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第3話: 会ったことのない名前

 マノンの宿に来て、四日が過ぎた。


 朝はいつも同じ音で始まる。厨房の大鍋が湯気を上げ、荷運びの男たちが板の間で銭を数える。


 ミラはその銭の音を寝床のなかで先に勘定してしまう。今朝は八人分の宿代。銅貨でたしか三十六ドニエ。


 合うはずのものが合う。それだけのことがミラには久しぶりに心地よかった。


 起きて、帳場に座る。マノンが黙って粥の椀を横に置いていく。銭は出ないが、飯だけは一日二度きっちり出る。約束は約束だと、この女は言った。


 板の間の隅にはまだ夜の冷えが残っている。雪解けには、あと幾日か。


 取りはぐれには厳しいくせに、約束にはまっすぐな女だった。


 「あんた、夜、寝てるのかい」


 粥を置きながらマノンが言った。


 「寝ています」


 「嘘をおつき。蝋燭の減りが早い。うちの帳面はもう、綻び一つ残っちゃいないだろう。夜中に何を睨んでるんだい」


 ミラは足元の麻袋にちらと目をやった。革表紙の背が暗がりに並んでいる。


 「自分の、宿題です」


 「宿題ってのは、終わりがあるもんだよ」


 「これにも、あります」ミラは言った。「まだ、何問あるのか数えていないだけで」


 「宿題ねえ。学のある子は、言うことが違う」マノンは鼻を鳴らした。「まあ、いいさ。うちの帳面が合ってるうちは、好きにおし」


 「合わせます。それは、得意なので」


 マノンは、それ以上訊かなかった。訊かないのが、この女のやり方だった。ただ、粥の椀の横に新しい蝋燭を一本、無言で置いていった。




 昼過ぎに揉め事が持ち込まれた。


 コラルという荷運びだった。四日前、取りはぐれを拾ったときに名前だけ聞いた男だ。いつも後払いで帳面を濁す常連らしい。


 赤い顔で、帳場に立っていた。


 「先月の預かり料は、もう払った。二度は払わん」


 「払ってないよ」とマノンが腕を組む。「印がない」


 「毎度毎度、印だ印だと。荷運びの言葉が信じられんのか」


 「信じてるさ。信じた上で、紙にも書くんだよ」


 「屁理屈を」


 「理屈だよ。屁は付かない」


 「払った。お前んとこの若いのに、たしかに渡した」


 「若いの、というのは」とマノンが返す。


 「痩せた娘だ。そこの、それだよ」


 「うちの帳場だよ。口に気をつけな」


 コラルが、帳場のミラを指さした。板の間の荷運びたちが、どっと沸いた。


 「わたしは、受け取っていません」ミラは帳面に手を置いた。「でも、それはいまは、どちらでもいいことです。紙に訊きます」


 「女将さん、とうとう拾い子に銭を持ち逃げされたかい」と誰かが囃す。


 「うるさいよ」マノンが振り向いて怒鳴った。だが、その声にはいつもの張りがなかった。


 ここで引けば、ほかの後払い連中も右へならえだ。


 ミラは帳面を開いた。


 「コラルさん。その預かり料は、いつ渡しましたか」


 「先月の、市の立つ日だ」


 「市は、二度立っています。前の市ですか。後の市ですか」


 「……覚えてねえ」


 「では、両方見ます」


 先月の二日ぶんの受取を、続けて開いた。


 「後の市の日、二十日です。この受取に、コラルさんの印があります。もう、払っています」


 コラルの赤い顔が、今度はきょとんとした。


 「……あるのか」


 「ご自分の印です。見ますか」


 「い、いや」コラルは首を振った。「俺の印だ、それは」


 「あります。マノンさんが取りはぐれと思っていたのは、別の月の分です。先月ではなく、先々月。こちらは、まだ印がありません」


 板の間が、しんとなった。マノンがミラの指した二つの頁を、代わる代わる睨む。


 「先々月の、七ソル」


 「はい。それだけです。先月の分は、コラルさんの言うとおり、済んでいます」


