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第16話: 二百三十一リーヴルと八ソル

 いちばん古い年の頁からミラは読みはじめた。


 十年前。この家の帳場を初めて任された年だった。頁の隅に、若い自分の指の跡が薄く残っている気がした。この年のインクだけ少し濃い。筆にまだ慣れていなかった証拠だ。


 「商会の公示は、一樽九リーヴル十ソル」ミラは言った。「ロシュの値は十一リーヴル八ソル。割れば、一・二」


 声は思ったより通った。小さい声がそのまま通る場所だと、レオは言った。そのとおりだった。


 列席の貴族が書面へ目を落とす。


 「その年、家がロシュに払った付け値は、葡萄酒と樽材あわせて百五十六リーヴル。公示どおりなら百三十でした。差の二十六が、この年、家から抜かれた分です」


 だが、ベルナールはまだ折れていなかった。




 「お待ちください」


 当主の声はまだ温厚だった。けれど、その下に細い焦りが差していた。


 「監査官どの。それは、養女がこの春まで書いていた写しでしょう。追い出された恨みで、いくらでも書き換えられる。追放されたあとに都合よく直したものを証拠と呼べますか」


 彼は、列席の貴族たちへ顔を向けた。


 「写しなど、家を出た者の手でどうとでもなります。皆さまも、お気をつけなさるがいい」


 最後の逃げ道だった。数字が動かせないなら、数字を書いた手を疑わせる。


 書き換えた。その一言が、思ったより深く刺さった。十一年、一字も曲げずに写してきた手を、いちばん知っているはずの人が疑ってみせた。


 ミラは卓の下で指を握った。怒りではなかった。指はただ冷えていた。


 レオが書記を呼んだ。


 臨検でレオはこの控えを証拠から外した。追い出されたあとで書き換えた、と言われかねないから、と。使えないはずの一冊だった。




 「監査院が押さえた帳面は、これだけではありません」レオは言った。「いま卓に出すのは、どの年でも三つです」


 書記がミラの手から控えを受け取り、卓に三冊を並べた。


 「一冊目は、あなたの帳場の元帳」レオは、手袋の手を真ん中の一冊に置いた。「追放の朝から、この娘の指は触れていません」


 見覚えのある手擦れが革の角にあった。ミラの帳場の十一年が、他人の卓で開かれている。


 彼は右の一冊に手を移した。商会から差し押さえた原本だった。


 「二冊目は、商会の公示の原本。この娘の手が、生涯届かない記録です」


 最後に、左の一冊。ミラが十一年写しつづけてきた控えだ。


 「三冊目が、伯爵のおっしゃった娘の写しです。臨検では証拠から外しました」


 レオは言った。それから当主のほうを見た。


 「ですが、エルフェルト伯。あの夜、あなたの帳場で、わたしがこの袋の口に監査院の封蝋を落とすのを、あなたはご覧になっている」


 一拍おいてレオは付け足した。


 「切ったのは、王の調べです」


 ベルナールの目が、卓の脇の麻袋へ落ちた。切られた封蝋が綴じ目にまだ残っている。


 レオは三冊を軽く卓へ押した。


 「どうぞ、お好きな年で引き比べてください。写しが元帳と食い違っていれば、この一冊は引きます」




 列席の貴族の一人が身を乗り出した。


 「では、五年前を」


 声の主は、杖の頭で顎を支えていた老貴族だった。試す声ではあったが嘲る声ではなかった。


 書記が三冊を同じ年の頁で開く。醸造の元帳。商会の公示。ミラの控え。


 「一の位まで、同じですな」老貴族は言った。「では、三年前は」


 書記が頁を繰る。同じだった。


 どの年で開いても、食い違いはなかった。


 帳場に残った元帳と、この娘が抱えて出た控え。追放の朝に離れた二冊が、封をされるその日まで一の位まで同じ数字を持ちつづけていた。


 そして元帳のロシュの値は、どの年も商会の公示のきっかり一・二倍だった。


 「この娘は」レオは言った。「公示の値を知らずに書いています。伯爵の伝票から回ってきた数字を写しただけだ」


 「なのに」レオは続けた。「その数字は、どの年も公示の一・二倍で並んでいる。公示を知らない手が、偶然、十一年ずっと同じ比を書けるものでしょうか」


 ベルナールは三つの数字から目を離さずにいた。それから、顔だけを官吏のほうへ向けた。


 「では、うかがいます」当主の言葉の運びは崩れていなかった。「その封は、いつ、誰が落としたものです。臨検からこの日まで、袋はどこにありました」


 問いはまだ終わらなかった。


 「誰の手をいくつ経ましたか。記録は、どこにあります」


 制度で押し返すのは、この人のいつもの手だ。数字が動かないと見るや、当主は袋の通った道へ手を伸ばした。


 問いの形そのものは、正しい。封の日付と保管の道を訊くのは、帳面の作法として筋がいい。


 正しい問いを、逃げるためにだけ使う。この人は十一年、ずっとそうだった。


 「押収の目録に、日付と封の番号があります」レオは、机の官吏へ目をやってから言った。「封を落としたのは監査院、預かったのも監査院、王都まで運んだのも監査院の便です」


 手袋の指が目録のほうを指した。


 「道中、袋は一度も開かれていません。開いたのは、この広間です」


 年かさの官吏が手元の目録を繰ってうなずいた。


 「そのとおりに、記されております」


 ベルナールは卓から半歩、身を引いた。


 「では、封より前は」当主は言った。「追い出されてから、その封が落ちるまでの二十六日。あいだ、その一冊は娘の手のなかにあったはずだ。ちがいますか」


 「ありました」レオはあっさり認めた。「ですが、写しをどう直したところで比は動きません」


 「比を作っているのは、この二冊です」レオは真ん中と右の一冊に順に指を置いた。「追われたあとは、どちらも帳場と商会の棚にありました。写しは、その二冊に合っているか外れているか。それだけの一冊です」


