第6話: 相場という嘘
商会の出張所は、市の広場のいちばん奥にあった。
朝の光が、埃の浮いた窓から斜めに差している。ミラはその光の中に立って、壁一面の棚を見上げた。
革表紙の控えが、年ごとに背を並べている。相場札に書かれる前の、もとの数字たち。
屋敷の帳場は、一つの家の数字を溜める場所だった。ここは町じゅうの数字が集まって、公の値になる場所だ。
棚の大きさは帳場に及ばない。それなのに、置いてある数字の重さはこちらのほうがずっと重い。
誰の目にも同じ値。あの札の、根がここにある。
数字の匂いがする、とミラは思った。古い紙と、乾いた墨。屋敷の帳場と、同じ匂いだった。
違うのは、静けさの質だ。帳場の静けさは一人の静けさで、ここのは、大勢が守っている静けさだった。
「あんた、ほんとに来たのかい」
背中で、マノンの声がした。運送宿の主は腕を組んで戸口に立っている。ここへ入る口をきいてくれたのは、マノンだった。
運送宿は、商会と長い付き合いがある。荷の預かり控えと商会の帳面は、月に一度突き合わせる仲だ。
「読ませてくれと頼んだのはわたしです」
「変わった子だよ、まったく」マノンは鼻を鳴らした。「銭にもならない古い数字を見るのに、朝いちばんで並ぶ娘なんてね」
棚の奥から記録番が出てきた。
ドランという、痩せた老人だった。指がインクで黒く染まっている。何十年も、数字を書き写してきた指だ。
ミラには、それがひと目でわかった。自分の指も、同じ色をしていたころがある。
「相場控えを見たいとか」ドランは眼鏡越しにミラを見た。「何の商いだね」
「葡萄酒と、樽材です」とミラは答えた。「過去の公示の値を」
「何年ぶん」
「さかのぼれるだけ」
ドランの眉が、少し上がった。
「妙な頼みだ。たいていの商人は今年の値しか訊かん。過去の値なんぞ、揉め事のときにしか要らんものだ」
「揉め事の、ようなものです」
「他人のかね。自分のかね」
「……両方です」
「正直だな」
ドランはしばらくミラを見ていた。それから黙って棚に手を伸ばし、古い控えを何冊か抜いて卓の上に積んだ。
「商会の控えは、誰が見てもいい。公の値だ。ただし持ち出しはならん」
「じゅうぶんです」ミラは、卓についた。「ここで、読みます」
「墨は使うな。写すなら、そこの石筆で」
「はい」
「頁は、指を舐めてめくるな」
「舐めません」ミラは言った。「紙が傷みます」
ドランの眼鏡の奥で、目がわずかに緩んだ。それきり、老人は棚の陰に戻っていった。
ミラは自分の袋から、醸造の帳簿を出した。あの家がロシュに払った、葡萄酒の値。商会の控えにはその年その年の、まっとうな公示。
二つを、並べる。石筆の音だけが、しばらく続いた。
並べる前に、一度だけ手が止まった。ここで合わなければ、ゆうべの答えは崩れる。崩れてくれてもいい、と半分は思っていた。
今年。家の値、九リーヴル十二ソル。公示、八リーヴル。
一・二。
これはもう知っていた。
去年。家の値、十リーヴル四ソル。控えの公示は八リーヴルと半分。ヴァロの記憶と同じだった。
一・二。
おととし。九リーヴル。公示、七リーヴル半。
一・二。
ミラの指が、次の控えをめくった。三年前。四年前。五年前。ヴァロも知らず、ミラも公示を知らなかった年。
商会の控えにはその値がきちんと残っている。
四年前。公示、九リーヴル。
「九リーヴル」
声が出た。高い年。ヴァロの言った、霜で蔓がやられて跳ねた年だ。旅の仲買が数字を手放したところを、商会の紙は落とさずに持っていた。
家の値は、十リーヴルと十六ソル。
割る。ふと、手が止まった。十六という半端は九では割り切れないかもしれない。だとしたら、この年だけはただの相場のぶれだったのか。
ミラはリーヴルをソルに直した。一リーヴルは二十ソル。家の十リーヴル十六ソルは二百十六ソル。公示の九リーヴルは百八十ソル。
二百十六を百八十で割る。
一・二。
逃げ場は、半端の中にもなかった。三年前も五年前も、割れば同じだった。一・二。
半端は隠れ蓑にすらなっていない。むしろ逆だ。ソルに直せばきっかり割り切れる半端。一・二を守るために、わざわざ作られた半端だった。
背筋を、つめたいものが通り抜けた。
ミラはめくる手を止めなかった。戸口で風が鳴って、控えの頁が一枚だけ揺れた。
六年前。一・二。七年前。一・二。八年前。九年前。十年前。
ミラが初めてあの家の帳簿を握った、その年まで。控えの紙は年ごとに白さを変えたが、数字の並びは変えなかった。
どの年も、公示は違った。八。八と半分。七と半分。九。年ごとに揺れて、豊かな年もあれば乏しい年もあった。
なのに、ロシュの値はその揺れる公示を、いつも同じ歩幅で追いかけた。
公示が上がれば上がり、下がれば下がり、けれど、きっかり一・二倍のところに立っていた。十一年、一度もその歩幅を崩さずに。
揺れる公示に寸分たがわず張りついた影。影は、生きていない。
これで、言い訳は残らなかった。豊かな土地でも当たり年でも、強気の商人でもない。
そういう手合いの値なら、こんなに従順に公示を追いかけたりはしない。
ロシュの名で書いた誰かが、その年の公示にきまって二割を上乗せしていた。
相場のぶれではない。書いた本人が自分の取り分として先に抜いた、その二割だ。
本物の売り手なら、こんな値を十一年も呑みはしない。値切りもすれば、逃げもする。