 コラルはしばらく口を開けたまま突っ立っていた。それから銭袋をまさぐって、七ソルを板の上に置いた。


 「先々月のは……悪かった。忘れてた」


 「忘れていた人は、たいてい、そう言います」とミラは言った。「でも、帳面は忘れません。だから、揉めずに済みます」


 「……次から、先払いにする」


 「それが、いちばん安いです」


 マノンがふっと吹き出した。コラルもつられて笑い、板の間の空気が一度でほどけた。


 コラルは逃げるように出ていった。


 人がはけると、マノンがミラのそばに来て低い声で言った。


 「助かったよ。あたし一人なら、あそこで引いてた」


 「引かなくて、正解です」とミラは言った。「コラルさんは、払っていました。月をひとつ、間違えていただけです。引いていたら、払った人を泥棒にするところでした」


 「こわいことをお言いだね」


 「こわいのは、印を確かめないことです」


 「……耳が痛いよ」


 「逆に、こっちが恥をかくとこだった」マノンは太い指で鼻の頭を掻いた。「あんた、ほんとに、数字しか見てないんだね」


 「数字しか、見えないんです」


 「その目、どこで仕込まれたんだい」


 「習ったわけじゃありません。数えるしか、することがなかったので」


 「……そうかい。じゃあ、うちは当たりの宿だ」


 「もったいない話だね」マノンは板の上の七ソルを、指で自分のほうへ滑らせた。「うちじゃ、遠慮なく数えとくれ」


 「あの手の男は、これで来なくなりますか」


 「来るさ」マノンは七ソルを銭箱に落とした。「帳面の確かな店を、荷運びは離れないよ。揉めない店は、安い店より強い」


 「覚えておきます」


 「あんたはもう、その理屈で動いてるよ」


 その七ソルは、四日前に拾った取りはぐれのひとつだった。言われた一リーヴルが、少しだけ埋まる。


 誰かを言い負かしたのではない。合うべきものを、合うところに戻しただけだ。ミラはそれがうれしかった。




 夜になった。


 男たちの鼾が板の間に満ちる頃、ミラは麻袋の口を開けた。


 昼のあいだ、マノンの宿の数字は合っていた。


 合っていると、かえって合っていないものが放っておけなくなる。


 テュレの相場札。葡萄酒、一樽、八リーヴル。あの数字を見た夜から、棚の奥のものがずっと順番を待っている。


 ミラは醸造の帳簿を年ごとに並べた。


 自分の字が、頁いっぱいに続いている。葡萄酒、一樽の仕入れ値。今年。去年。三年前。五年前。


 八リーヴルの札を物差しにして、一年ずつ指でなぞっていった。


 どの年も、高い。


 二割まではいかない年もある。それより高い年もある。けれど、八リーヴルを下回った年は一つもなかった。


 相場は年で動く。豊作の年も、不作の年もある。安い年が一度もないというのは、それだけでもう自然ではなかった。


 ミラは別の帳簿を引き寄せた。葡萄酒を入れる樽の木材の仕入れ。


 同じだった。


 「……樽まで」


 樽材もどの年も、少しずつ高い。葡萄酒と、同じ癖で。


 同じ手が二冊の帳面に、同じ角度で線を引いたようだった。


 背筋が、すっと冷えた。相場の綾ではこうはならない。葡萄酒と樽材は別の市場で、別の商人が売る。


 二つが同じ癖で高いなら、それは市場のせいではない。二冊をまたいで同じ癖を書ける者。つまり、この家の内側の、誰かの手だ。


 「まだ起きてるのかい」


 「はい」


 声に振り向くと、マノンが戸口に立っていた。


 寝巻きのうえに大きな肩掛けを羽織り、手に燭台をひとつ提げていた。


 「眠れなくてね。厠のついでだよ」


 嘘だ、とミラは思った。この女はミラの蝋燭の灯りを見て、わざわざ起きてきたのだ。


 「その帳面は、うちのじゃないね」マノンが顎で麻袋をしゃくる。


 「わたしが、前にいた家のものです」


