第1話: 自分の値段
十一年、他人の家の帳尻を合わせてきた。なのに自分の値段を、ミラは一度も知らなかった。
それを知らされたのが、この朝だった。
エルフェルト伯爵家の大広間は、朝の光でよく乾いていた。窓の外はまだ雪解けに遠く、光にも冬の匂いが残っている。
長い樫のテーブルの端に、当主ベルナールが肘をついている。その脇で義姉のセリーヌが扇を鳴らした。
ミラは扉のそばに立たされていた。呼ばれて来たのに、椅子はひとつも用意されていない。
「立たせたままで悪いな」悪いと思っていない声で、ベルナールが言った。「話は短い。お前を、この家から出す」
声は柔らかかった。いつもそうだ。この男は、人を切るときほど下手に出る。ミラは顔を上げなかった。
立ったまま、ミラは広間の物を勘定した。動揺すると頭が勝手に数を数えはじめる。
燭台が六。空いた椅子が五。誰も座らせるつもりのない椅子が、五脚。
「返事はないのか」
「うかがっています」
「そうか」ベルナールは満足そうに頷いた。「聞き分けがいいのは、お前の唯一の取り柄だな」
「セリーヌの婚約が決まった。相手はロズレーの侯爵家だ。めでたい話でな」
「侯爵家よ」セリーヌが言った。「聞こえた? 侯爵家。あなたには一生、縁のない言葉でしょうけれど」
「おめでとうございます」
「お祝いなんて要らないわ。あなたのお祝いで婚礼が良くなるわけでもないし」
「祝いの席に拾い子がうろついていては困る。わかるだろう。お前は数字しか読めん。数字しか読めぬ娘に、この家でしてやれることはもう何もない」
何もない、という言葉を、ミラは胸のなかで書き取った。貸方にも借方にも載らない一語だった。
「今日の昼までに出ろ。荷馬車は出してやる。街道の宿場までだ。その先は、お前の足で好きに行け」
「かしこまりました」
「路銀は」ベルナールは指輪の指で机を叩いた。「やらん。この家はお前に十一年、飯と寝床をやった。それで貸し借りは済んでいる。むしろ貸しがあるくらいだ」
貸し借り。その言葉も、ミラは書き取った。この人の帳簿では、そういう勘定になっているらしい。
「宿場から先の、あては」
「ございません」
「だろうな」ベルナールは笑った。「無能に、あてなどあるものか」
顔を上げると、ベルナールの丸い頬があった。
よく肥えた指に、大ぶりの印章指輪が食い込んでいる。その指が、いま自分の十一年に値をつけている。ゼロ、と。
「ひとつ、うかがっても」
自分でも驚くほど、声は落ちついて出た。
「わたしは、この家の帳簿を十一年つけました。醸造も、織物も、家政も。数字しか読めぬ娘に、なぜ十一年も帳簿を任せていらしたのですか」
広間の空気が、わずかに固くなった。セリーヌの扇が止まる。
ベルナールの笑みは動かなかった。ただ、目の奥が一瞬こわばって見えた。
気のせいかもしれない。ミラに読めるのは、人の心ではない。数字だけだ。
「――口の減らない娘だ」
ベルナールは笑って、指を振った。
「任せていたのではない。書き写させていただけだ。犬に骨を持たせるようなものでな。噛んで遊ばせておけば吠えん」
「お父さま、犬は言いすぎですわ」と義姉は言った。それから、初めてミラのほうへ顔を向けた。「わたしと違って、あなたには数える指しか要らないでしょう。指ならどこの家でも動くわ。よかったわね」
淡い青の瞳が、こちらを見ていた。父にも母にも似ない色の瞳だ。ミラはずっと不思議に思ってきた。
帳簿の日付が、たまに数日だけ合わないのと同じように、この家には、合わない色がいくつかある。
言い返す言葉はいくらでも浮かんだ。浮かんだそばから帳消しにした。無能でいるのが、いちばん安い。
「わかりました」とだけ、ミラは言った。
「なによ、その言い方」セリーヌが眉をひそめた。「悔しかったら、いちどくらい言い返してみたら。それとも、言い返す言葉も持ってないの」
「持っていません」とミラは答えた。
嘘だった。言葉なら袋いっぱいに持っている。いま出す気がないだけだ。
その従順さが、セリーヌを苛立たせたらしい。
「つまらない子」セリーヌは言った。「十一年、ずっとそう。つまらない子」
「セリーヌ」ベルナールがたしなめる声を出した。少しも本気ではない声だった。
「だって、お父さま。石に話しかけているみたいなんですもの」扇がミラのほうを指した。「ね、石。あなた、婚礼までには消えてくれるのよね。侯爵家の方々に拾い子の説明なんてしたくないの」
「昼までに、いなくなります」
「そう。それだけは、気が利くのね」
