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第5話: 二割の綻び

 その夜、ミラは眠らなかった。


 正しくは、眠るより先に確かめたいことが一つあった。


 宿の男たちの鼾が板の間を満たす頃、ミラは蝋燭に火を移し、麻袋から醸造の帳簿を抜いた。


 ヴァロの声がまだ耳の奥に残っている。売り手と買い手が、同じ財布。中で数えてた奴にしか、見つけられん。


 中で数えてた奴。それはミラだった。


 けれど、そこから先が動かなかった。ロシュが実在しないなら、二割はいくらでも書ける。でもロシュは十一年、確かに帳面にいた。


 実在する売り手を、いないと決めつけることはできなかった。会ったことがないだけで、いないとは限らない。


 その堂々巡りを、昼のあいだ何度もした。答えは出なかった。


 夕方の帳場で、椀をよそいながらマノンが言ったのだ。


 「今朝の客と、ずいぶん話し込んでたね」


 「はい。よく笑う人でした」


 「で、あんたは笑わなかった」


 「……笑いそこねました」


 「そうかい」マノンは椀を重ねた。「笑える話なら、いつか聞かせな」


 「……はい。いつか」


 マノンはそれだけで、行ってしまった。


 だから、やめた。




 ロシュがいるのか、いないのか。それはミラには確かめようがない。人の顔は帳面に書いていない。


 けれど、数字は書いてある。


 ミラは確かめられるものだけを確かめることにした。人ではなく、値を。ロシュではなく、ロシュがつけた値を。


 蝋燭を引き寄せ、葡萄酒の頁を開いた。ロシュから買った樽の値。今年のものだ。


 九リーヴルと十二ソル。


 その隣に、相場札の数字を思い浮かべた。今年の公示は八リーヴル。ヴァロもそう言った。


 九リーヴル十二ソルを、八リーヴルで割る。一リーヴルは二十ソル。


 答えは一・二。


 きっちり、一・二だった。二割高い。


 次の年の頁をめくった。去年。ロシュの葡萄酒は十リーヴルと四ソル。去年の公示は八リーヴルと半分。


 割る。


 一・二。


 また、きっちり一・二だった。


 もう一年さかのぼった。おととし。ロシュの葡萄酒は九リーヴル。おととしの公示は七リーヴル半。安い年だった。


 九リーヴルを七リーヴル半で割る。


 一・二。


 「……一・二」


 声に出すと、指先がかすかに震えた。


 「三度。三度とも、きっちり」


 三年とも、寸分たがわず一・二。公示が八でも八と半分でも七と半分でも、ロシュの値はいつもその一・二倍だった。公示が動いても、二割は動かない。




 ミラの指が頁の上で止まった。


 おかしい。二割高い、それ自体はもう知っていた。問題は、それが、きっちりだということだった。


 相場は生きている。豊かな年は下がり、乏しい年は上がる。


 ヴァロの言った公示も八、八と半分、七と半分、と揺れていた。ロシュが本物の商人なら、その値も揺れるはずだった。二割の年もあれば、一割五分の年もあるはずだ。


 なのに、ロシュの値は揺れなかった。


 ミラが公示を確かめられるのはこの三年ぶんだけだった。テュレの札と、ヴァロの言葉。残る八年の公示がいくらだったかは知らない。


 それでもその八年も、エルフェルト家の値が八リーヴルを割ったことは一度もなかった。安い年が、一つもない。


 確かめられた三年は寸分たがわず二割。確かめられない八年は、一度も下がらない。まるで、公示を見てから二割を足して書いたように。


 まるで、ではなかった。


 「揺れてない」


 ミラは掠れた声で呟いた。「商人の値なら、揺れる。揺れない値は、商いじゃない。書いたものだ」


 首の後ろの毛が、一本ずつ立っていくのがわかった。


 公示にぴったり二割を上乗せし続けられる者は、この世に一種類しかいない。


 「公示を見て、二割を足して、書く」


 声が、夜の帳場に落ちた。