 「ずいぶん、こわい顔で睨んでる。うちの帳面のときとは、まるで違う顔だ」


 「どんな顔ですか」


 「取り立ての顔だよ」マノンは笑わずに言った。「誰かから、何かを取り返す顔」


 「取り返すものが、あるのかもしれません」


 「そうかい」


 ミラは頬に手をやった。自分がどんな顔をしていたのかわからなかった。


 マノンは、それ以上は訊かなかった。


 「消えかけの火で読むと、目が銭を食うよ」


 そう言って、燭台の火をミラの短くなった蝋燭に移してくれた。二つの炎が帳場の暗がりを少しだけ押し広げる。


 「飯は、ちゃんと食いな。数字は腹の足しにならないよ」


 「はい。ありがとうございます」


 素直に礼を言うとマノンは少し驚いた顔をした。


 「あんたが礼を言うのは、めずらしいね」


 「数えられないものを、もらったので」


 「なら、高くつくよ」


 マノンは、ふっと笑った。


 「無理はおしよ。数字は逃げないんだから」


 そう言って板の間へ戻っていった。


 数字は逃げない。ほんとうに、そのとおりだった。


 逃げないから、十一年前の数字がいまも同じ顔で、ここにいる。


 まだだ、とミラは自分を止めた。豊かな土地では何もかもが少し高い。エルフェルト領がそういう土地だという見込みも、まだ捨てきれない。


 確かめるには、外の値がいる。テュレの札一枚では足りない。


 確かめよう。明日、旅の商人に葡萄酒と樽材の実勢を訊いてみよう。


 そう決めて、ミラは帳簿を閉じかけた。


 閉じかけて、指が止まった。




 仕入れの記録には売り手の名前が添えてある。誰から買ったか。当たり前のことだ。


 ミラは高い葡萄酒の頁をもう一度めくった。売り手の欄を、上から順に見ていく。


 ロシュ。


 次の年も、ロシュ。その次も、ロシュ。樽材の高い頁も、めくってみた。売り手はやはりロシュだった。


 「ロシュ」


 声に出して読むと、初めて呼ぶ名のようだった。十一年書いて、一度も呼んだことのない名。


 高い仕入れはすべて、その一つの名前に行き着いた。


 ミラはその名前を、指の腹でなぞった。ロシュ。十一年、自分の手で何百回と書き写してきた名前だ。


 書き慣れて、もう考えもせずに書ける。


 なのにミラは思い出せなかった。ロシュという商人の、顔を。


 エルフェルト家には、いろんな商人が出入りした。葡萄酒を買いに来る者。樽を納めに来る者。ミラは帳場の窓から、その顔を何度も見た。値切る声も、覚えている。


 けれど、ロシュだけは一度も見たことがなかった。


 思い返せば、ロシュとの取り引きだけはいつも当主が手ずから差配していた。品物の受け渡しに、帳場のミラは呼ばれない。あとから伝票だけが回ってきて、ミラはその数字を書き写す。


 当時は、それを不思議とも思わなかった。当主みずからの商いなど、あってもおかしくはない。


 十一年、いちばん高く売ってくれた相手。この家がいちばん金を払った相手。


 その相手が、一度も屋敷に顔を出さない。荷を運んでくる馬も、御者も、ミラの記憶にはいない。


 名前だけが、帳簿のなかにいる。


 十一年、ミラはこの名前を疑わなかった。疑うための物差しが、あの家の中にはなかったからだ。高いか安いかは、外の値と並べて初めてわかる。


 そしてミラがその物差しを手にしたのは、四日前だった。テュレの、相場札の八リーヴル。


 ミラは蝋燭の火を名前の上に近づけた。


 ロシュ、と墨の字がゆらりと揺れる。そこにいない者の影のようだった。


 会ったことのない名前が、この家からいちばん多くの金を持っていった。


 その一行がどうしても、帳尻に合わなかった。


 夜の帳場に、蝋燭の芯の爆ぜる音だけが小さく続いた。


 ミラは閉じるはずだった帳簿を、もう一度、開いたままにした。

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