広間の奥の扉が開いて、養母のマルグリットが入ってきた。
いつもの濃紺のドレスだった。喪服のようだと、屋敷の者はみな陰で言う。背筋はまっすぐで、ほつれた髪の一本もない。
この人が声を荒らげたところを、ミラは十一年で一度も見たことがなかった。
マルグリットはテーブルの前で立ち止まり、ミラを見た。濃い灰色の瞳だった。
ミラの瞳も、同じ濃い灰色をしている。
拾い子と奥さまの目の色が同じでも、この家では誰も気に留めない。人の目をまっすぐ覗く者など、ここにはいないからだ。
「支度は」とマルグリットが言った。ミラにというより、宙に問うような言い方だった。
「今朝のうちに」とミラは答えた。「わたしの荷は、もともと多くありません」
「そう」
それだけだった。この人はいつも、用件しか言わない。理由を言わない。
マルグリットはミラの名を呼ばなかった。十一年、一度も呼ばなかった。
あなた、とだけ言う。名を呼ぶほどの値打ちもない拾い子だからだと、ミラは長いあいだそう思ってきた。
「持って出るものは、家の物であってはならん」とベルナールが割り込んだ。「宝石のひとつも銀の匙一本も、な。お前に譲ったものなど、この家にはひとつもない」
「着ているものは」
「くれてやる。拾い子の古着など、誰も要らん」
「では、ひとつだけ」とミラは言った。「帳場の古い帳簿を、いただいても」
ベルナールは声をあげて笑った。
「帳簿だと」
「醸造も織物も、もう用済みの年のものです。黴の匂いのする古い紙束です」
「好きにしろ。犬の寝床にでも敷くがいい。あんな古い数字を、いまさら誰が読む」
「まあ」セリーヌが笑った。「紙くずを欲しがるなんて。趣味まで貧しいのね」
「では、いただいていきます」
「屁理屈だけは達者なのよね」セリーヌが扇で口元を隠した。「昔から」
「捨てる手間が省けていい」ベルナールは肘を戻した。「行く先で焚きつけにでもするんだろう。数字を抱いて凍える犬よりは、利口だ」
誰が読む。その一言だけ、ミラは覚えておいた。
譲られたものなど、この家に何もない。ほんとうに、そうだろうか。
十一年、この娘には読み書きが与えられた。算術も、二つの隣国の言葉も。
無能だ、犬だと言うわりに、教育にかけた費えだけは、帳簿のうえで妙に潤沢だった。
年に二十四リーヴル。熟練の職人が一年働いて稼ぐ額の倍はある。
それが無能な拾い子ひとりの教育に、毎年きちんと計上されていた。誰が、何のために。
その頁を何度も書き写しながら、ミラは一度も問わなかった。問わないのが、いちばん安かった。
いま思えば、それも変な数字のひとつだった。
「行け」ベルナールが手を振った。「二度と、この門をくぐるな」
「はい」
「さよなら、石」セリーヌの声がした。「せいせいするわ」
「下がりなさい」とマルグリットが言った。
冷たい声だった。ミラは一礼した。それから、ふと顔を上げて言った。
「奥さま。十一年、お世話になりました」
マルグリットは答えなかった。ただ、灰色の瞳が一度だけ揺れたように見えた。
それが何なのか、ミラにはわからない。合わない数字を前にしたときに覚える、あの座りの悪さに、どこか似ている気がしただけだ。
ミラは広間を出た。背中に、セリーヌの扇の音がついてきた。
帳場は、屋敷の北のはずれにある。
窓の小さい、日の入らない部屋だった。十一年、ミラの居場所はここだった。
壁の棚に、革表紙の帳簿がびっしりと詰まっている。醸造、織物、家政、冠婚葬祭、教区への寄進。
部門ごとに、月ごとに一冊。仕訳と元帳でさらに二冊に割れる。
先々代からの何十年分。数えたことはないが、三千冊は下らない。
ミラは棚の前に立ち、指の腹で背表紙をなぞった。
どの頁に何が書いてあるか、ほとんど諳んじていた。書き写すとは、そういうことだ。
ミラは決めた。
棚から、いちばん古い一冊を抜いた。十一年前の家政の帳簿。この家に来た年のものだ。
表紙の革は手垢で飴色になっている。この家の者は、古い数字など振り返らない。
一冊では足りない、とすぐに思い直した。わかるのは、この十一年で指が引っかかった年と部門だけだ。
合わない数字を見た覚えのある巻。それを、抱えられるだけ。
ミラは麻袋を広げ、巻を詰め始めた。
「醸造は、あるだけ。寄進の、あの年。家政。冠婚葬祭」
声に出して選んだ。声にすると迷いが出ない。
数十冊で袋は膨れた。三千冊の、ほんのひと握りだ。
袋はたちまち重くなった。肩に食い込む麻の紐が、ようやく、この十一年の目方のように思えた。
犬の寝床にでも敷け、と。