売り手と買い手が同じ財布のときだけ、値は淘汰されずに毎年きっかり同じ場所へ立てる。だから動かない。動かせば、抜いた分が表に出てしまう。
この一・二はあの人が毎晩、帳場の蝋燭の下で決めていた数字だ。
無能な養女が、その比を割るとは考えもしなかったのだろう。
どれくらい、そうしていたのか。
気づくと、ドランが卓の向かいに立ってミラの手元を見ていた。
老人の目が、いつのまにか鋭くなっている。
「お嬢さん」ドランは低い声で言った。「あんたが並べているのは、ただの相場調べじゃないな」
ミラは顔を上げた。隠す気はもう起きなかった。
「ある家が十一年、公示にきっかり二割を足した値で仕入れをしたことにしていました。同じ売り手からずっと」
ドランはミラの並べた二列の数字を、上から下までゆっくりと辿った。
老いた記録番の目はミラと同じ速さで、その綻びを読んだ。
「……見事なものだ」ドランはため息のように言った。「揺れる公示にこれだけきれいに二割を張りつけ続けるのは、素人にはできん。値を心得た者の仕事だ」
「はい」
「あんたの手元のそれは、その家の帳面かね」
「わたしが書いた、写しです。十一年ぶん」
「あんたが」ドランは眼鏡を上げて、ミラの指を見た。それから自分のインクに染まった指を見た。
「呑まれるなよ、お嬢さん」老人は静かに言った。「書いた字は、書いた者を責めん。責めていいのは書かせた者だけだ」
「そして、この売り手は」ドランはロシュの名を指で押さえた。「うちの商会に、名を届けていない。うちを通さん取引の相手だ。つまり——どこの誰だか、商会は知らん」
「届けのない売り手と、十一年」
「ああ。まっとうな商いなら、あり得んことだ」
ミラはうなずいた。会ったことのない名前。届け出のない売り手。十一年も商いを続ける正直な相手なら、商会に名がないはずがない。
名のない売り手がこの家にだけ現れて、この家からだけ二割を受け取る。行き着く先は、一つだった。
ドランは眼鏡を外して、目の根を揉んだ。それから壁の控えに目をやったまま低く言った。
「わしも昔、妙に几帳面な数字を書き写したことがある。誰が、なんのためにとは首を突っ込まなんだ。……こういうものは、見ないふりをしたほうが、長生きするぞ」
ミラは答えなかった。
「だが、あんたはもう見てしまったんだな」ドランはため息をついた。「なら、一つだけ言っておく。商会にできるのはここまでだ。わしらは値を記す。それを悪用して盗みを働いたかどうかを裁くのは、商会じゃない」
「では、誰が」
「王室の、監査院だ。貴族の家の帳面に踏み込んで罪を問える者は、この国にそう多くはない。監査官だけが家の扉をこじ開けて、帳面を差し押さえられる。あんたのその数字も監査官の手に渡って、はじめて刃になる」
刃、という言葉をミラは胸の中で書き取った。数字が刃になる。なら、この袋は鞘だ。
「監査官とは、どういう人たちですか」
「王の帳面守りだ。貴族が王から預かったものをちゃんと預かっとるか調べる」ドランは控えを一冊、棚に収めた。「嫌われ者だよ。どこの家でも、監査官に戸を開ける前に、暖炉に紙をくべる」
「……紙を」
「だから連中は、来ると決めたら速い。紙が燃えるより速く来る」
「監査官は、どこへ行けば会えますか」
「ふつうは、王都だ」ドランは控えを棚に戻しはじめた。「だが、噂は聞く。近ごろ、この街道筋を監査院の役人が一人回っているそうだ。領地の相場を、抜き打ちで調べているとか。テュレに寄るかは、わしにもわからん。だが、街道にいるのは、確かだ」
「その方の、お名前は」
「知らんよ。役人の名前なんぞ、覚えると碌なことがない」
棚の陰に戻りかけて、ドランは足を止めた。
「わしが話したとは、言うなよ」
「言いません」
答えてから、ミラは気づいた。老人は言うなと言いながら、監査官の居場所を教えてくれた。
見ないふりをしたほうが長生きするぞ、と言った口で。
インクの染みた指は、嘘のつき方まで写字者のそれだった。
外へ出ると昼の光がまぶしかった。半日を数字の中にいた目に、広場の色は多すぎた。
マノンが広場の端で、荷運びと立ち話をしていた。ミラを見つけると、片手を上げる。
「終わったのかい」
「終わりました」とミラは答えた。「隠れる場所は、もう一つも残っていません。十一年、どの年もきっかり二割です」
「そりゃ、けっこうなことだ」マノンは、ミラの顔を覗き込んだ。「なのに、うれしそうじゃないね」
「うれしさの置き場が、まだありません」
「置き場ねえ」
ミラは袋を抱え直した。中には十一年ぶんの綻びがそろっている。
公示と並べれば、この束はあの家を一行残らず崩す。読める者が読めば、それだけで。
「証拠は、そろいました。あとは、これを読んで、動かせる人に、渡すだけです」
マノンはしばらくミラを見て、それからふっと笑った。
「その偉いさんを、待つのかい」
「いいえ」ミラは首を振った。「待ちません。街道にいるなら、こちらから道の上でつかまえます」
ミラは麻袋の口を固く結び直した。監査官が一目で読めるよう、今夜のうちに十一年を一枚に畳んでおく。
袋を肩にかけ、街道の見えるほうへ歩きだした。
まっすぐな公示の隣に、傾いた家の帳面。この二つを裁ける者が、街道のどこかにいる。
あと何日で、ここを通るのか。ミラは指を折って、数えはじめた。




