第13話: 灯りのついた帳場
日が落ちてから、二人は屋敷の見える丘に立った。
足の裏が、一足ごとに鳴っている。帳場の靴はとうに山道に負けていた。それでも、歩みは緩めなかった。
半日の道を休まず戻ってきた。麻袋のなかには、二冊。山で見つけた出荷控えと、ミラが抱えて出た帳簿。
出荷控えは、売り手ロシュの帳面。その字が、屋敷に残る買い手の伝票と同じ手だった。売り手も買い手も一人が書いていた。
これを、当主より先に封の下へ。
権力のある相手は、負けを認める前に証拠のほうを消しにかかる。レオが道々そう繰り返した。
「消しにかかる、とは」
「焼く。破る。書き換える。人なら、黙らせる」レオの声は平らだった。「間に合ううちは、全部ただの想像だ」
だから、二人は急いだ。
丘の上から見る屋敷は、いつもより小さかった。夜気が汗の下で急に冷える。
「間に合ったか」レオが屋敷を見下ろして言った。
答えは、すぐに出た。帳場のある棟の窓に灯りがともっている。
「あの窓は、帳場の小窓です」ミラは言った。「夜に灯りが入ることはありません。十一年で、一度も」
「なら、走りますか」
「走れます」
「では、走ろう」
「袋は、わたしが」
「頼む」
「重いのは、慣れています」
ミラの足が、速くなった。歩幅が勝手に広がる。袋の中で二冊が背を打ち合って鳴った。
通用口から入り、廊下を急いだ。人の気配はない。使用人は皆どこかへ遠ざけられていた。
廊下の燭台は半分しか灯っていない。暗くしてある家は暗くしたい者の家だ。
夕餉の膳の下がる音も、洗い場の水音もない。厨房の竈の火まで落とされている。
家がまるごと、息を止めさせられていた。
この家でこういう夜がどういう夜なのか。ミラは十一年で知っている。人を払うのは、見られたくないことをするときだ。
「静かすぎます」
「好都合だ」
絨毯の切れ目で足音が一度だけ高く鳴った。二人とも、止まらなかった。
帳場の戸を開けて、ミラは息を呑んだ。
棚という棚が荒らされていた。革表紙の控えが床に散り、何十年ぶんもの記録が、抜かれ、投げ出され、踏まれている。
織物の巻が、頁を開いたまま裏返っている。教区への寄進の綴りが卓の角から落ちかけている。ミラが一冊も乱さず並べてきた棚だった。
膝の力が、一瞬だけ抜けかけた。
どの巻がどこへ飛んだか、目が勝手に数えはじめる。三十、四十。
数えても、床は片づかない。それでも数えるのをやめられなかった。
床から油の匂いがした。ものを焼くための油の重い匂いだった。
当主は醸造の棚の一角に油を撒いていた。ロシュへの支払いを書いた屋敷の伝票を、あの筆跡ごと灰にするつもりで。
そのただなかに、当主ベルナールが立っていた。片手に手燭。手燭一つの部屋は、影のほうが多かった。
開いた棚を、上から下まで何かを探すように見上げている。探し物は、見つかっていないらしい。
散らかし方に、順序がなかった。整えて生きてきた人の、初めての散らかし方だった。
二人に気づいて、彼は動きを止めた。
先に口を開いたのはミラだった。
「旦那さま。何を、お探しですか」
ベルナールは、すぐには答えなかった。いつも温厚だった顔が、手燭の火にこわばって見えた。
その目が、ミラの抱えた麻袋へゆっくりと落ちた。
「……お前が」ベルナールの声が低くなった。「山へ、行ったのか。あそこの、控えを」
「はい」ミラは言った。「行って、読んで、持ち帰りました」
その一言が、何を意味するのか。ベルナールの手のなかで手燭が小さく傾いた。
二十六日前。指を折るまでもなくミラはその数を諳んじていた。数えて生きてきた日々の、いちばん新しい頁。
