第10話: 誰も見ていない
帳簿でも商会でも、ロシュにはたどり着けなかった。紙の中の道は、もう歩き尽くした。
なら、人に訊く。十一年この家で暮らした者たちに。荷を運び、蔵に納め、樽を検めた手に。誰かはきっとロシュの顔を見ている。
そう思って、ミラとレオは朝いちばんに使用人を広間へ呼んだ。
一昨日、当主と向き合った広間だ。同じ床に今日は、聴き取りの卓が一つ置かれている。
呼ばれて出てきた者たちは、ミラを見て一様に戸惑った。
このあいだまで帳場の隅で数を数えるだけだった、無能な養女。それが今日は監査官の隣に座っている。彼らの目が、その落差を測りかねて宙をさまよった。
ミラはその視線に慣れていた。ただ、慣れていることと平気でいることは違う。膝の上で指を一度だけ握った。
「楽にしてください」レオが言った。「咎める場ではありません。覚えていることを教えてほしいだけです」
最初に呼ばれたのは、蔵番の老人だった。土の匂いのする上着のまま、戸口で深く腰を折る。
ミラは樽材の売り手の名を挙げた。フェリエ。ガロン。
「フェリエなら覚えとります」老人の顔がふっとゆるんだ。「片脚を引きずる爺さんでね。荷車の右の車輪がいつも軋んどった。油をさせと何べん言うても、ささん」
「ガロンは」
「あれは倅を連れてきよる。まだ十かそこらの、樽の数を指で折って数える子でね」老人は目を細めた。「一文でも高うと、こっちが根負けするまで粘る。根っからの商人ですわ」
ミラはうなずいた。フェリエの軋む車輪。ガロンの、指を折る倅。
人が十一年通えば、こういうものが残る。顔と、癖と、車輪の軋みが。人の商いは、帳面の外に足あとを残す。
「では」ミラは声を平らに保った。「ロシュは」
老人の顔から笑いが引いた。
「ロシュ、さん」
「はい。この家がいちばん多く買った相手です。葡萄酒も、樽材も」
老人の指が膝の上で所在なく動いた。数えるものを探す指だった。
老人はしばらく黙っていた。それから困ったように白い眉を寄せた。
「……はて。どんな顔の人でしたかな」
困りごとを隠す顔ではなかった。ほんとうに引き出しが空なのだ。十一年ぶんの記憶の棚に、ロシュの段だけがない。
次の者も同じだった。
馬番はフェリエの馬の名を覚えていた。洗い場の女は、ガロンの倅の当てた継ぎの色まで覚えていた。庭番は、フェリエの爺さまと膝の痛みの話をした昼を覚えていた。
ロシュ、と問うたびに、同じ沈黙が同じ形で落ちた。
厨房頭はフェリエの荷車を裏口で受けた日をいくつも覚えていた。ガロンの倅に余ったパンをやったことも。けれどロシュと問われると、口をつぐんだ。
「ロシュの葡萄酒は蔵にありました。毎年たっぷりと」厨房頭は言葉を選んだ。「フェリエの樽なら、担いだ肩が重さを覚えております。ガロンの荷は木の匂いでわかる。ですがロシュのは、受け取った手ざわりがないのです」
「荷は、どうやって蔵に」
「気づくと入っておりました」厨房頭の声が低くなった。「朝、冷えた蔵を開けると樽だけが積んである。誰が入れたのかは旦那さまのお指図でしたので、わたしどもは数だけ検めて帳場へ回しました」
聴取に入って初めて、レオが口を開いた。
「フェリエやガロンの荷は、あなたが受けた」
「はい」
「ロシュの荷は、あなたが受けていない」
「はい」厨房頭はうつむいた。「その一件だけは、いつも旦那さまが」
言い終えて、彼は自分の手のひらを見た。受けた覚えのない荷の重さをいまさら探すように。
最後に、家令のジェルヴェが呼ばれた。
この家のあらゆる出入りを差配してきた男だ。仕入れも支払いも使用人の給金も、すべてジェルヴェの手を通る。
痩せて背の高い、六十がらみの男だった。折り目のない黒い上着。組んだ手は、帳面のように静かに閉じている。
十一年、この人の指図で家は回ってきた。その指図の外に、ただ一件だけ空白がある。
ミラのことは、名で呼んだためしがない。
「ジェルヴェ」ミラは言った。「あなたはこの家の商いをみな束ねてきました」
「さようでございます」ジェルヴェは答え、わずかに間を置いた。「ミラ、さま」
呼ぶべき名を、その口がいま初めて探した。探して見つけた形が、さま、だった。距離の測り直しが、その一語に入っていた。
ミラはそれを咎めず黙ってうなずいた。
「フェリエとの取引も、ガロンとの取引もあなたが」
「わたくしが値を詰め、証文を交わしました」ジェルヴェは淀みなく答えた。「商いとは、そういうものでございます」
「では、ロシュとの取引も」
ジェルヴェの薄い唇がわずかに動いた。答えるまでに、一拍あった。
「……ロシュの一件だけは、旦那さまが直にお運びでした」
広間が静かになった。
「あなたは、束ねていない」
「はい」ジェルヴェはまっすぐに前を見た。「あの取引にだけは、わたくしは指一本触れておりません。伝票が帳場へ回るのを見ていただけで」
嘘は言っていない、とミラは思った。数字と同じで、突き合わせればわかる。家令は、飾りも弁解もつけずに事実だけを置いた。
レオの目が、そのジェルヴェを測っていた。咎めるというより、こういう男がいる、と確かめるような目だった。
ジェルヴェは一礼して下がった。足音は廊下の敷物の上でほとんど鳴らなかった。
家じゅうの商いを束ねる男が、いちばん大きな仕入れにだけ触れていない。当主が家令を通さずたった一人で差配した相手。それがロシュだった。
