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第2話: 相場という名の物差し

 荷馬車が停まると、ミラはまず、荷を数えた。


 塩の樽が四つ。麻の反物がひと梱。名も知らぬ誰かの木箱が三つ。


 そのいちばん端に革表紙の詰まった自分の袋がある。十一年ぶんの数字が、他人の塩と並んで揺れていた。


 「終いだ。降りな」


 御者が言った。分厚い外套の襟に顎を埋めたまま、この二日、ミラの顔を一度も見なかった男だ。人ではなく、荷だけを運ぶ目をしている。


 降りろと言われて、ミラは初めて自分に行き先がないことを思い出した。


 宿場町テュレの広場は晩冬の泥でぬかるんでいた。雪解けにはまだ遠い。荷を解く男たちの吐く息が白くほどけては消える。


 テュレは街道の結び目の町らしい。荷はここでいったん枝を分け、北へ行くものと南へ下るものに割れる。だから荷が集まり、荷を運ぶ者が集まり、値を決める札が立つ。


 ミラは袋を抱えて馬車を降りた。二日ぶんの距離がそのまま故郷との距離になった。振り返っても、もうエルフェルト家の門は見えない。


 手のなかには銅貨の一枚もなかった。


 当主は宝石も銀も持ち出しを禁じた。かわりに許したのが、誰も欲しがらない古い帳簿だ。


 数字は腹の足しにならない。ネルのくれたパンは、二日目の朝にもう食べ終えていた。


 それでも、ミラは不思議と怖くなかった。数える相手さえあれば生きていける気がした。


 根拠のない自信だったが、十一年でそれだけは身についていた。




 広場の一角に木の掲示板が立っていた。


 商会連合の相場札だ。どの宿場町にもある。


 旅の商人がその日の値を確かめてから取り引きするための、公の物差しだった。


 墨で書かれた数字が、風にわずかに反っている。ミラの目は勝手にそこへ吸い寄せられた。


 十一年、そうやって生きてきた。世界はいつも、まず数字の形をして入ってくる。


 葡萄酒、一樽、八リーヴル。麦はひと袋で十五ソル。羊毛はひと梱で四リーヴル。塩はひと山で一リーヴルと十ソル。


 葡萄酒が、八リーヴル。


 頭のどこかが、その数字を棚にしまった。なぜしまったのか、ミラ自身にもわからなかった。


 ただ、合う合わないを確かめたい数字に出会うと、いつもこうなる。棚の奥で、それは静かに順番を待つ。


 札の前では商人がふたり、声を張り上げていた。


 「八リーヴルだ。札にそう出ている。それ以上は、一ドニエも出さん」


 「今年は不作なんだ。八では、こっちが飢える」


 「不作は、去年も聞いたよ」


 「今年は本当なんだ」


 「なら、札が動くさ」買い手は札を顎で指した。「動いてないだろう。よそで売りな。札より高く買う物好きは、この街道にはいないよ」


 売り手は舌打ちして、樽を荷車に戻した。


 相場札は、ただの紙ではない。誰もがそれを物差しにして、はみ出した値をはじく。


 だからこそ、はみ出した数字は、隠せない。


 ミラはその最後の理屈を、なぜか胸の奥で二度なぞった。それから、首を振った。


 いまは、それどころではなかった。日が傾けば、泥の広場はそのまま寝床になる。晩冬の夜は、無一文の娘には長すぎる。




 広場に面して運送宿が一軒あった。


 荷運びの男たちが飯を食い、馬を替え、荷を預ける宿だ。戸口の脇に預かり荷の受取控えが釘で吊るされている。


 ミラはその控えの数字が並びきっていないことに、通りすがりに気づいてしまった。足が勝手に止まり、目が束の端を三枚ぶん読んだ。


 中に入ると、湯気と獣脂の匂いがした。


 太った女が、大鍋の前で木匙を振っている。四十がらみだろうか。腕がミラの腿ほどある。


 「食うのかい。先に銭を見せな」


 女が振り向きもせずに言った。声だけでこの宿の主だとわかった。


 「お金は、ありません」とミラは答えた。