あの朝、当主は宝石も銀も禁じ、かわりに誰も欲しがらない古い帳簿だけを許した。
用済みの紙束と、侮って。
その古い帳簿こそ、ミラが二割を数えはじめた一冊だった。
用済みと侮って持たせた紙束を、ミラは一枚も捨てずに数えた。
その目が、麻袋とミラの顔を二度往復した。値を付けかねている目だった。
「返しなさい」ベルナールが一歩踏み出した。温厚さは、もうどこにもなかった。「それは、この家の帳簿だ。お前のものではない」
「もう、この家のものでもありません」レオがミラの前に出た。「王室監査院が差し押さえる証拠です。あなたが手を触れれば、王の調べを妨げた罪になる。伯爵の位でも、その罪だけは庇えません」
「差し押さえだと。令状は」
「臨検の権のうちです。監査対象の帳簿の保全は」レオは一歩も引かなかった。「令状が要るのは、あなたの寝室の抽斗のほうです」
ベルナールの足が止まった。伯爵家の門も、この監査官の前ではただの木だった。
当主の命が届かない場所が、いま、ミラの腕のなかにあった。
「監査官どの」彼は、声を整えようとした。「何かの、誤解でしょう。ロシュは、古い付き合いの商人で」
「王都に、わしの知らぬ顔はない」整えそこねた声がそう続けた。「監査院にもだ」
「では、その顔ぶれに読ませましょう」レオは動じなかった。「この二冊を」
「ロシュは、旦那さまの山です」ミラは言った。声は静かだったが、震えてはいなかった。「持ち山の古い呼び名。売り手の控えも、屋敷の伝票も、旦那さまの手で書かれていました。はねの流れも数字の癖も、同じでした。わたしはその字を十一年写してきたんです。見間違えません」
手燭の火がわずかに揺れた。
「使用人を、呼ぶぞ」ベルナールが言った。「ここはまだわたしの家だ。夜中に入り込んだ養女と素性の知れぬ男を、つまみ出すくらいはできる」
「どうぞ」レオは動じなかった。「呼べば、皆が見ます。油の匂いと、荒らされた棚を。あなたが今夜、何をしようとしていたかを」
「それに」静かに足した。「夜のこの家では、その声も廊下まで届いていますよ。呼ばずとも」
ベルナールは、口を閉じた。
彼はしばらく黙っていた。それから、声の調子を変えた。
変えられる、とまだ思っている声だった。
「ミラや」彼は言った。「わたしはお前を拾ってやった。飯を食わせ、字を教え、十一年、この家に置いてやった。行き場のない子を、な」
その声は、またあの温厚さを取り戻そうとしていた。
「いまなら、まだ間に合う。その帳面を忘れておしまい。悪いようにはせん。前より良い暮らしをさせてやろう」
恩。ミラはその言葉を胸のなかで転がした。昔ならうつむいていた言葉だった。
拾ってやった。食わせてやった。置いてやった。やった、やった、やった。恩の言葉はぜんぶ貸しの言葉だった。
この人はいつもこうやって人を動かしてきた。優しさの形をした値踏みだった。
「旦那さまが教えてくださったのは、数の数え方でした」ミラは言った。「わたしが十一年数えたのは、旦那さまがこの家から抜いた金でした。二割ずつ、十一年。しめて、二百三十一リーヴルと、八ソル」
数字は、口に出すと部屋の温度を下げた。油の匂いの中でそれだけが冷たく立っていた。
「……嘘だ」ベルナールの声が、うわずった。「そんな額を、お前如きが。数えられるはずがない。伝票は、わしの」
言いかけて、彼は口をつぐんだ。言ってはならないことの、形になりかけた言葉だった。
「一ソルまで、数えました」ミラは言った。「旦那さまが無能だとおっしゃった、この頭で」
手燭の火が、また揺れた。今度は風のせいではなかった。
