第15話: 相場という最後の盾
今日、追放された養女が育ての親を裁く場に立つ。
しかもその場は、当主と同じ位の貴族たちに見せるためのものだった。横領を裁くとき、当人の同輩に見せる。名を汚すとは、そういうことらしい。
朝いちばんの鐘が、遠くで鳴り終わったところだった。石の床は冷たい。春の朝の冷えが、靴の底から上がってくる。
王都の監査院は、石造りの高い天井を持っていた。声が上へ抜けていく。私語も足音も、天井のどこかへ吸われて消える。
ミラは広間の隅に立っていた。
卓の上に、王都まで運ばれてきた二冊の帳面。封蝋はすでに切られている。切ったのは、王の調べだった。
切り口の赤い欠片が、卓の木目に一つ残っている。あの夜、帳場の綴じ目で固まった蝋の端だ。紙より先に、蝋が旅を終えていた。
長い机の向こうに、監査院の官吏が三人。真ん中の白髪の官吏が書面を繰る音だけが届く。
壁ぎわの椅子には、当主と同じ位の貴族が幾人か、腕を組んで座っていた。杖の頭で顎を支える老貴族もいる。退屈の顔と興味の顔が、半々だった。
「怖いですか」
開廷を待つあいだに、レオが小さく訊いた。
「怖いです」ミラは正直に言った。「帳場より、天井が高すぎます」
「ちょうどいい」レオは前を向いたまま言った。「あなたの声は小さい。ですが、ここは静かだ。小さい声がそのまま通る場所です」
「話すのは、わたしですか」
「数字のところだけ」レオは言った。「数字はあなたの口から出るときがいちばん強い。それ以外はわたしが受けます」
「間違えたら」
「間違えません」レオは言った。「あなたは十一年、間違えなかった人だ」
ミラは追放されたあの家の帳場を思った。あそこにこんな天井はなかった。低い梁と、乾いた墨の匂いだけがあった。
ミラは背を伸ばした。
戸が開いて、当主が入ってきた。
ベルナールは、痩せていなかった。
王都まで護送されたと聞いていた。なのに身なりは整い、背は伸びていた。
広間を見渡す目に追い詰められた色はない。むしろ、久しぶりに人前へ出た貴族の慣れた落ち着きがあった。調べられる身であることを、身なりのどこにも出していなかった。
彼は列席の貴族たちへ軽く会釈した。旧知らしい顔がいくつか、気まずそうに目をそらす。
それでも会釈は止まらなかった。この広間を、彼はまだ社交の間だと思っている。
「監査官どの」ベルナールは机の官吏へ向き直った。声は、あの帳場で聞いたのと同じ温厚な響きだった。「わざわざ王都までお運びいただいて、恐縮です。ですが、これはなにかの行き違いでしょう」
白髪の官吏が書面から目を上げた。
「わたしは十一年、あの家の葡萄酒を買ってきました」ベルナールは続けた。「良い品を、相応の値で。葡萄には当たり年も外れ年もある。値は毎年動きます」
彼は両手を軽く開いた。困っている人の仕草だった。
「その動きのなかで、少し高く買った年があった。それを盗みと呼ばれている。心外です」
すべては相場の範囲。ミラはその弁明をもう幾度も聞いていた。帳場で。臨検で。当主は相場という言葉を盾のように使う。
盾は、使い込まれて薄くなっているはずだった。臨検の昼、横の照合で一度は割れた盾だ。それでも当主は同じ盾を担いで王都まで来た。
ほかに担げるものが、もう残っていないからだ。
だが、今日の盾には、もう一枚あった。
ベルナールはゆっくりとミラのほうへ手を向けた。
「それに、監査官どの。この告発をしているのが、誰かをご存じですか」彼の声は穏やかなまま、少しだけ哀れむような色を帯びた。「わたしがこの春、家から出した養女です。行き場のない子を拾って、十一年育てた。けれど、家の都合で出さねばならなかった。恨むのも無理はない」
列席の貴族の一人がミラのほうを見た。値踏みする目だった。追い出された養女が、育ての親を王都まで引きずってきた。そういう話に聞こえはじめている。
「監査官どのは、追い出された娘の言うことを真に受けておられる」ベルナールは静かに首を振った。「お若い。おわかりでしょう。恨みを持った者の数字ほど、当てにならないものはない」
場の空気がわずかに傾いた。
椅子の並びから小さな咳払いが一つ。同情とも同意ともつかない音だった。
ミラは、膝の上で指を一度だけ握った。いつか帳場で浴びた、当主の受け身の一刺し。あのときと同じ握り方だった。
善良な育ての親を装う。そのまま告発する側を、恩知らずへ裏返す。当主のいちばん得意な手だった。
あのときは黙って浴びるしかなかった。
今日は、隣に受ける人がいる。
レオが前に出た。
手袋の手を、卓の帳面に置く。
「エルフェルト伯」レオの声は高くはなかった。けれど、天井の下でまっすぐに通った。「一つ正しておきます。あなたを調べているのは、この娘ではありません」
ベルナールの眉がわずかに動いた。
「これは、王室監査院の調べです」レオは言った。「訴えているのは、養女の恨みではない。あなたが十一年、自分の手で書いた数字です」
手袋の指が、帳面の表紙を軽く叩いた。
「この帳面は、恨みを持ちません。書かれたとおりのことを、書かれたとおりに告げるだけです」
彼は卓の帳面の一冊を官吏のほうへ滑らせた。
「娘がしたのは、その数字を読んだこと。ただ、それだけです」
白髪の官吏が帳面を引き寄せた。頁を繰る乾いた音が、高い天井へ静かに上っていく。