 「なら出ておいき。ここは施しの宿じゃない」


 「施しは、要りません」


 ミラは出ていかなかった。かわりに、戸口の受取控えを指さした。


 「あの控え、預かり料が合っていません。三件、取りはぐれています」


 女の木匙が止まった。


 「なんだって」


 「荷主から預かり料をもらう前に、荷だけ先に渡した記録が三件。受け取りの印がないんです。合わせて、たぶん一リーヴルと少し」


 女が、初めてミラのほうを向いた。値踏みする目だった。


 ミラはその目に慣れていた。あの家でも、人はいつもそうやって自分を見た。


 「あんた、字が読めるのかい」


 「数字のほうが、得意です」


 「数字ねえ」女は木匙を置いた。「読めて、飯が食えるのかい」


 「今夜、食えるかどうかの話をしています」


 女が、はっ、と短く笑った。




 「あたしはマノン。この宿の主だよ」帳場へ通しながら、女は言った。「亭主が死んでからは、帳面もあたしの仕事でね。見りゃ分かるだろうけど、得意じゃない」


 「控えは、月ごとに括っていますか」


 「そんな上等なもんじゃないよ。溜まったら括る」


 ミラは袋を足元に置き、受取控えの束を広げた。テュレの運送宿の帳簿は、エルフェルト家のそれとは比べものにならないほど雑だった。


 日付の抜け。走り書き。線の引き忘れ。それでも、数字は数字だ。読み方はどこでも変わらない。


 「で、どうなんだい」マノンが腕を組んで見下ろした。「あるのかい、ないのかい。取りはぐれってのは」


 「あります。いま、拾います」


 「拾うって、銭をかい」


 「数字をです。銭は、あとからついてきます」


 ミラは受取と元帳を一枚ずつ突き合わせはじめた。荷を出した記録に、銭を受け取った印が付いているか。それだけを見る。


 「この荷、先々月に出ています。行き先は北の宿場。でも、受け取りの印がありません」


 「どれだい」マノンが横から覗き込んだ。


 「ここです。荷の行と、銭の行。行が二本そろって、一つの取り引きです」


 「コラルだね。あの野郎はいつも後払いだ」


 「コラルさんは、荷運びですか」


 「北まわりのね。腕は悪くないが、銭にはだらしない」


 「後払いなら、後払いと書いておかないと」ミラは紙の端を指で押さえた。「印のない荷は、払ってもらったことにされます。何年か経てば、誰も覚えていません」


 「覚えてるよ。あたしの頭がね」


 「頭は、忙しい日に嘘をつきます」ミラは次の一枚をめくった。「紙は、暇なので嘘をつきません」


 マノンが、鼻から息を吐いた。怒った音ではなかった。


 「それで、いくらだい」


 「この一件で、七ソル。同じ形の抜けが、あと二件」


 ミラはさらに二枚を抜き、横に並べた。マノンの目がその二枚を追う。


 「合わせて、一リーヴルと少し。取りはぐれです」


 「一リーヴル」マノンの声が低くなった。「うちの十日ぶんの稼ぎだよ」


 「それから、こちらは逆かもしれません」


 ミラは別の束を引き寄せ、今度は荷主の名で並べ替えはじめた。


 取りはぐれは、印を見れば済む。けれど、こちらは違う。同じ名前を拾い集めないと、見えてこない。


 しばらく指を動かしてから二枚の受取を並べた。


 「やはり、逆です。この荷主から、同じ荷の預かり料を、二度とっています」


 「二度、取った……あたしがかい」


 「同じ日に、二人の下働きが別々に受け取ったんです。片方は、片方を知りません。返さないと、次から荷が来ません」


 「……返すのかい。一度、懐に入った銭だよ」


 「返します」とミラは言った。「二重取りの評判は、取りはぐれより高くつきます」


 「どこのどいつだい」


 「名は、ここに。読みは、あなたのほうが確かでしょう」


 マノンは行に目を落として、うなった。


 「ああ……あの人かい。知った名だよ」


