第11話: 二割の山
「けっきょく、いくら盗まれたのだろうな」
夜の帳場だった。聴き取りの一日が終わり、書記たちは離れへ下がっている。
卓の上には、昼のあいだに増えた紙の束。昼間の広間の声が、まだ耳のどこかに残っている。
臨検の書き物を片づけ終えたレオが、卓の向こうでひとりごとのように言った。
ミラは手を止めた。羽ペンの先で、インクが一滴乾きかけていた。
「……数えて、いません」
「数えていない?」
「二割が『ある』ことは、幾度も確かめました」ミラは言った。「でも、その二割が『いくら』なのかは、足したことが一度もありません」
言ってしまってから、ミラはその事実に自分で驚いた。十一年、二割を見つめ続けて、その総和を一度も出していない。
綻びの形は知っていた。けれど、その大きさを知らなかった。形を追うのに夢中で重さを量るのを忘れていた。
レオが卓に肘をついた。手袋が、木の面で小さく鳴った。
「では、数えてくれ」低い声だった。「監査院を動かすには、綻びがある、では足りない。いくら盗まれたか、その一つの数字が要る」
ミラは蝋燭を引き寄せた。
ミラは新しい紙を一枚、卓の真ん中に置いた。列の頭に、年、と書く。
「やり方は、決まっています」ミラは麻袋から醸造の控えを出し、頁を順に開いた。「ロシュに払ったことにした値は、どの年も公示のきっかり一・二倍。上乗せの二割は、付け値の六分の一にあたります」
「六分の一」レオは眉を寄せた。「二割なら五分の一では」
「公示を一とすれば、付け値は一・二です」ミラは紙の端に短い線を二本引いた。「上乗せの〇・二は、一・二から見れば六分の一。付け値の側から割るなら、六です」
「なるほど。分からん」
レオは正直に言った。
「分からんが、あなたの指は迷っていない。それで足りる」
「前にも、言われました」
「言った気がする」
数の理屈は、たぶん半分も追えていない。それでも口を挟まず、ミラの指が動くのを見ていた。
ミラは、今年の頁を開いた。
「今年、この家がロシュに払ったことにした葡萄酒と樽材は、しめて百二十リーヴル」六で割る。「二十リーヴル。今年、この家から消えた二割です」
「二十リーヴル」レオが低く繰り返した。「あなたの話していた宿場町の女将。一リーヴルの取りはぐれを、十日ぶんの稼ぎだと言ったそうだな」
「はい。二十リーヴルなら、あの忙しい宿の、半年ぶんです」
「それが、十一回」
「はい。まだ、足しはじめたところです」
それが一年で、この家の帳面から音もなく消えていた。
ミラは去年の頁をめくった。
「去年は百二十六リーヴル。六で割って、二十一」足す。「四十一リーヴル」
「おととし」
「九十六リーヴル。六で割って、十六」足す。「五十七リーヴル」
五十七。あの宿の、一年半ぶん。数えの言葉に、暮らしの目盛りがつきはじめていた。
数が頁をめくるごとに膨れていく。
単年で見れば、この三年はどれも二十リーヴル前後にとどまった。伯爵家の帳面では埋もれる額だ。相場のぶれ、と言い張ることもできなくはない。
「あの人は、これを知っていました」ふと、ミラは言った。
「なにを」
「なぜ、二割だったのか、です」ミラは頁の上で指を止めた。「三割なら目立ちます。一割では、旨みがない」
指の下で、数字は静かだった。
「二割は、大きすぎず小さすぎず、一年ぶんずつなら誰の目にも留まらない高さでした。あの人は、見過ごされる高さを選んで盗んでいたんです」
「知恵の使いどころを間違えた人だ」
「はい。惜しい、と思ってしまいました。思ってから、少し自分が嫌になりました」
「一年ぶんずつなら、な」レオが言った。
「はい」ミラは次の頁をめくった。「足すと、話が変わります」
三年前。四年前。五年前。付け値を六で割り、前の年に足していく。
頁の端が、指の脂で薄く光りはじめる。夜が深くなる速さと累計の増える速さが、途中から同じになった。
付け値は年ごとに違う。樽の数も違う。変わらないのは、割る六だけだ。
途中で新しい蝋燭に火を移したのは、レオだった。手袋のまま慣れない手つきで。
「灯りは、わたしの仕事でしょう」
「今夜は、あなたの手は数える手だ。ほかのことに使わせない」
蝋燭の芯が伸びればミラが鋏で切る。灯りが立ち直る。数も、立ち直る。
ミラの手は、止まらなかった。
「いくつに、なった」レオが低く訊いた。ミラの手元を見つめる目が動かない。
「百を、越えました」ミラは手を止めずに答えた。指先がかすかに冷たい。「あと、五年ぶんあります」
「百リーヴル」
レオは繰り返した。それきり、黙った。黙り方で伝わるものがある。
止めれば、この山がまた誰にも見えないところへ沈んでいく気がした。だからミラは、めくる手を止めなかった。
六年前。
六年前の差し引きには、ソルの尾が出た。リーヴルで割り切れない年だ。
「尾は、どうする」
「尾のまま、持っていきます」ミラは欄の端に書き留めた。「丸めると、丸めた分だけ嘘になります」
七年前。八年前。九年前。十年前。
めくるたび、紙の音が乾いて鳴った。インク壺の底が見えはじめていた。書記のいない夜の帳場で、数えているのは世界でミラ一人だった。
レオの影が頁の上に長く落ちて、動かなかった。
ミラが初めてこの家の帳場を任された、その年まで。
最後の一年を足す。指が、最後の桁を書き終えた。
ミラはペンを置いた。
