第4話: 同じ財布
朝の市は、音で値がわかる。
威勢のいい店ほど、売り急いでいる。値を下げてもはけない品を抱えているからだ。低く構えた店は強気だ。
麦はひと袋十五ソルの札の前で売り手がわずかに声を張っていた。羊毛の梱は静かだった。
声の高さと札の値は、だいたい逆に動く。
ミラは声の高さだけで、その店のだいたいの相場を勘定してしまう。テュレの市を四日眺めただけで、値の癖が読めてきた。
早春の風はまだ冷たい。それでも市の泥は朝の日でゆるみはじめている。雪解けは、もう遠くない。
「マノンさん。葡萄酒に詳しい人を、ご存じですか」
朝、粥の椀を置くマノンに訊いた。
「仲買のヴァロだね。今朝までうちにいる。荷を預けてあるよ」
「口は」
「軽い。だから、聞き出すにはいい」マノンは声を落とした。「ただし、あんたの用の中身までは喋るんじゃないよ。あの手の男は、話を運ぶのも商売のうちだ」
旅の商人は、運送宿に泊まる。荷を預け、馬を替え、また街道へ出ていく者たち。ミラは朝から、板の間でその男を待っていた。
待つあいだも、耳は板の間の銭の音を数えていた。癖は、休みの日を知らない。
ヴァロという男だった。
日に焼けた首に荷紐の跡が幾筋も残っている。指には、値打ちの違う指輪が三つ。
旅の商人は財産を身につけて歩く。ミラはその指輪の数で、この男がそこそこ稼いでいることを読んだ。
「お嬢ちゃんが、俺に用かい」
ヴァロは椀の酒を舐めながら言った。朝から飲む男はたいてい気が大きい。
ただ、酒気を帯びていても値の話になるとこの男の目は乾いた。
「葡萄酒の相場を、うかがいたいんです」
「相場」ヴァロは片眉を上げた。「へえ。宿の若いのが相場を訊くのかい」
「ここの帳面をあずかっているので。仕入れの値がまっとうかどうか、知りたくて」
半分は嘘で、半分は本当だった。ミラはいま、確かに一つの帳面のことを考えていた。
テュレの宿のではない、もっと古い帳面のことを。そこに何百回と書きつけたロシュという名前のことを。
「感心な若いのだ」ヴァロは笑った。「いいだろう。何が知りたい」
「お代は」
「いらねえが、俺の相場は言っとく。話は銭にならんが、退屈は銭より高くつく。つまらん問いなら、途中でやめるぜ」
「面白いかどうかは、訊いてみないと」
「言うね」
「葡萄酒は一樽、いくらですか」
「今年か。今年は、八リーヴル前後だな。豊作でも不作でもねえ、まっとうな年だ」
「去年は」
「去年は少し高かった。八と半分ってとこか。おととしは七リーヴル半。安い年だった」
「四年前は」
「よく覚えてろってか」ヴァロは天井を見た。「昔の値までは請け合えねえ。ただ、霜で蔓がやられた年は跳ねた。それでも次の年には戻った。相場ってのはそういうもんだ」
ミラは頭のなかにその数字を並べた。八。八と半分。七と半分。上下に、揺れている。
相場というのは、そういうものだ。豊かな年は下がり、乏しい年は上がる。両側に、振れる。
エルフェルト家の帳面は両側に振れなかった。ずっと、上だけだった。
「樽材はいかがですか。ひと組で」
「樽屋の話か。俺は中身の側だがな」ヴァロは顎を掻いた。「樽ごと運ぶから値は知ってる。今年は二リーヴル前後。こっちもまっとうだ」
「年で、揺れますか」
「揺れる。材木も作物と同じでな、出来のいい年と悪い年がある。二リーヴルを挟んで上にも下にも行く」
樽材も、両側に振れる。エルフェルト家の樽材は振れなかった。葡萄酒と同じ癖で、上にだけ。
「土地で、値は変わりますか」ミラは訊いた。「北のほうと、南のほうで」
