第7話: 手袋の監査官
三日、と指を折ったところで、その人は来た。
ミラが宿の帳場から街道を見張るようになって三日目の昼だった。雪解けの水がまだ広場の隅に光っている。
そこへ、黒い影が一つ馬を降りた。官服の胸に、見慣れない紋章。そして、両手に革の手袋。
荷運びの革手甲ならミラにも見慣れている。だが、あれは働く手の手袋ではなかった。傷ひとつなく、爪の先まできれいに包んでいる。
手を守るための革ではない。何かに触れずにおくためにはめている。
合わないものはミラの目に、いつも先に飛び込んでくる。
男は広場のまんなかへは行かなかった。まっすぐに商会の出張所の前へ立った。
ミラは麻袋を抱えて宿を出た。
出張所の戸口で、男はドランと話していた。ミラが近づいてもこちらを見ない。
ドランの手元と口元を、交互に見ている。数字より先に、人のほうを量る目だった。
「去年の相場札を見せてもらえますか。いや、数字はいい」男の声は端正だった。「あなたがそれを出すときの手の速さが見たい」
「妙なことを訊く役人だのう」ドランは痩せた肩をすくめた。「過去の値なんぞ揉め事のときにしか要らん。わしは書いた数字を出すだけの男だでな」
「よく言われます」男はうすく笑った。「数字は、私には読めません」
「ふむ」
「読めるふりをして間違えるより、読める人を探すほうが早い」
ミラの足が、止まった。監査院の紋章をつけた男が、数字は読めないと言った。読める人を探している、とも。
三日待った街道の先が、いま、この戸口につながった気がした。
男がふり返った。
青い目が、ミラの顔でも手でもなく抱えた麻袋のふくらみで止まる。それからゆっくりと、ミラの目に戻ってきた。
「その袋は、ずいぶん角ばっている」男は言った。「衣を詰めた袋は、そんな角を作らない」
「革表紙の、分厚いものだ。帳簿ですね」
ミラは答えなかった。
中身を当てられたことには、驚かなかった。袋の角の数え方が自分と同じだったことに、少し驚いた。
「運送宿に、帳簿を抱えて三日、街道を見張る娘がいると聞きました」
男は出張所の奥へ目だけをやった。
「ドランさんが話してくれた。あなたが、私を探していると」
ドランが、決まり悪そうに奥へ引っ込んだ。ミラはその背に小さく頭を下げた。
話すな、と言った口で、ちゃんと橋を架けてくれていた。
「王室監査院、レオ・ヴァンスと申します」男は胸に手を当てた。「あなたの名は」
「ミラ、と申します」
姓は言わなかった。エルフェルト、と続けるにはまだ覚悟が足りなかった。
帳場を借りて、ミラは二列の数字を並べた。
左に、家がロシュに払った葡萄酒の値。右に、商会の控えのその年その年の公示。
十一年ぶん。どの年も、割れば一・二。
レオは卓に手をつかなかった。腰をかがめ、両手を後ろに組んだまま上から数字を覗き込む。
触れないための姿勢だ、とミラは思った。
「相場より二割高く仕入れたことにしてある帳簿です。十一年、一度も崩れずに」
「崩れずに」
「相場は毎年揺れているのに、この値だけが影のように張りついています」
「二割」レオはその言葉を口の中で転がした。「……二割、といま言いましたね。なぜ二割だと分かるのです」
ミラは指で、左の列と右の列を順に押さえていった。九リーヴル十二ソルを、八リーヴルで。十リーヴル四ソルを、八リーヴル半で。
割るたびに、同じ数が返ってくる。
レオはミラの指先だけを追っていた。数字そのものは初めから見ていない。
手が次にどこへ動くかを、先回りするような目だった。
「なるほど」しばらくして彼は言った。「私には、その割り算はすぐに追えません。ですが、あなたの指は迷っていない」
「指、ですか」
「もう何百回も同じ道を通った指の動きだ」
人に指の動きを読まれたのは初めてだった。いつも読みそこねる側にいた自分が、読まれる側に回る。
指先が急に他人のもののように思えた。
「一つ伺います」レオは手袋の指を組み直した。「あなたは、この家に恨みがありますか」
問いは静かだった。だからこそごまかせなかった。
「あります」
「追い出された」
「はい。無能な養女だと」
「では」レオの声が、少しだけ低くなった。「恨みのある人間が、憎い相手を陥れるために数字を作ることもできますね」
青い目が、正面からミラを見た。
「この綻びをあなた自身が書いたのではないと、私はどうやって信じればいい」
その問いなら、ずっと自分で自分に向けてきた。だから答えは決めてあった。
「わたしの言葉も、この持ち出した帳簿も、疑ってください」
ミラは、右の列に指を置いた。商会の控えのほうだ。
「でも、こちらはわたしには書けません。公の値です。わたしが触れられない場所に十一年ぶん残っています」
指を二つの列のあいだに滑らせた。
「二つを並べて、割るだけ。割り算に、恨みは混じりません」
レオは長いあいだ黙っていた。それからこう訊いた。
「追い出されたのは、いつです」
「義姉の婚約が、決まった日です」
ミラはその日付を、ほかの数字と同じ平らな声で言った。恨みも意味も込めずに。
レオはその平らさのほうを聞いていた。彼は数字を見ていない。
ミラの言葉と言葉のあいだの、空いた場所を見ている。
「十一年、無能だと言って手元に置いた養女を、婚約が決まったその日に追い出した」
彼は、ゆっくりと言った。
「妙ですね。もし当主が盗みを隠したいなら、帳簿をいちばんよく知るあなたを追い出すのは下策だ。手元に置いて口を塞いでおくほうがいい」
手袋の指が卓の縁で一度止まった。
「あなたを追い出したのは、盗みとは別の理由かもしれない」