帳場が、静かになった。蝋燭の火だけが、小さく揺れて音を立てない。
「しめて」ミラは言った。声が、少し掠れた。「二百三十一リーヴルと、八ソル」
レオは、動かなかった。蝋燭の火が、二人の影を壁に長く伸ばしている。窓の外で夜鳥が一度鳴いて、やんだ。
帳面を扱う仕事を、レオも長くしてきたはずだった。それでも、この一つの数字の前では言葉を探しあぐねているように見えた。
ミラはその数字をもう一度見た。桁を間違えていないか二度確かめる。間違いは、なかった。
自分の書いた総和が他人の数字のように遠かった。
公示は年ごとに揺れる。きれいに割り切れる年もあれば、数ソルの尾を残す年もあった。
ミラは、その尾の一つまでこぼさず足した。末尾の八ソルは、十一年ぶんの端が寄り集まった数だった。
二百三十一リーヴル。この家は十一年かけて、ミラ自身の帳面からそれだけの金を抜き取っていた。
声に出しては、言わなかった。言うには、まだ数字が生々しすぎた。
「二百三十一リーヴル」レオがようやく口を開いた。「その女将の宿なら、何年ぶんだ」
ミラは頭のなかで桁を繰った。
「六年です」ミラは言った。「あの宿が六年、身を粉にして働いてやっと届く額です」
「六年」レオは繰り返した。「人の六年を、この家は十一年かけて呑んだわけだ」
「呑んで、誰にも気づかれませんでした。……わたしにも」
六年。ミラはその重さを、はじめて目方として感じた。
テュレの板の間の、朝の銭の音を思い出す。八人分で三十六ドニエ。あの音を千五百回あまり重ねてようやく届く高さだった。
追い出された朝、ミラの手のなかには銅貨の一枚もなかった。誰も欲しがらない古い帳簿だけを抱えて雪解け前の道に降ろされた。
その同じ帳簿のなかに、これだけの金が埋もれていた。数える者がいなければ、いつまでも埋もれたままの金の山が。
無能な養女、数字しか読めぬ犬。そう言われた娘だけが、この山の高さを一ソルまで数えられた。
この数字を書いたのも、ミラの手だった。十一年、伝票のとおりに桁ひとつ違えず写してきた。二割が隠れていることも知らずに。
あのころ間違えなかった同じ手が、覆っていたものをいま暴いている。
「あなたは」レオが低く言った。「この家でいちばん値打ちのある人だった。あの人は、それを認めるのがこわかったんだろう」
ミラは顔を上げた。なんと答えていいか、わからない。
値打ち。その言葉を胸の帳面に書きかけて、やめた。書くと何かが崩れる気がした。
だから、帳簿に目を戻した。
短い眠りのあいだも、指は数を繰っていた気がする。
朝が来て、ミラは十一年を畳んだ一枚の紙を、レオの手に渡した。
年。付け値。割った六。差額。累計。五つの列が十一段、いちばん下に太く総和。夜のうちに三度写し直した紙だ。数字は同じでも、線の引き方ひとつで読みやすさが変わる。
監査官が一目で読める形。それが、この紙の仕事だった。
「読みやすい」受け取ってレオは短く言った。「あなたの紙は、読む者の時間を盗まない」
「読みにくい数字は、それだけで少し、嘘に似ますから」
「これは、紛れません」レオは紙のいちばん下の総和を指した。「単年なら、運の悪い仕入れだと言い張れる。だが、二割の高値がたまたま十一年続く相場など、この世にない」
手袋の指が総和の行をゆっくりと撫でた。
「この一行が、あの人の言い訳を根元から断ちます」
ミラは、少しだけ息を整えた。
「立件、できますか」
「これだけの高さなら、監査院は動く」レオはうなずいた。「単年の綻びなら見逃す役人も、これだけの山は見て見ぬふりができない」
握りつぶされるのさ、紙ごとね。マノンの声が、ふと耳の奥で鳴った。
「二百三十一リーヴルは、もう、一人の貴族の面子で握りつぶせる額ではない」
紙は、重さで守られることがある。あの夜の言葉の続きを、ミラはいま初めて理解した。
ミラは、少しだけ息をついた。
街道で三日待って、やっと会えた監査官。その手に十一年が、ようやく刃の形になって渡った。
長いあいだ、この綻びを読める目はあっても、それを裁ける場所へ運ぶ手がなかった。いまその二つが一枚の紙の前にそろっている。
だが、とレオは続けた。総和を指したまま、その目にまた猟犬の光が差した。
「これだけの金は、蒸発しない。いまもどこかに積もっている。誰かの蔵か、土地か、名義の下に」
ミラは、ネルの言葉を思った。夜の、持ち山からの荷車。
窓の外、朝靄の奥に山の稜線が薄く見えた。きのうまで、ただの景色だった。山の名をミラはまだ知らない。
金が家の外へ出ていないなら、この二割の山は家のすぐ近くに積もっているはずだ。
「持ち山を、見に行きますか」ミラは言った。
「行く」レオは言った。「金は、隠せても動かせない。どんなに深く埋めても、それだけの重さはいつか土の面に跡を残す」
手袋の指が、窓の外の稜線をなぞるように動いた。
ミラは、その一枚を麻袋の帳簿のいちばん上に挟んだ。袋の口を結ぶ手が、いつもより一巻き多く紐を回した。
十一年を足した、たった一行。無能と呼ばれた養女が一人きりで数え上げた、この家の罪の目方だった。
朝の帳場に、書記たちの戻ってくる物音がした。
帳場の紙の上にあった綻びが、はじめて屋敷の塀を越える。
二割の山は、当主の持ち山のどこかで掘り起こされるのを待っていた。明日、ミラはそこへ行く。
山は、逃げない。数字と、同じに。