「そりゃ、多少はな。運び賃がかかる分、遠くの葡萄酒は高くつく。だが」
ヴァロは、指を一本立てた。
「一樽で、せいぜい半リーヴルの違いだ。二割も違ったら、そりゃもう葡萄酒の値じゃねえ」
「札の値は、誰が決めるのですか」
「決めるんじゃねえ。写すんだ」ヴァロは市のほうへ顎をやった。「商会連合の書役が実際についた値を集めて、月に二度書き換える。だから札は嘘をつけねえ。嘘を書きゃ次の市で誰も従わなくなる」
二割。
ミラはその言葉を口にしていなかった。ヴァロが、勝手に言ったのだ。まるで、ミラの胸の奥にある数字を覗いたみたいに。
「なあ、お嬢ちゃん」
ヴァロは椀を置いた。急に、目の光が商人のものになった。
「俺が二割と言ったとき、あんたの手が止まった。宿の仕入れで、そんなに吹っかけられてんのか」
ミラは少し迷った。それから、いちばん当たり障りのない訊き方を選んだ。
「もし、ある家が何年も相場より二割高く葡萄酒を買い続けていたら。それはどういうことでしょうか」
ヴァロは口の端で笑った。長く商売をしてきた男の、底の見えない笑い方だった。
「二割高く買い続ける奴はな、二種類しかいねえ」
「二種類」
「一つは、よほどの馬鹿だ。値も見ずに言い値で買う。まあ、そういう金持ちもいる」
「その馬鹿は、続きますか」
「続かねえ」ヴァロは即答した。「馬鹿は三年で潰れる。何年もつづく馬鹿はいねえよ」
ヴァロは、指を二本立てた。
「もう一つは——売り手と買い手が、同じ財布の中にいる場合だ」
板の間の荷運びたちのざわめきが急に遠くなった。
「同じ、財布」
「そういうことだ」
「顔を見ないで続く商いは、ありますか」
「ある。手紙と為替で回す遠国の商いだ」ヴァロは椀を回した。「だがそれも、初めに一度は顔を合わせてる。初めから終いまで顔なし、ってのは聞かねえな」
「高く買ったことにして、差額をこっそり自分の懐に戻す。買う側と売る側が裏でつながってりゃ、いくらでも高く買える。損しちゃいねえからな。そこに、旨みが出る」
ヴァロは、椀を持ち上げた。
「まっとうな市じゃ、できねえ芸当だ。だが、身内うちの取り引きなら話は別さ」
ミラはしばらく何も言えなかった。
ヴァロの言葉は、するりと胸の奥のあの棚に収まった。
八リーヴルの隣に。会ったことのない名前の隣に。
高く買ったことにして、差額を懐に戻す。売り手と買い手が、同じ財布。
ヴァロは二種類だと言った。よほどの馬鹿か、同じ財布か。
エルフェルト家は馬鹿ではない。当主は一ソルの無駄も嫌う男だった。値も見ずに、二割を十一年払い続ける家ではない。
だとすれば、残る答えは、もう一つしかなかった。
エルフェルト家はロシュから、二割高く買い続けた。そのロシュをミラは一度も見たことがない。
取り引きは、いつも当主が手ずから差配した。
そして、その数字をきれいに書き写してきたのはミラだった。
胃の底が冷えた。もし、ヴァロの言うとおりなら。二割の差額が、どこかの懐に消えていたのなら。
それをまっとうな仕入れに見せかけていたのは、ミラの字だ。十一年、一度も間違えず几帳面に。
ミラの正確さが、その綻びをいちばん見えにくくしていた。
無能な養女は、ずっと、有能な帳簿係だった。有能だったから、誰も帳面を疑わなかった。
考えかけて、ミラの思考はこつんと壁に当たった。
もし、ロシュが実在しないなら。ヴァロの言うとおりだ。売り手と買い手が同じ財布なら、二割はいくらでも書ける。
けれど、ロシュは十一年、確かに帳面にいた。仕入れのたびに、その名が記された。実在する売り手のはずだった。
