第12話: ロシュへ
朝の早いうちに、二人は屋敷を出た。門番は、こんども黙って扉を開けた。
屋敷の窓のどれかから、誰かが見ていたかもしれない。ミラは振り返らなかった。
当主の持ち山は、領地の北のはずれにあった。塀を出て、ぬかるむ道を半日ほど北へ歩く。
霜柱が道の際でまだ立っている。踏むと罪のない音がした。
ミラは十一年この家にいて、その山へ一度も足を向けたことがなかった。用がなかったのだ。
ロシュの荷はいつも向こうから夜のうちに届いていた。
ミラの側からロシュへ行く道は、はじめから引かれていなかった。
レオは歩きながらほとんど喋らなかった。喋らないことで、考えているのが分かった。
「ロシュを探しに行くんですね」ミラは言った。
「そうだ」レオは前を見たまま答えた。「顔のない売り手に、いいかげん顔をつけてやらないとな」
「山道は、はじめてですか」
「あなたこそ」
「はい。屋敷の外は、テュレとここだけです」ミラは言った。「これは帳場の靴ですし」
「いい靴とは言えないな」
「歩きながら、訊いてもいいですか」
「歩きながらなら」
「監査官は、いつも二人で動くものですか」
「いや。ふつうは書記を連れる」レオは前を見たまま言った。「今日は、足の速さを採った」
道の両側は枯れた葡萄畑だった。冬を越した蔓が黒く縮れて棚に絡んでいる。春が来れば、ここに緑が戻るのだろう。
道が上りにかかると、北の山が正面に立った。なだらかな、岩の多い丘だ。
名を知らないまま、ミラは一度だけ立ち止まってそれを見た。
それから、畑の連なりに目を戻して、ふと気づいた。
畑が、途切れずに続いている。屋敷の畑ではない。もっと北の、当主の山のほうまで同じ棚が同じ向きで並ぶ。
まるで屋敷と山とが、地面の下で一つにつながっているように。
昼を過ぎて、二人は山のふもとに着いた。風が変わって、土の匂いに樹脂の匂いが混じる。斧の音は、その匂いの奥から届いていた。
斜面には、段々に若い葡萄の木が植え足されている。木々のあいだを、踏み固められた道が上へ延びていた。
ミラは息を整えるのに気を取られて、それ以上は見なかった。
入口で、老いた男が薪を割っていた。斧の音が、二つ数えるほどの間を置いて規則正しく響く。
日に焼けた顔に白い無精髭。山守だろう。二人を見て、手を止めた。斧は下ろしたまま。
「役人さんかね」男は言った。「こんな山に何の用で」
レオが王室監査院の紋章を見せた。男の顔がこわばる。
「この山のことを少し訊きたい」レオは言った。「ここは、なんという山だ」
「なんと言われても、ロシュですよ」男は当たり前のことのように答えた。「昔から、この丘をロシュと呼ぶ。ロシュの葡萄、ロシュの樽。わしらは、そう呼んどります」
「ロシュ、というのは」
「さあ。じいさまの代からそう呼ぶで」男は肩をすくめた。「岩の多い丘という意味だと、聞いたような聞かんような」
ミラの足が止まった。だが男はまだ、その名の重さに気づいていない。
「葡萄酒を屋敷へ運んでいたのは」レオが続けた。「誰だ」
「旦那さまですよ」男は言った。「夜に、自分で差配なさる。わしらは樽を積むだけで、どこへ運ぶかも教えられちゃいない。妙な話だとは思っとりましたがね」
「妙、とは」
「売り先を隠す酒なんぞろくなもんじゃなかろうと」男は口ごもった。「いや、旦那さまの酒だで、妙もなにもないんですがね」
問われる前に、男は続けた。掠れの取れない声で。
「積むのは、いつも夜でした。月のない晩を旦那さまは選びなさる。荷車に灯りはつけん。わしが訊いたのは一度きりで」
「何と訊いた」
「どちらへ運びなさる、と」
「答えは」