 太い腕を組んで、ミラの並べた紙をしばらく睨んでいた。それから太い指で二度、頭を掻いた。


 「あたしは字が書ける。数の勘定も、人並みにはできるつもりだった」


 「人並みは、できています」とミラは言った。「ただ、人並みでは、一リーヴルは見つからないだけです」


 マノンがふっと笑った。笑うと目のまわりの皺が深くなった。


 「減らず口だね。どこの家の子だい」


 「……わかりません」


 「わからない?」


 「二日前までは、わかっていたつもりでした」


 マノンは、それ以上訊かなかった。訊かないのが、この女の優しさらしかった。


 かわりに、大鍋のほうへ顎をしゃくった。


 「粥がある。冷めないうちに食いな」


 「いただきます」


 椀を渡しながらマノンは思いついたように付け足した。


 「月末まで、うちの帳面を付けな。寝床と、一日二度の飯を出す。銭は出ないよ」


 「じゅうぶんです」


 「言っとくけど、飯は削らないよ」マノンは木匙を鍋に戻した。「約束は約束だ」


 「そのかわり、さっきの一リーヴル、きっちり取り戻しな」


 「はい。それは、得意なので」


 「頼もしいこと」マノンは鍋に向き直った。「明日は市の日だ。荷が立て込むよ。朝は早い」


 「早いのは、慣れています」


 「それと、あんた」マノンは手を止めずに言った。「その袋の紙、湿気るよ。棚の上に置きな」


 「……ありがとうございます」


 「礼はいいよ。紙が傷んだら、あんたの手が止まるんだろ」




 その夜、ミラは帳場の隅に寝床をもらった。荷物の毛布を二枚重ねただけのものだ。


 それでも壁があり、屋根があり、閉まる戸があった。泥の広場で夜を越すよりは、ずっとよかった。


 麦の粥は、塩がよく効いていた。温かいものが腹に入るのは、追い出されてから初めてだった。


 ミラは椀を両手で包んで、湯気が消えるまでそのままでいた。


 夜が更けて宿の男たちの鼾が聞こえはじめた頃、ミラは自分の袋を開けた。


 誰も欲しがらなかった、十一年ぶんの数字。ここまで運んできて、まだ一度も開いていなかった。


 めくれば、あの家のことを考えてしまう。それが少しだけ怖かった。


 けれど、指は勝手にいちばん上の一冊を抜いていた。醸造の帳簿だ。


 エルフェルト家は葡萄酒を造り、樽で商っていた。ミラが十一年、値を書き写してきた。


 蝋燭の火を近づける。見慣れた自分の字が頁いっぱいに並んでいた。


 葡萄酒、一樽の仕入れ値。


 その数字を見た瞬間、昼間しまった棚の奥の数字がひとりでに戻ってきた。


 テュレの相場札。葡萄酒、一樽、八リーヴル。


 ミラは頁の数字と、もう一度見比べた。


 エルフェルト家が帳簿につけていた葡萄酒の樽の値は、八リーヴルではなかった。もっと、高い。


 「八じゃない」


 思わず口をついた声が暗い帳場に落ちて消えた。


 合わない。


 指先が、頁の上で止まった。心の臓がふだんより少し速く打っていた。


 相場は年で動く。土地でも動く。テュレの札とエルフェルト領の値が、そのまま同じであるはずもない。そう思おうとした。


 思おうとして、うまくいかなかった。


 高すぎる。それも一年だけではない。指がめくった限り、どの年も、少しずつ。まるで誰かが毎年、そうと決めて書いたように。


 書いたのは、ミラ自身だ。言われた値を、言われたとおりに。写す手は、値を疑う手ではなかった。


 蝋燭がじりと音を立てて短くなった。


 ミラは帳簿を閉じた。今日はもう、考えられない。二日ぶんの疲れが、まぶたの裏に重くたまっている。


 合う合わないは、明日の頭で確かめればいい。


 そう決めて目を閉じても、棚の奥の数字だけはいつまでも順番を待って消えなかった。

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