 「商人では、ありません。書く者です」




 ミラは蝋燭を頁の上でゆっくりと滑らせた。


 ロシュがいるのか、いないのか。もう、どちらでもよかった。ロシュが本物の商人だったとしても、その値はロシュが決めたものではない。


 公示を見て、二割足して、この家の誰かが書いた。ロシュはただ、その数字に貸された名前だった。


 だとすれば、書いたのは誰か。


 葡萄酒の値を決め、帳面に載せられる者。ロシュとの取引を一度も余人に触れさせず、手ずから差配してきた者。


 品物の受け渡しにミラを呼ばず、伝票だけを帳場に回してきた者。


 当主だ。


 ミラはその名を声には出さなかった。出さなくても、数字がもう言っていた。


 当主は十一年、この家から二割を抜いていた。公示に二割を足した値で買ったことにして、その差をどこかへ流した。葡萄酒だけではない。樽材も、同じ癖で高かった。


 この家は十一年、二割ずつ内側から食われていた。


 そして、その食い跡をいちばんきれいに覆っていたのは。


 ミラの、間違えない字だった。




 ミラは両手で顔を覆った。


 喉の奥が、細く鳴った。笑おうとしたのか、泣こうとしたのか、口の形が定まらない。


 帳簿を押さえた指が、頁の上で小刻みに跳ねていた。


 十一年。数字しか読めぬ無能だと言われて、それでいいと思って生きてきた。


 無能なら、誰も帳面を見せてくれと言わない。無能なら、静かに数えていられる。


 その几帳面さが、盗みを美しく整えていた。無能な養女はこの家でいちばん有能な、共犯の道具だった。


 知らなかった、では済まない。知ろうとしなかったのだ。問えば面倒が増える。だから問わなかった。


 ミラは顔を上げた。蝋燭の火が、涙で二重にぶれて見えた。


 「……見つけて、しまった」


 声が掠れて出た。口に出さないと、この重さに潰されそうだった。


 「数字は、嘘をつかない。嘘をつくのは、数字を書かせた人です」


 誰もいない帳場に、その一言が落ちて、消えた。




 どれくらい、そうしていたのか。


 板の間の戸がそっと開いた。


 「まだ灯りが、ついてたからね」


 マノンだった。ミラの顔を見て、太い眉がわずかに寄った。


 「ひどい顔だ。うちの帳面じゃ、そんな顔にはならない」


 「はい」とミラは答えた。「うちのじゃありません」


 「椀の底に粥が残ってるよ。温めようか」


 「……いえ。喉を通りそうにありません」


 「そうかい」マノンは椀を引かなかった。「気が向いたら、おあがり」


 「……すみません」


 「謝るこっちゃないよ」


 マノンは、それ以上は訊かなかった。かわりに帳場の隅にどっかと腰を下ろし、帳簿を顎でしゃくった。


 「合わないのかい」


 「いいえ」ミラは首を振った。「合いすぎるんです。合いすぎて、こわい」


 「帳面ってのは、合わないほうが困るんじゃないのかい」


 「合わないのは、間違いです。間違いは直せます」ミラは自分の指を見た。「合いすぎるのは、作りです。作った人がいます」


 「作った、ねえ」マノンは腕を組んだ。「うちの取りはぐれとは桁が違いそうだ」


 「桁も、年数も」


 マノンはしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。


 「あたしにゃ数字の話はわからない。だが、一つだけ言えることがある」


 「なんですか」


 「合いすぎるものを見つけたときのあんたの顔はね。うちの取りはぐれを拾ったときと同じ顔だ。悪いことをした人間を、見つけた顔さ」


 「そんな顔に、なっていますか」


 「なってるよ。おっかない顔だ」


 ミラはマノンを見た。


 この女は数字を読めない。けれど、人の顔は読める。


 ミラが十一年かかっても読めなかったものを、この女は一目で読んだ。


 だから、ミラは言ってしまった。数字のことではなくその先のことを。