ミラは顔を上げた。
考えたこともなかった。ミラはいつも、なぜ数字が合わないかを問うてきた。なぜ人が動いたか、を問う頭は持っていなかった。
数字の外側にも帳尻があって、それはまだ誰にも割られていなかった。
レオはようやく卓に近づいた。
彼は手袋のまま、ミラの帳簿の角をそっと持ち上げた。素手では触れなかった。
「その手袋は帳場でも、外さないのですね」
つい言ってしまってからミラは口をつぐんだ。踏み込みすぎた、と思った。
けれどレオは頁に目を落としたまま答えた。
「昔、ある帳簿の数字を自分の読み方で読みました。自信がありました」
声の温度は変わらなかった。
「その読みで、一人の男を横領犯にした。牢で死にました。数年経ってから私の読み違いだったと分かった」
ミラは息を止めた。
「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、それを読む人間です」
レオは静かに頁を戻した。
「手袋をしても、読み違いは防げません。それは分かっています。ただ、素手で数字に触れるのがこわいだけです」
帳場が、静かになった。ミラは自分の指の、インクの染みを見た。
この人も数字で人を損なったことがある。ミラは几帳面に書いて盗みを覆い、この人は自信をもって読んで人を殺した。
出た場所は違うのに、傷の形が、よく似ていた。
「わたしのまっすぐな字が」ミラは言った。「盗みを、いちばん見えない形に覆い隠していました」
レオがミラを見た。
「あなたは、数字の嘘を見つける。その嘘をついた人間の理由のほうは、私が引き受けます」
彼は手袋の手をミラのほうへわずかに開いた。
二つの手のひらが、卓の上で、同じ一枚の紙を指していた。
その紙を、ミラは十一年、たった一人で抱えてきた。誰かと二人で見下ろすのは、初めてだった。
胸の奥で、脈が一つ、いつもより大きく鳴った。
「ですが、いまのままでは動けません」レオは身を起こした。
「なぜ、ですか」
「あなたの手元にあるのは、持ち出した控えだ。写しにすぎない。伯爵家は、盗まれた、書き換えられたと言うでしょう」
レオは言った。
「覆すには、家に残った元帳と商会の原本を突き合わせる。外の商会なら私の一存で押さえられます」
「伯爵家は」
「あの扉に踏み込むには、王都の許しがいる」
胸の奥で、何かがかちりと合った。
これだった。マノンの言った、紙に叫ばせる相手。ドランの言った、扉をこじ開けられる者。
ミラが十一年待っていた、合わせる人。割り算のできる誰かだと思っていた。ちがった。
その答えを、家の扉の内側まで運んでいける人のことだった。
「差し押さえて、くださいますか」
言ってから声が少し掠れているのに気づいた。ずっと、この綻びを誰にも渡せずにいた。渡せる相手が、どこにもいなかった。
「一つ、条件があります」レオは言った。「あなたの数字は、信じます」
「……はい」
「ですが、あなたの結論はまだ信じません」
「はい」
「当主が盗んだ、とあなたは言う。私はそこへ至る前に、家の人間ひとりひとりの理由を自分の目で読みます。あなたの見ていない綻びが出てくれば、そちらを追う」
卓の上で、革の指先が一つ鳴った。
「ミラさん。恨みのある人の見立てには乗りきらないのが、私のやり方です」
ミラはうなずいた。むしろ、それでよかった。
人の顔が読めない自分の見落としを、別の目が拾ってくれるなら、真相は遠のかない。
外へ出ると、広場の相場札がまだ冷たい光の中でまっすぐに立っていた。レオの外套の裾が、風をはらんで鳴った。
レオはその札をしばらく見上げていた。
「あなたには、あの札がどう見えます」
「まっすぐな棒に見えます」ミラは答えた。「嘘の値はあそこには立てられない。市場では、はみ出た数字は隠せません」
「それで」
「だから盗みは、市場に出さずに家の帳簿の中だけで起きました」
レオは札からミラの横顔へゆっくりと目を移した。それきり、何も言わなかった。
やがて彼はふと口を開いた。
「一つ、余計なことを」
風が二人のあいだを抜けた。
「無能だと言われて追い出された娘が、追い出した家の帳簿を十一年ぶん諳んじて監査官を街道で待ち伏せる。あなたは、ずいぶん勘定の合わない養女だ」
ミラの背を小さなものが通り抜けた。
合わない、と言われた。いつも自分が数字に向かって言ってきた言葉で。
この人はミラ自身の帳尻を、もう覗きはじめている。だが、それ以上は言わなかった。
見つけた綻びをすぐには口にしない者の顔で、その一言をしまいこんだ。
その日の夕、レオは帳場の隅で二通の書状をしたためた。手袋のまま、封蝋を一つずつ落としていく。
一通は王都へ。伯爵家への臨検の許しを求める使い。
もう一通は商会の本館へ。ロシュとの取引の原本を封じ、この先ひと月、誰の指も触れさせるなと命じる差し紙だった。
その蝋が固まるのをミラは戸口から見ていた。蝋の匂いが、帳場に薄く残る。
伯爵家の扉はまだ王都の返事の向こうにある。けれど外の商会に残った数字だけは、封蝋の落ちたその瞬間に、誰の手も届かないところへ動いた。
ミラの持ち出した控えが、初めて後ろ盾を得た。
二頭の早馬が、北へ駆けていく。
ミラは宿の帳場で麻袋の口をほどき、その蹄の音を数えるともなく数えた。ひとつ、ふたつ、遠ざかって聞こえなくなるまで。
あの人は、家の人間ひとりひとりの帳尻を自分の目で合わせにくると言った。その一人に、まだ姓も明かしていない自分がいる。
ミラは麻袋の口をもう一度きつく結び直した。