列席の貴族の目が、ミラから卓の帳面へ移った。傾きかけた空気が、いったん止まった。
ベルナールはしばらく黙っていた。それから、笑った。温厚な、けれどどこか冷たい笑みだった。
「では、その数字とやらを」彼は言った。「一年、見せてもらいましょうか」
最後の盾が抜かれた。
「一年です」ベルナールは指を一本立てた。あの帳場でレオがしたのと同じ仕草だった。「十一年だの通時だの、大きな言葉はけっこう。一年、お見せください」
立てた指が、卓の帳面へ向いた。
「今年あの家がロシュに払った葡萄酒と樽材は、しめて百二十リーヴル。そのうちの二十リーヴルが、高すぎるとおっしゃる」
彼は列席の貴族たちを見回した。
「みなさま、葡萄をお持ちの方も多い。おわかりでしょう」ベルナールは声を落とした。「豊作の年は樽がだぶついて安くなり、霜の年は張る。二割やそこら平気で動く。今年の二十リーヴルが相場のぶれでないと、いったいどなたが言い切れます」
誰も、答えなかった。沈黙は当主の側に積まれた。
言い切れる者などどこにもいない。単年の二十リーヴルは、相場の海ではただの波の一つだった。
とりわけ葡萄酒には、値を並べる相手がいない。ロシュはほとんど一手に納めていた。だからその値が高いのか安いのか、比べる相手がいない。
一年だけを見れば、当主は正しかった。
ミラはそれを誰よりもよく知っていた。だからこそこの二割は、十一年ものあいだ誰にも見つからずにいた。
列席の貴族の一人が、小さくうなずいた。もっともだ、という顔だ。
隣の貴族もそれに続いた。うなずきは咳より早くうつる。
卓の下で、ミラは自分の指先が冷えているのに気づいた。恐れているのではなかった。頭のなかで数えだけが静かに動いていた。
単年で切れば、当主は正しい。ならば、切らせなければいい。
切り口は、向こうが自分で示してくれた。十一年を切らずに、まるごと見せればいい。
ミラは卓の前へ進み出た。
「ここにいらっしゃる皆さまも」ミラは、壁ぎわの貴族たちへ目を向けた。「今年の二十リーヴルを、相場のぶれとお思いでしょう」
声が、高い天井の下で思ったより静かに響いた。ベルナールがこちらを見た。列席の貴族も官吏も、みなミラのほうを見た。
「一年だけを見れば、それは正しいのです。二十リーヴルは相場のぶれに紛れます」ミラは言った。それから顔を上げた。「ただ、いま旦那さまは、大事なことを一つおっしゃいました。豊作の年は、樽が安くなる、と」
ベルナールの見回していた目が止まった。
「安くなる年に、ほかの売り手は値を下げます。樽材を納めたフェリエも、ガロンも。公示より下げて売った年が何度もありました」ミラは言った。「でも、ロシュだけは、その安い年も公示のきっかり二割上でした。豊作の年も、霜の年も。相場が下がった年でさえ、上乗せの二割を一度も薄くしなかった」
彼女はベルナールを見た。声は震えていなかった。
「旦那さまがいまおっしゃった相場の理屈が、ロシュを嘘だと言っています」ミラは言った。「相場で動く値なら、安い年には上乗せも薄くなるはず。なのに十一年、一度たりと薄くなりませんでした」
ミラは壁ぎわの貴族たちのほうを向いた。
「この場に、葡萄をお持ちの方がいらっしゃいます。うかがわせてください」
ミラは一度、息を整えた。
「相場が下がった年でさえ、上乗せをきっかり二割から一度も薄めずに売りつづけた売り手を、どなたか、ご存じですか」
誰も、答えなかった。今度の沈黙は、卓の帳面の側に積まれた。
さっき当主にうなずいた貴族たちが、いまは目を伏せていた。
生きて商いをする売り手に、そんな真似はできない。安い年に値を守れば、買い手はよそへ行く。
それでも二割は凍ったままだった。買い手が逃げないと知っている者の値だ。
相場が動いても上乗せが凍るのは、値を相場から取っていないときだけだ。公示を見て、その一・二倍を机の上で書いた者にしか、あの列は書けない。
「一年なら、相場です」ミラは言った。「でも、公示が下がった年でさえ二割を下ろさなかったのなら――それは、相場のぶれではありません。値を決めた、意思です」
高い天井の下で、その一言が、上へ抜けずに残った。
乾いた墨の匂いが、ふとした。あの帳場と同じ匂いだった。
「相場が……」
ベルナールが言いかけた。けれど、続く言葉は喉のところで死んだ。相場は動くと言ったのは、ついさっきの彼自身だった。
温厚な笑みは、まだ顔にあった。けれど、それは貼りついているだけだった。
さっきまで彼のほうへ傾いていた顔が、卓の帳面のほうを向いている。
会釈を返した旧知の顔も、もう上がらなかった。
監査院の官吏が書面になにかを書きつけた。筆の音が、天井に吸われずに残った。
「並べていただきましょう」白髪の官吏が言った。「その、十一年を」
ミラはうなずいた。卓の上から、持ち出した控えを引き寄せる。
どの年のどの頁に、なにが書かれているか。繰る前から頭のなかに並んでいた。十一年、この手で写してきたのだ。見間違えるはずがなかった。
レオがミラの隣に立った。低い声で、ミラにだけ聞こえるように言った。
「相場という盾は、一年ぶんの大きさしかない」
ミラは控えの最初の頁を開いた。十一年の、いちばん古い年。頁のいちばん上の字はまだ細く、堅い。帳場を任されたばかりの、若い自分の字だった。
その盾を折ったのは、たったいま、当主自身の口だった。