 「わたしのいた家で、長いこと、盗みが続いていました。当主が、家のお金を。十一年。わたしはその帳面をつけていて、いま、やっと気づきました」


 「十一年」マノンは繰り返した。「あんた、いくつだい」


 「十六です」


 「帳面は、いくつから」


 「六つから、書き写していました」


 「……長いね」


 ミラは、口を開きかけた。


 「その家の名は、言わなくていいよ」マノンは先回りした。「聞いたら、あたしが眠れなくなる」


 マノンの眉が、それでもぴくりと動いた。


 「あんたが、暴いたのかい」


 「暴きたかったわけじゃありません」ミラは首を振った。「ただ、合わない帳尻が放っておいてくれなかっただけです」


 「帳尻ってのは、そんなに強いのかい」


 「強いです。人よりずっと」


 「気づいて、どうするんだい」


 「わかりません」ミラは膝の上で両手を握った。


 「その家に、戻りたいのかい」


 「……いいえ」


 「なら、仕返しかい」


 「それも、違う気がします」ミラは言葉を探した。「合っていないものを、合っていないと言いたい。それだけです。それだけのことが、こんなに重いとは思いませんでした」


 「盗まれてた家を、かわいそうだと思うかい」


 「……わかりません。わたしを捨てた家です」


 「なら、なんで泣くんだい」


 「数字が、かわいそうです」ミラは言った。自分でも変なことを言っていると思った。「十一年、嘘の形で書かれ続けました。数字は、自分では直せません」


 「……あんた、やっぱり変わってるよ」


 「よく言われるようになりました」


 「重いだろうね」マノンはうなずいた。「で、誰に言うんだい」


 「証拠は、この束の中にあります。でも、わたしは追い出された拾い子です。銭もありません。当主が盗んでいたなんて、誰が、わたしの言うことを聞くでしょう」


 マノンは鼻から長く息を吐いた。それから太い指で、帳簿の背をとんと叩いた。


 「聞かせる相手を間違えなきゃいい」


 「間違えると、どうなりますか」


 「握りつぶされるのさ。紙ごとね」


 「その紙が読める偉いさんに読ませりゃいいのさ。あんたが叫ぶんじゃない。紙に、叫ばせな」


 「読める偉いさんに心当たりがありません」


 「今夜なくても、いつかはできるかもしれないよ。宿ってのはね、いろんな人が通るんだ」マノンはよっこらと立ち上がった。「まあ、今夜考えることじゃない。寝な。数字は逃げないんだろう」


 「マノンさんは、どうして、それより先を訊かないんですか」


 「訊いてほしそうな顔じゃなかったからね」戸口で、マノンは振り向かずに言った。「訊いてほしくなったら、そのときに話しな」


 「……はい」




 マノンが戻っていくと、帳場はまた静かになった。


 紙に、叫ばせな。


 ミラが叫んでも、追い出された拾い子の声など誰も拾わない。けれど、この頁の数字は読める者が読めば、それだけで叫ぶ。帳面は一度合わないと知れたら、もう二度と合っては見えない。


 問題は、その先だった。この数字を読み、正しく裁く場所へ運べる者に、ミラは心当たりが一人もなかった。伯爵家の門は、もう二度と開かない。


 屋敷を出る朝、ミラは胸のなかで呟いた。合わない数字は、いつか必ず、合わせる人を待っている、と。


 その人が、まさか自分だとは思わなかった。


 そして、合わせたところでその数字を運ぶ手を、自分がまだ持っていないことも。


 蝋燭がじりと音を立てて、また一段短くなった。板の間の鼾が遠くで一つ途切れて、また続いた。


 ミラは帳簿を閉じなかった。九リーヴル十二ソルの頁を開いたまま、朝の光でその数字がどう見えるのかを確かめたかった。


 数字は逃げない。逃げないから、朝が来ても二割はきっと同じ顔でそこにいる。

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