「余計なことを訊くな、と」男は薪を握り直した。「それきり訊いとりません。訊かんほうが、給金のいい山ですで」
月のない晩。灯りのない荷車。聞けば聞くほど、それは商いの形をしていなかった。
「搾りも、ここで?」
「へえ。秋には人を入れます。日雇いの、よその村の者を」男は言った。「屋敷の者は使いなさらん。一人も」
屋敷の者を入れない。顔と名の知れた者をこの山に近づけない。徹底は、そこまで及んでいた。
男が先に立って、奥の小屋まで二人を導いた。
小屋のまわりに、葡萄を搾る古い圧搾機。その脇に、樽材を割る作業場。組んだ木はまだ白かった。
削り屑の匂いがまだ薄く残っている。ここは、生きている作業場だった。
軒下に、屋敷の蔵に納められてきたのと同じ形の空樽が積まれている。
戸に鍵はなかった。窓は一つきりで、北向き。昼でも小屋の中は薄暗い。夜の商いに、ちょうどいい暗さだった。
この山とロシュを一つに結べる者などこの世にいない。当主はそう信じきっていたのだろう。だから、隠しもしなかった。
中の卓に、埃をかぶった革表紙の控えが一冊。表紙の埃に指の跡はなかった。長く、誰も開いていない。
ミラは、それを手に取った。
開いて、息が止まった。
出荷の記録だった。葡萄酒、何樽。樽材、何組。ロシュから屋敷へ売った側の控え。
ミラが十一年、買った側からしか見てこなかった取引の裏が、そこにあった。
卓の抽斗には、封蝋の棒と使いさしの蝋燭。それから、小さな秤がひとつ。
樽の重さを量る秤ではない。金貨の目方を量る、両替屋の使う小さな秤だった。
鎖は絡まりもせず掛かっている。手入れの行き届いた道具の、掛かり方だった。
「金は、ここで受け取っていたのかもしれません」
「あるいは、ここで数えていたか」
その字を、ミラは知っていた。
十一年、毎日この字を写してきた。屋敷の帳場に回ってくるロシュへの支払いの伝票。
あれは誰にも書かせず、旦那さまが手ずから書いたものだった。
ミラはその字を一つずつ元帳へ移し、間違いがないか指で撫でるように確かめてきた。
目を閉じても書ける字だった。ミラ自身の字が、十一年この字の後ろをついて歩いてきたのだから。
撥ねが、わずかに右へ流れる。
八の字を上から書きはじめる癖も、線の終いをそっと持ち上げる止め方も、十一年見てきたそのままだった。
紙が違っても、インクが違っても手は同じ歩き方をする。
「レオさま」ミラは言った。「この出荷控えを書いた手は、屋敷の伝票を書いた手と同じです。旦那さまの手です」
「筆跡だけで、そこまで言えるか」
「わたしは、鑑定人ではありません」ミラは控えを卓に置いた。「でも十一年、この手を写してきました」
「見間違いという線は」
「あります。だから、わたしの目を証拠の一つ目にしないでください」ミラは言った。「それに、さっきの山守の話です。ロシュはこの丘の名でした。商会にも、ロシュという名の売り手は届いていません」
レオの目が、細くなった。
「筆跡は、それ一枚では足りない」彼は言った。「だが、商会に名のない売り手、誰も見ていない荷、十一年きっかりの二割、夜に当主の山から出る樽。それらと束ねれば、この一枚が言い逃れを閉じる」
やりとりを聞いていた山守の顔がゆっくり変わった。
夜の荷と、山の名と、役人の紋章が、その頭のなかで一本の線に結ばれていく。
「……旦那さまは」男は掠れた声で言った。「この山の酒を、この山の名で、屋敷に売っとったんで?」
誰も、答えなかった。答えはもう、その問いのなかにあった。
ミラは卓の控えを見下ろした。ロシュ。十一年、何百回と書き写した名前。
会ったことのない売り手。荷を運ぶ馬も、御者も、記憶になかった相手。