使用人が下がると、広間にはミラとレオだけが残った。
朝からの声が消えて、卓の上には聴き取りの紙だけが積まれている。名前の列に、ロシュの行だけが白い。
「妙な家だ」レオがぽつりと言った。「主人というのは、面倒を人に任せるために人を雇う。仕入れの受け渡しなど家令か下男の仕事だ。それを当主が自ら、十一年、一人で」
「いちばん高い相手を、誰より深く隠しました」ミラは言った。「隠すために自分でやったんです。誰の手も通さなければ、誰もロシュの顔を知らずに済む」
レオは卓に指を置いた。
「フェリエとガロンには顔がある。ロシュには、それがない」レオの声が低くなった。「いちばん多く売った相手が、この家の誰の記憶にも残っていない」
「いません」
「人が、いなかったからだ」レオは言った。それから、言い方を選び直した。「少なくとも、ロシュという名の商人が門をくぐったのをこの家の誰も見ていない」
レオは少し考えてから続けた。
「ただ、誰も見ていないというのは、油断のならない言葉だ。ほんとうに来なかったのか、来たのを見るなと言われていたのか」
手袋の指が聴き取りの紙を一枚めくった。
「同じ、見ていない、でも意味が逆になる。この家の口が揃って重いのが、少し気になる」
ミラは、その言葉を胸にしまった。
見るな、と言われる家。それなら、言った者がいる。
ミラは、蔵に積まれていたという樽を思った。
葡萄酒はたしかにあった。樽材もたしかに届いた。物は、ちゃんとそこにある。
けれど、その物を運んできた売り手だけがどこにもいない。物はあり、人がいない。
だとすれば、その物はどこから来たのか。ロシュという名を借りて、誰がこの家に葡萄酒を納めたのか。
答えはまだ出ない。けれど、問いの形ははっきりしてきた。ロシュは名前だった。値を書き込むための、ただの名前。
その名の裏に、別の誰かがいる。
「レオさま」ミラは言った。「これで、当主が盗んだと言えますか」
レオは首を振った。急がない首の振り方だった。
「まだだ」正直な声だった。「当主が仕入れを自分で差配した。それだけなら罪にはならない。用心深い主人だった、で通る。ロシュを見た者がいなくても、証文がそろっていれば言い逃れはできる」
「では、何が要りますか」
「二つのうち、どちらかだ」レオは指を二本立てた。「ロシュという名の裏にいる、本物の顔を見つけるか。あるいは、盗まれた金がどこへ流れて、誰の懐に戻ったかをたどるか」
彼はその二本の指をゆっくり閉じた。
「どちらも、まだこちらの手にはない」
ミラは窓の外に目をやった。
庭では、雪解けの水が細い筋になって流れていた。
この屋敷でミラは長い年月を過ごし、けれど誰一人、その顔をまっすぐに見た者はいなかった。無能な養女。数を数えるだけの、灰色の仕事着。
人々の目はいつも、ミラの上を滑って通り過ぎた。
いま、わかった。この家は、ミラを見なかった。数を読む養女は、灰色の仕事着のうしろでいないのと同じだった。
灰色は、この家でいちばん見えない色だった。
雪解け前の朝、ミラを荷台に乗せた御者を思い出す。二日のあいだ一度もミラの顔を見ず、荷だけを運ぶ目をしていた男。
あの御者は、袋に詰めた十一年ぶんの綻びに、とうとう気づかなかった。見ない者は、見落とす。
ミラだけが見ていた。数字を。そして、数字の向こうにいる見えない一人を。
「探します」ミラは言った。窓の光に目を細めて。「ロシュのほんとうの顔を。この家が見ないふりをしてきたものを、わたしが見ます」
その日の夕、裏庭の井戸端で水を汲んでいたネルが、ミラを見つけて手招きした。
人目のない、塀ぎわの隅だった。桶の水が、夕日を一枚だけ掬っている。井戸の滑車が、まだゆっくり揺れていた。
ネルは桶を置き、少しためらってから小声で言った。両手は、前掛けを握っていた。
「ミラさん。あの、ひとつ、思い出したことが」
「なに」
「去年の秋でした。夜おそく、蔵のほうで荷車の音がしたんです」
ネルは指を組んだ。
「変だな、と思って。荷車が来るのはいつも昼で、裏の門から。なのにその晩は、奥の、旦那さまの持ち山のほうから音がして」
ミラの指が、止まった。
「それを、誰かに言った?」
「言えませんでした。厨房頭に、余計なことを見るなと」
ネルはうつむいた。
「この家は、みんなそうです。見たことも、見なかったことにして。でも、ミラさんになら」
言ってから、ネルは自分の口を手で押さえた。言ってしまったという顔だった。
見るなと言われていた。やはり、そうだ。レオの言葉が胸に戻ってくる。
誰も見ていないのではない。見ないことに、させられていた。
この家の口を揃って重くしていたものが、いま、ほんの少しだけ開いた。
ミラは、ネルの手を両手で包んだ。ネルの指は水仕事で荒れて冷たかった。
「ありがとう、ネル」ミラは言った。「それは、たぶんいちばん大事な一つよ。あなたが、最初に口を開いてくれた」
ネルの目に、安堵と怖さが半分ずつ浮かんだ。それでも目は逸らされなかった。
その晩の音は、夜ふけの、当主の山の側からした。いつもの昼の裏門とは逆の方角。
ロシュの荷が、もし本当にそこから来ていたのなら。
日が山の端に沈んでいく。ミラはその山の影を、長いこと見ていた。
あの山の向こうに、顔のない売り手のほんとうの顔がある。
夕餉の鐘が遠くで鳴った。