会ったことがないだけで、いないとは限らない。手紙で回す遠い商いも、あるとヴァロは言った。
実在しない売り手を、実在するかのように十一年書き続ける。そんなことが、できるものだろうか。
できるとしたら、それを書かせていたのは誰か。
ミラはそこから先を、まだ考えたくなかった。
「役に立ったかい」
ヴァロが椀を干して立ち上がった。もう街道へ出る刻限らしい。
「はい。とても」とミラは答えた。「代金は、いかほど」
「話し相手の駄賃かい」ヴァロは豪快に笑った。「いらねえよ。久しぶりに相場のわかる若いのと話した。こっちが、いい暇つぶしをもらった」
「暇つぶしにしては、高い話でした」ミラは言った。「一リーヴルでも、足りません」
「なら覚えとけ。人の話をただで聞けるのは、宿と市だけだ」
それを、暇つぶしと呼んでくれる。テュレの人は、みな、値のつけ方が優しかった。
ヴァロは荷を担いで戸口へ向かった。それから、ふと足を止めた。
「お嬢ちゃん。その二割の家、あんたの知り合いかい」
ミラは答えなかった。
「まあ、いいさ」ヴァロは背を向けたまま言った。「ただ、一つ言っとく。そういう旨みの綻びは、外からは見えねえ。中で数えてた奴にしか、見つけられん。せいぜい、気をつけな」
「気をつける、とは」
「銭の話はな」ヴァロは戸口で足を止めたまま振り向かなかった。「たまに、命の話になる」
戸口の光のなかへ、ヴァロは出ていった。荷紐の跡のある首が、往来の人混みに紛れて消えた。
板の間の銭の音が、また元の速さに戻った。
「聞けたかい」
板の間を拭きに来たマノンが通りすがりに言った。
「はい。外の値と、それから」ミラは言葉を選んだ。「値のつけようのない話を、一つ」
ヴァロが消えた戸口を、ミラはしばらく見ていた。その一言だけが、まっすぐ胸に刺さっていた。
中で数えてた奴。十一年、この家の数字を誰よりも近くで数えてきたのはミラだった。
ヴァロは一人の商人の心得を言っただけだ。それが、ミラそのものを指していると知りもせず。
その日の午後、ミラはマノンの宿の冠婚葬祭の控えを棚に戻していた。控えの棚は、月の順に並んでいる。
運送宿にも、そういう記録がある。荷主の家の祝い事や弔いに、宿として花や酒を出す。
祝いには酒、弔いには花。宿なりの付き合いの控えだ。
日付を確かめて、棚の順に戻していく。指先は紙の縁で、日付だけを確かめていく。ただの片づけだった。
なのに、指が一枚の控えで止まった。
日付が、二つ書いてある。一つは表に、一つは裏に。同じ祝い事の記録に、違う日付が。
ミラはその控えから指を離せなかった。書き間違いだろう。運送宿の帳面はそういうことがよくある。
エルフェルト家の帳面なら、こんな綻びは、すぐに直した。
直した。
ふと、思った。エルフェルト家の帳面にも、日付が二つある頁がなかっただろうか。
いつだったか。誰の、何の記録だったか。思い出せない。
ただ、指の先がそう覚えている気がした。合わない日付を、いつか見た。あのお屋敷の、どこかの頁で。
ミラは首を振った。いまは、葡萄酒だ。ロシュだ。日付の綻びは、また別の帳面の別の話だった。
ただ、棚の奥はもう一つ順番を増やした。板の間では、もう夕の椀が鳴りはじめている。
控えを戻し、ミラは窓の外を見た。市はもう、店じまいを始めている。
商会の相場札が、午後の風にかたかたと鳴っていた。葡萄酒、一樽、八リーヴル。誰の目にも、同じ値で。
その札がまっすぐに立っているぶんだけ、エルフェルト家の帳面が深く傾いて見えた。




