ、高いでしょう。ですが、たかが帳簿の一年の話だ。数字が人を、盗人にするとでも?」
「法の話は、まだ誰もしておりません」レオが静かに言った。「今日は、数の話だけです」
「けっこう。数の話なら、いくらでも」
広間が、静かになった。
ベルナールは正しかった。一年だけを取り出せば、この二割の上乗せは豊作の値崩れにも不作の値上がりにも、相場の幅にまぎれて見える。
単年では、この二割はまだ合法の顔をしていた。
「おっしゃるとおりです」
ミラが口を開いた。ベルナールが意外そうに眉を上げた。
「一年だけなら、相場です。二年でも、たまたまでしょう。旦那さまの言うとおり、一年ずつ見ればどこにも罪はありません」
「わかっているなら――」
「でも、相場は生きています」ミラは二冊の帳簿を見た。「豊作の年は崩れ、不作の年は張る。年ごとに上がって、下がる。なのにこの二割だけは、十一年、一度も揺れませんでした。値の崩れた年も下げず、値の張った年も、公示のきっかり二割上から動かない。生きているものが十一年、息一つしないのはおかしいんです」
ベルナールの温厚に細めた目が、一瞬だけ硬くなった。
数字の話になると、この人はいつもそうだった。愛想の剥がれるその隙を、ミラは十一年、帳場の隅から見てきた。意味を知らなかっただけだ。
「一年ずつでは見えません。十一年を一枚に並べて、初めて見えます」ミラは言った。「それを、これからいたします」
「……好きに、なさい」
初めて、返事が短かった。
そのときだった。
広間の奥の扉が音もなく開いた。
濃紺のドレスの女が立っていた。喪に服すような、装飾のない濃紺。黒に白の混じった髪をほつれ一つなく結い上げている。
養母のマルグリットだった。
ミラの背が、ひとりでにこわばった。十一年、この人には名を呼ばれたことがない。
すぐそばにいて、一度も情を向けてこなかった人だ。ミラを見る目には、いつも氷が張っていた。
マルグリットの灰色の目がミラを捉えた。
その灰色に、ミラは覚えがあった。どこで見たものか、とは言えない。
けれど、その考えをミラはいつものようにすぐ畳んだ。養母が養女を見る目に、意味を探しても仕方がない。
「あなた」
マルグリットが言った。ミラに向けたその一言。名ではなく、あなた。
「戻って、きたのですね」
声に情はなかった。用件を告げるだけの短い声。ミラはうつむきかけて、こらえた。
「はい。奥さま」
マルグリットはそれ以上、何も言わなかった。ただ卓の二冊を、一度だけ見た。
ほんの一瞬のはずだった。けれど、それがミラには少し長すぎるように思えた。
冷たいだけの人が、なぜ古い帳面に目を留めるのか。その目の意味は、ミラには読めなかった。
マルグリットが背を向けた。濃紺のドレスの裾が床を撫でて、奥の扉の向こうへ消えた。
最後まで、ミラの名を呼ばなかった。
その背を、レオが見送っていた。卓の二冊には、もう目もくれずに。
彼は手袋の手を背にまわしたまま、閉じた扉のほうをまだ見ていた。
「奥方は」やがてレオは、ひとりごとのように言った。「あの二冊を、ずいぶん長く、ごらんになった」
「長い、と思われますか」
「あなたも、そう感じた」レオはミラを見ずに言った。「顔にそう書いてあります」
ミラには少し長い、としか感じられなかったものを、この人は目の奥まで読んでいたらしい。
その日の夕、書記たちが帳場に机を運び込んだ。
ミラが十一年座った、あの帳場だった。同じ窓。同じ棚。乾いた墨と古い紙の、数字の匂いのする空気。
追い出された部屋に、ミラは監査官とともに戻ってきた。
卓の上には二冊の帳簿が並べて置かれていた。家の元帳と、商会の公示。どの一年も相場の幅に隠れている。
けれど、とミラは思った。豊作で値の崩れた年に、下げない売り手が一人。その不自然をあと十年ぶん、この帳場で拾い上げればいい。
一年ずつでは罪にならないものが、十一年並べば一本の線になる。
それを並べられる者はこの家に、たった一人しかいなかった。
「あすから、何を並べます」レオが訊いた。
「醸造を十一年。それから、樽材を」
「読み上げはあなたが。書き取りは書記が」レオは机の位置を目で測った。「夜は休みます。監査は長丁場ですから」
「休めるでしょうか」
「休むのも、監査のうちです」
「はい」
戸口に小さな足音がした。ネルが、湯気の立つ椀を盆にのせて立っていた。
二十二日前の朝は、隠すように握らせてくれた。いまは誰の目も気にせずまっすぐに差し出す。
「あったかいうちに、どうぞ」
「熱いから、気をつけて」
「いただきます」
それから、少しだけ声を落として。
「……おかえりなさい」
おかえり、と誰かに言われたのはこの家で初めてだった。ミラは、椀を両手で受けた。
二十二日前、この家で無償のものは一つきりだった。今日は二つになった。
春の遅い日が、まだ雪の残る庭を薄く照らしている。
合わない数字は、合わせる人を待っている。その人はもう待つのをやめて、帳場に座っていた。




