第14話: 差額の行方
夜が明けても、ミラは眠っていなかった。
窓の白みが、荒らされた棚の影を薄めていく。油の匂いは夜のうちに冷えて重くなっていた。
帳場の卓に、封蝋を落とした麻袋が置かれている。口の結びは、ゆうべのまま動いていない。中の二冊は、朝いちばんの馬で王都へ発つ。
監査院の印が綴じ目で赤く固まっていた。もう誰も開けられない。
開けた者は王の調べを妨げた咎を負う。
勝ったはずだった。けれど、卓の向かいのレオの顔は晴れていなかった。眠っていないのはこの人も同じらしい。
「一つ、足りません」彼は言った。
「損をした証拠は揃いました」レオは麻袋に目をやった。「家は公示より二割高く払っていた。十一年、きっかりと。ここまでは動きません」
「はい」ミラは言った。
「けれど、これだけでは当主はこう言えます」レオは指を一本立てた。「見る目がなかっただけだ、それは罪かと」
ミラは口をつぐんだ。いつか帳場で、当主がまさにそう言って退いたのを覚えていた。良い品を高く買うてやったことまで罪にするのか、と。
「損をした、だけでは足りません」レオは続けた。「その金がどこへ行って誰を太らせたか。得をした先を示して、はじめて高値掴みを盗みだと示し切れます」
得をした先。ミラには、まだその先が見えていなかった。損の列なら諳んじている。得の列は書いた覚えがなかった。
「家の帳簿には」ミラは言った。「出ていく金しか書いてありません。ロシュへ、いくら払った。それはあります」
卓の帳面はそこから先を知らない。
「でも、その金がそのあとどこへ流れたかは、家の帳面には一行もないんです」
「でしょうね」レオは言った。「盗んだ金の行き先を、盗んだ本人が帳面に書き残しはしません」
ミラは麻袋には触れなかった。封蝋を切れるのは王の調べだけだ。
昨夜の帳場は、まだ荒らされたままだった。書記たちが目録を取るまで、棚は昨夜の形のまま残される。
昼には彼らが来て、この散らかりを一枚ずつ写しに変えていく。
ミラは断りを入れて、床に散った巻のなかから家政と人件、寄進の帳面だけを拾い集めた。
ロシュへの支払いを書いた醸造の元帳ではない。家の暮らしのほうを、ミラが十一年書き継いできた側だった。
表紙の革が、拾い上げるたびに手に馴染む。手が、それぞれの巻の厚みを覚えていた。
指が、覚えている。
「屋根を直せなかった年があります」ミラは言った。「西の蔵の屋根です。雨漏りがひどくて、樽をいくつも湿らせた」
「修繕は」
「見積もりは二十リーヴル。当主は、来年に、と」
雨の日の蔵の匂いまで思い出せる。湿った木と、無駄になった樽の匂い。
「その年、ロシュにはいつもどおり払っています」
レオは黙って聞いていた。
「使用人の手当も据え置きでした。十一年、一度も上がっていません。教区への寄進も先代の半分に減りました」
ミラは頁を繰った。指の下で、家が少しずつ細っていくのが見えた。
祝いの膳の行も、年々短くなっている。客の名が減り、皿の数が減り、しまいには行そのものが立たない年があった。
「家は、痩せていました。毎年、少しずつ。二割ぶん、家の外へ」
「金は、家のなかで使われていない」レオが言った。
「はい。家に、太った跡はどこにもありません」ミラは顔を上げた。「なのに、二割はたしかに出ていった。十一年で二百三十一リーヴルと、八ソル」
金は蒸発しない。
朝の帳場は静かで、その言葉だけが机の上に残っていた。
いつかレオが言った。隠せても、動かせない、と。埋めた重さはどこかの土を盛り上げているはずだった。
家が痩せたぶんは、どこかで肥えている。家の外の、当主の手の届くどこかで。
ミラは目を閉じた。あの日の丘が、まぶたの裏に浮かんだ。
歩いた道の傾き。土の匂いに混じった樹脂の匂い。目は見ていたのに頭が数えなかったもの。
持ち山。ロシュと呼ばれていた当主の丘。
小屋があった。埃をかぶった出荷控えが置かれていた。そのまわりに、ミラが見ていながら意味を読まなかったものがあった。
古い圧搾機の脇に、真新しい樽材の作業場。斜面に段々と植え足された若い葡萄の木。葡萄を運ぶための、踏み固められた道。
「あの山は」ミラは目を開けた。「もとは、いまよりずっと小ぶりな山だったはずです。十一年かけて少しずつ広げられていました」
「なぜ、そう言えます」レオが訊いた。
「山守が、言っていました。わしは樽を積んどっただけで、と。あの人はあそこで、長く働いている」
ミラは記憶をたぐった。
「長くいる人がいるのに、作業場の木は、まだ白い。植えられた葡萄は、若い木ばかり」
白い木は新しい木だ。色は、年数の帳面だった。
「十年、二十年と雨に打たれた色ではありませんでした。あの丘は、この十一年で次々と手を入れられていたんです」
ミラは卓の帳簿に指を戻した。
「畑を広げるにも、木と人手が要ります。山に葡萄を新しく植えて、実がなるまでにも何年もかかる」ミラは言った。「あれだけのものをあの丘に築き足すには、まとまった金がいります。その金を当主はどこから出したのか」
レオが、身を乗り出した。
「家からは、出ていない」レオが言った。「家の帳簿に、山を広げた費えは一行もない。当主の私事だから家の帳面には載らない」
「はい。載りません」ミラは言った。「でも、金はどこかから来ています。小ぶりな丘が、実りを産む山に広がった。その広がったぶんが当主のこしらえた財です」