ベルナールの、諭すような表情がひび割れた。
「恩とおっしゃいましたね」ミラは続けた。「旦那さまはわたしを追い出すとき、この古い帳簿を犬の寝床にでも敷け、とおっしゃいました。敷きませんでした。数えました。二割ずつ、十一年。旦那さまが用済みと侮った紙束が、旦那さまのなさったことを、いちばん正直に覚えていたんです」
「黙れ」
初めて聞く、低く剥き出しの声だった。荒らげもせず、抑えてもいない声。
ベルナールは動かなかった。手燭の火が、床に散らばった帳簿の背を赤く照らしている。
けれど、もう遅い。売り手の控えは、彼の手の届かない麻袋のなかにあった。
持ち山の古い名で綴られたその一冊が、当主自身の手で書かれている。それだけでロシュの正体は知れる。
レオが麻袋の口を結び、その綴じ目に監査院の封蝋を落とした。
赤い蝋が、紐の結び目を呑んで固まっていく。小さな火の作業なのに、部屋じゅうの油の匂いが一瞬だけ遠のいた気がした。
「明朝、これは王都へ発ちます」彼は言った。「この封を切れるのは王の調べだけです。ここから先は、あなたが伯爵であろうと指一本触れられない。あとは調べが進むだけです」
「調べは、あなたの寝込みを待ちません」レオは続けた。「今夜のこの部屋も、明朝、書記が写します。棚の乱れも油も、そのままに」
「いくらだ」
声が、変わっていた。
「その袋ごと、いくらで売る。言い値で買おう」
「値はつけられません」ミラは言った。「これはわたしのものではないので」
「では、誰のものだ」
「数字のものです」
ベルナールは何も言い返さなかった。ただ、床に散った帳簿の一冊を足でそっと脇へ避けた。
十一年、ミラが一度も乱さなかった記録を、いま自分の靴の先で。
ミラは、床の帳面を拾い上げた。醸造の元帳ではない、家政の一冊だった。
埃を払い、棚のもとの場所に戻す。手が位置を覚えていた。目より先に、指が棚を探し当てる。
一冊では、棚は直らない。それでも、一冊からしか直らない。
荒らされた棚に、一冊だけ正しい背が並んだ。
当主が、その手元を見ていた。数字の話になると愛想の剥がれる、あの顔で。
剥がれた下から出てきたのは、怒りではなく恐れだった。
彼は手燭を卓に置いた。置くというより、指が火を持っていられなくなったように見えた。
そして誰も見ずに、帳場を出ていった。廊下の闇に、足音がゆっくり呑まれていく。
ずいぶん昔から、ミラの手がしてきたことだった。散らばった数字をあるべき場所へ戻す。それだけを、十一年。
「震えていませんでしたね」レオが言った。
「震えていました」ミラは自分の手を見た。「声にだけ出さなかった」
「それを、震えていないと言うんです」
「慣れますか」
「慣れない」レオは封蝋を確かめた。「慣れないから、続けている」
「今夜は、休みなさい。数える体が資本だ」
「眠れるでしょうか」
「目を閉じるだけでいい」
「レオさま。前に、出てくださって」
「仕事です」
油の匂いは、窓を開けても薄まらない。今夜はこの部屋の全部が証拠だった。
窓の向こうで、屋敷の灯りが一つずつ消えていく。
この家が十一年、暗がりで肥えてきた嘘は、明日から一行ずつ明るいところへ引き出されていく。
袋のなかの帳面は、もう誰にも焼けない。けれど、それが示すのはそこまでだった。
抜かれた金がどこへ流れたのかは、まだどの帳面にも書かれていない。麻袋の重さの向こうで、その問いだけがまだ軽いままだった。
明日は、金の行方だ。ミラは袋の紐を握り直した。重さは、答えのある重さだった。そして答えを出すのは、この手だ。