それでいい。無能な拾い子が、いらない古紙をひと袋持って出る。咎める者はいない。
厨房のほうから、小さな足音が近づいてきた。
「ミラさん」
下働きのネルだった。十四になったばかりの、そばかすの浮いた娘だ。
手にパンをひとつ握っている。焼きたてで、布に包んでもまだ湯気の匂いがした。
「これ、持っていって。道中の分」ネルは早口で言った。「厨房頭には内緒。あたしが勝手にやることだから」
「叱られます」
「叱られたら、食べたのはあたしってことにする」ネルはパンを押しつけた。「ほら、冷めちゃう」
「ネルは、字が読めましたか」
「読めないよ。急に、なに」
「手紙が出せないな、と思って」
「じゃあ、覚えといて」ネルはあっさり言った。「あたしのことと、パンのこと。それで足りるでしょ」
「足ります」
「ね、その袋、重くない」
「重い」
「でしょうね」ネルは少し笑った。それから急に、笑うのをやめた。「泣かないのね、ミラさん」
「泣きません」
「あたしが泣きそう」
「あたしね、ミラさんの帳場、ちょっと好きだった」ネルは棚を見上げた。「数字を書いてるとき、ミラさん、歌ってるみたいな顔するから」
歌っている顔。自分では、一度も見たことのない顔だった。
ミラはパンを受け取った。まだ温かかった。
「ありがとう、ネル」
礼を言う声がすこしかすれた。自分でも意外だった。
無能と呼ばれても、追い出されると聞いても平気だったのに、焼きたてのパンひとつで喉の奥がうまく動かない。
「ミラさん、どこへ行くの」ネルが小さな声で訊いた。
「わからない。でも、行くあてならこの袋のなかにある」
「袋のなか」ネルは麻袋を見て、首をかしげた。「帳簿でしょ、それ。帳簿が、あてになるの」
「なるかもしれない。ならないかもしれない」ミラは言った。「でも、読める人のところでは紙は道になる」
「ミラさんの言うこと、ときどきわからない」
「わたしにも、まだうまく言えない」
パン一斤は二ドニエ。値ならすぐに出る。
けれど、いま手のなかにあるものは、二ドニエではなかった。合わない。この温かさは、どうしても帳尻に合わない。
「ミラさん」戸口で、ネルは一度だけ振り向いた。「元気で」
「ネルも」
ネルが行ってしまうと、部屋はまた静かになった。
ミラは、膨れた袋を見下ろして呟いた。
「無能なら、誰も帳簿を見せてくれとは言わない」
負け惜しみのつもりだった。けれど、声に出すと、それは負け惜しみではなかった。
「もう、見せてくれと頼む必要もない。ぜんぶ、この手のなかにあるのだから」
通用口には、荷馬車が一台待っていた。
御者はミラの顔も見なかった。古い袋を、投げるように荷台に載せる。
「重いな。石でも入ってんのか」
「紙です」
「紙ぃ」御者は鼻を鳴らした。「紙なんぞ、まとめて何になる」
ミラは答えなかった。この束が何を記しているか知ったら、どんな顔をするだろう。
「宿場に着いたら、広場で降ろしてください」
「へいへい。紙のお姫さまの、仰せのままに」
門の手前で、ミラは一度だけ振り返った。
北の窓が見えた。帳場の、日の入らない小さな窓だ。
その少し上、二階の廊下の窓辺に、濃紺の影が立っていた。
マルグリットだった。こちらを見ているのか、ただ庭を見ているのか、遠くてわからない。
三月になると、あの人は毎年ひとりで屋敷を出る。行き先を誰にも言わない。帰ってくると、指先がいつも、少し土で汚れている。
白い花を一束買った代金が、その月だけ、帳簿の雑費に紛れて計上される。
誰の墓に手向ける花なのか、ミラは知らなかった。この家で死んだ者の話を、誰もしたがらない。
その死と、あの人の固く結ばれた口とが、どこかで繋がっている。ミラはずっと、そう睨んでいた。
いちばん冷たいこの人が、いちばん多くを隠している。そう思うほうが、この家では自然だった。
合わない数字が、この家にはいくつもある。
宝石でも銀でもない。誰も欲しがらなかった、十一年分の古い数字。
それが、いまミラの肩の上にある。
荷馬車が動き出した。門が、背中でゆっくりと閉じていく。
追い出されたのではない。持って出たのだ。この家がいちばん振り返りたくないものを、ひと袋ぶん、まるごと。
ミラは、そう思うことにした。
膝の上の袋を、両腕で抱え直す。革の匂いがした。古い紙と、乾いた墨の匂い。
十一年、この匂いのなかで生きてきた。
合わない数字は、いつか必ず、合わせる人を待っている。
馬車が石畳を離れ、車輪の音が土の道に変わった。袋のなかで、抱えてきた帳簿が一度だけ、低く鳴った。