「そして」レオは麻袋に目をやった。「その財が育った十一年は、家が二割を抜かれ続けた十一年とそっくり重なる」
証明が要る、とレオは言った。ミラの見立てが正しくても、それを裁きの場で示せなければただの当て推量になる。
「山が、いつ、どれだけ広がったか」レオは言った。「それを、家の外の記録で押さえたい。当主が触れない記録で」
ミラは少し考えた。それから、顔を上げた。
家の帳簿は焼けても、教会の帳面までは焼けない。
「教区が、あります」
「教区」
「実りには、什一税がかかります」ミラは言った。「畑でも、山でも。獲れたものの十分の一を教会へ納める」
「それが、山と何の」
「だから教区は、山に葡萄畑が拓かれるたび、それを筆ごとに登記します。いずれ、税をかけるために」
寄進の帳面を書き写すたび、教区の仕組みは自然に頭へ入っていた。使い道が、いま初めてできた。
「あの山にいくつ畑が拓かれたか、教会の帳面に年ごとに残っています。当主の手の、届かないところに」
レオの手袋の手が、卓を一度軽く叩いた。
「監査官なら、教区の台帳を差し押さえて照らせます」ミラは言った。「あの山の畑が十一年でいくつに増えたか。それを、家がロシュに二割を払った額と並べれば」
「並べれば」レオが続きを引き取った。「山が広がっていくあいだ、家が何を失っていたかが分かる」
「はい」ミラは言った。
その日のうちに、レオは教区へ人をやった。翌日、台帳の写しが届いた。
写しは蝋引きの紐で綴じられていた。教会の丁寧さで。
書き手の字は丸く、インクの色が年ごとに少しずつ違う。年月が、色でわかる帳面だった。
ミラは、二つの記録を卓に並べた。左に、家がロシュへ払った二割。右に、山の畑の筆数。十一年ぶんを上から下へ。
左は損の列。右は得の列。同じ十一年が二つの言葉で書かれていた。
左の列は、伸びなかった。年ごとに上下はするのに、年を追って増えてはいない。抜き方だけが決まって二割。
右の列は、動いていた。最初の年、台帳に載った山の畑は、二筆。小ぶりな葡萄山だった。
それが、年を追って増えていく。三筆。五筆。十一年目には、八筆。
四倍に広がっていた。
ミラは二つの列を見比べた。
「家から抜かれる額は、年ごとに上下しても増えてはいません。なのに山の畑だけが増えていました」ミラは言った。「増えた畑は、まだ実らぬ若木ばかり。売って稼ぐ前に金を吸うだけの畑です。家が痩せつづけるあいだ、その丘だけが広がっていました」
レオが、右の列をゆっくり指でたどった。「山が広がっただけなら、当主はこう言い張れる。あれはわしが自分の才覚で育てた山だ、家の金など使っておらん、と」
「言い張れません」ミラは首を振った。「山がどれだけ畑を増やしても、一樽の値は公示で決まります。そこに二割を乗せられるのは、売り手と買い手が同じ人のときだけ」
指が左の列に戻る。
「広がった畑は、山の育ち。乗った二割は、当主の手です」
レオはうなずいた。「盗みの芯は、もう固まっている。十一年、きっかり二割。間違いようのない作為だ」彼は台帳に目を落とした。「この丘の広がりが、その金の行き先を指している」
ミラは、右の列のいちばん下を見た。二筆だった丘が、いまはひとつの働く山になっていた。
家に戻った跡はどこにもない。ならば、抜けた金はこの広がる丘に積もったはずだった。
「二百三十一リーヴルは」ミラは言った。「箱のなかの銀では、ありませんでした」
目を閉じればあの斜面が見える。
「あの丘に拓かれた新しい畝。植え足された若木。踏み固められた道。当主の名前で、いまも立っています」
窓の外が、暗くなりはじめていた。二晩ぶんの疲れが、ようやく肩に追いついてくる。
戸口に灯りを持った書記が立った。夜の写しの仕事が始まる合図だった。
ミラは、二つの帳面をそっと重ねた。別々の綴じに分かれて、十一年、誰も並べなかった二つの列。
並べてしまえば、答えはこんなにも静かだった。
家の身代が、一人の丘へ移し替えられていた。ミラが十一年数えてきたその金が、一滴ずつあの山の土に染み込んでいた。
「明日、これも王都へ送ります」レオが台帳の写しを封じながら言った。「損の帳面に、得の帳面。二つ揃えば、高値掴みという言い訳はもう立ちません」
ミラはうなずいた。それから、訊いた。「これで、詰みですか」
レオは封じたばかりの台帳を見た。「王都の監査は、公開の場だ。当主は人前で、最後の盾を一枚だけ持ち出せる」
「盾」
「相場だ」レオは言った。「ここでは一度封じた。だが公開の場では、もう一度だけ蒸し返してくる。あの年は葡萄が高かった、と」
手袋の指が、封じたばかりの包みの蝋の上で止まった。
「それを最後に崩すのは、あなたが十一年写しつづけた単価です」
ミラは指の腹に、帳簿の頁の手ざわりを思い出した。数える仕事が、まだ残っていた。
その残りが、少しも嫌ではなかった。
当主が、なぜこれほどのものを欲しがったのか。家をやせさせてまで自分だけの丘を広げつづける。
その理由を、ミラは知らない。今日の帳尻には要らない一行だった。
ミラはそれを帳尻の外へ、そっと置いておいた。置いた場所は、覚えておいた。
窓の外で最初の星が出ていた。灯りの届かない高さで静かに光っている。