 ベルナールは、答えなかった。




 ミラは、続きを読みはじめた。今度は、一年ずつ。


 急がなかった。数字は急いで読むと軽くなる。


 「九年前。公示は、一樽八リーヴル十五ソル。ロシュは、十リーヴル十ソル」


 書記が商会の原本をめくる。八リーヴル十五ソル。合っている。


 「公示が下がった年です。ロシュも下げました。下がった公示の、やはり一・二倍へ」ミラは言った。「けれど、その年は家がよく買いました。付け値はしめて百六十二リーヴル。抜かれた分は二十七」


 「八年前。公示は一樽七リーヴル十五ソル。ロシュは、九リーヴル六ソル」


 書記の指がまた原本を追う。七リーヴル十五ソル。合っている。


 「公示はもっと下がりました。ロシュも下げています。付け値は百五十。抜かれた分は二十五」


 読みながら、数字の陰に暮らしが見えた。手当の据え置かれた年。祝いの膳の行が短くなった年。直せなかった屋根。どの年の二割にも削られた行が対になっている。


 声には出さなかった。ここで読むのは数字だけだ。


 貴族の一人が、商会の原本を指でたどりはじめた。年ごとに公示は上下している。家が買う量も年で変わる。


 指は上がったり下がったりするのに、割った数を出すといつも同じ場所に戻ってくる。


 「うちの領は、二年前、樽の値を下げて出させた」たどっていた貴族が誰にともなく言った。「下げねば買い手の逃げた年だ。あの年も、下げなかったのか」


 「下げていません」ミラは言った。「二年前も、公示の一・二倍です」


 うなずきが一つ増えた。




 頁が、次の年へ移った。読み上げる声に、頁をめくる音が二重に重なる。ミラの手と、書記の手。


 七年前。六年前。葡萄の値は張ったが、家が買い控えた年が続く。五年前から、公示は坂を下りはじめる。四年前。三年前。


 抜かれた額のほうは、公示と揃わずに上下した。買う量が年ごとに違ったからだ。二十七の年があれば十六の年もある。同じ額だった年は、一年もない。


 ちがうのに、割れば、どの年も一・二だった。


 揺れる公示の隣に、まっすぐな線が十一年引かれつづけている。そんな線を引ける市場を、ミラは見たことがなかった。


 腕を組んで見ていた貴族の手が、一人また一人とほどけた。誰かが隣の席へ小さく何か言い、言われたほうは答えない。


 「二年前は、公示が一樽七リーヴル半まで崩れました。抜かれた分は、十六。去年は二十一、今年は二十です」


 ミラは最後の頁で手を止めた。




 ミラの声は掠れなかった。


 「しめて、二百三十一リーヴルと、八ソル」


 読み終えて、ミラは息を吸った。指の先が、まだ頁の縁をなぞっている。十一年、この手がしてきた動きだ。


 読み上げれば、ほんの一息の長さだった。その額が家から出ていくのには、十一年かかった。


 その額を、広間にいる全員が聞いた。


 当主が入ってきたとき、その会釈を受けた顔も、私怨だとうなずいていた顔も、みな聞いた。


 壁ぎわで、古い付き合いらしい貴族が立ち上がった。当主に目を向けなかった。


 彼は椅子をずらして座り直す。当主とのあいだが、椅子一つぶん広くなった。


 ほかの椅子も、少しずつ動いた。誰も声を上げない。石の床を、椅子の脚が擦る音だけが続いた。高い天井は、その音を吸わなかった。


 書記の筆の音だけが、広間に残った。筆は音を立てて、額の下に線を引いた。




 ベルナールはそれを見ていた。


 温厚な笑みは、もうなかった。貼りつけておく力も残っていないようだった。


 彼は、卓の三冊を見た。自分が十一年、伝票に書いてきた値が、いま公示と並べられている。


 大ぶりの印章指輪を、親指がゆっくりと回した。帳場で数字を握りつぶすときにしていた癖が、握りつぶせない場所でまだ動いていた。


 監査院の官吏が三人、顔を寄せて何か言葉を交わした。


 「売り手の帳面は、次の期日に開きます」レオがそちらへ言った。「今日は、買い手側だけで足ります」


 官吏の一人が、目で先を促した。


 「筆跡ひとつでは、あの一枚も突き返されます。値を決めたのがこの方自身の伝票だと先に据わらなければ、素性を知らずに正価で買っただけだ、と退かれますから」


 いちばん年かさの官吏が、書面に筆を下ろした。


 立件の一筆だった。広間の誰もその筆を止めなかった。


 「読み切りましたね」レオが低い声で言った。


 「十一年ぶんですから」ミラは言った。「読む速さだけは、書いた年数で決まります」




 ミラは三冊からそっと手を引いた。


 窓の外は、まだ明るかった。王都の空は、屋敷の帳場よりずいぶん高いところにあった。


 同じ空の下に、あの低い梁の帳場がある。帰る場所ではなくなった場所だ。


 この数字は、もうミラ一人のものではなかった。あとは、その額に罪の名がつく。


 卓の向こうで、書記が押収の目録を繰っていた。醸造のほかにも、科目は細かな字で何十行も続いている。ミラはその背表紙の列を目で追った。


 まだ一度も開かれていない束が、そこに積まれていた。


 家政。人件。寄進。雑費。十一年書いてきた手が、綴りの名を背から読める。


 醸造の数字は今日で終わった。けれど帳面は、まだ全部の口を開いていない。


 その口の数を、ミラは目で数えた。数える手が、次の仕事を先に知っていた。

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