実在しない人の名を、ミラは誰より丁寧に書いてきた。宛のない手紙を毎日書かされていたようなものだった。
「ロシュは」ミラは言った。「人じゃ、なかったんですね」
「ああ」レオは低く答えた。その低さが、確定の重さだった。
「顔を探して、半日も歩いて」ミラは足もとの地面に目を落とした。「売り手は、この丘でした。人じゃなく、地面だった。ここにずっとあったんです。誰も、確かめに来なかっただけで」
かわりにあったのは、ミラがずっと見てきた屋敷の主の、あの間違えない字だけ。
人を探して、地面に着いた。地面を掘って、手が出てきた。その手を、ミラは世界でいちばんよく知っていた。
数字を読む娘が最後にたどり着いたのは、一つの手のかたちだった。
「この丘は、伯爵家のものではありません」ミラは言った。「旦那さまが個人で持つ山です。その産を、自分が切り盛りする伯爵家に売っていた」
枯れ蔓の棚が風に小さく鳴った。
「屋敷が払うべきは、公示の値。ロシュはそこにきまって二割を乗せました。帳簿から抜けたその二割が、山の名を借りてこの丘の主の懐へ」
「その丘の主は、屋敷の主と同じ人だ」レオが引き取った。「揺れる値は、二人のあいだにしか生まれない。一人のなかでは、値はいくらでも凍る」
ミラは枯れた葡萄畑を振り返った。棚の影が、長くなっていた。
十一年、ミラはこの手でその金を運んでいた。伯爵家から当主の丘へ、一行ずつ、きれいな字で。
旦那さまの代わりに、疑いもせず。
几帳面な手が、その流れをいちばん滑らかにしていた。
ミラは自分の指を見た。腹の底に、静かな熱があった。怒りに似て、けれど涙にはならない熱だった。
「この控えは、監査院が押さえる」
レオは山守に短く告げて、控えを麻袋に入れた。ミラの帳簿の隣に。
買い手の帳面と売り手の帳面が、同じ袋のなかではじめて背を合わせた。
増えた目方は紙一冊ぶん。目方より、ずっと重かった。
「一つ、分からないことがあります」ミラは言った。「なぜ、この控えを焼かなかったんでしょう。売り手側の帳面なんて、残す必要のないものです」
「性分だろう」レオは言った。「金を抜く者ほど、抜いた金の帳尻は合わせたくなる。自分のためにだけ正直な帳面をつける」
「……自分のために、だけ」
「あなたが写してきた嘘の帳面と、この正直な帳面。二冊で、ようやく一人の人間だ」
「証拠は手にした」レオは言った。だが、その目に猟犬の光が差した。「あの人は、これが見つかったと知ればこの山を焼く。証文も、この老人も。急がないと、間に合わない」
彼は山守を見た。老人は、薪を手にしたまま呆けたように立ち尽くしている。
この人が当主に何を漏らすか。あるいは当主が先に、この人の口を塞ぐか。
「わしは、樽を積んどっただけで」山守が誰にともなく言った。言い訳のような、掠れた声だった。二人とも、口を開かなかった。
「今夜は、山を下りなさい」レオがようやく言った。「ふもとの村に、知り合いは」
「妹がおりますが」
「そこに泊まるといい。小屋には戻らないことです」
男は、妹、と口の中で繰り返した。行き先ができて、少しだけ声が生き返った。
帰りの畑は、来たときと同じ畑のはずだった。ただ、棚の並びがもうただの畑には見えない。金の通り道に見える。
日はまだ高い。だが、山の夕は早い。
ミラは麻袋を抱え直した。来た道を、二人は来たときより速く歩きはじめる。当主の手が届くより先に、この二冊を封の下へ入れられるか。
残された半日で、それだけをやり遂げなければならなかった。
西の空が、早くも色を薄めはじめている。
山の名を、ミラはもう知っている。知ったからには、この名前はもうただの地面には戻らない。




