第17話: 紛れた一束
「立件は、済みました」レオが言った。「ですが、監査は一つの科目では終わりません」
翌朝の部屋は、昨日の広間ではなかった。書庫めいた小部屋で、声はすぐ壁に届く。
卓に、押収の束が積まれている。醸造の元帳は、いちばん下だ。もう役目を終えた一冊だ。
その上に載っているのは、この家の残りぜんぶだった。織物。家政。人件。冠婚葬祭。修繕。寄進。教育費。雑費。
「ほかも、お調べになるのですか」
「調べます」レオは手袋をはめ直した。「十一年、きっかり二割を書きつづけた人です。醸造だけで手を止めたと思えますか」
ミラは思えなかった。
書記が卓の端に一枚の紙を置いた。持ち越しの科目を書きつけるための紙だという。
ミラは、いちばん上の一冊を引き寄せた。家政の帳簿。表紙をめくると、自分の字が出てきた。
洗い方は、醸造で使ったのと同じ二つの目だ。縦に見る。同じものが、毎年いくらで立っているか。横に見る。その金を、誰が受け取ったか。
ロシュはその二つで落ちた。毎年きっかり同じ比で、しかも受け取った者を誰も見ていない。
「では、はじめます」ミラは言った。
朝の光がまだ浅い。紙の白さが目に硬い。指のはらで頁を送る音だけが、小部屋に規則正しく続いた。
「まず、織物から」レオが束の順を組み替えた。「醸造と並ぶ、この家のもう一本です」
ミラはその巻を引いた。毛の買い付けは三軒。三軒とも値の揺れ方がばらばらで、年によって高い順番も入れ替わる。
五年前に織り手が二人減り、出荷はそこから細っていた。
「ロシュのような一手は」
「おりません。織物は、この家がやせていく側の帳面です」
次に、蝋燭を開いた。
「六年前、一割五分上がりました。翌年も、下がっていません」
「業者は」
「同じです。ブノワ商店です」ミラは隣の巻を引いた。「六年前は、雪で街道がふた月ふさがっています。蝋も塩も油も、いっせいに上がりました。卓の公示の綴りにも、その年の蝋の高値が出ています。次の年も、蝋の入りは細ったままでした。四年前に、元の値へ下りています」
「塩と油も、同じ冬ですか」
「同じ冬に、同じだけ上がりました。下りた年も、揃っています」
レオは、紙に何も書かなかった。
ミラはその下の一冊へ移った。「西の蔵の修繕です。見積もりが三度、取られています。工事は、立っていません」
「金は」
「一ドニエも動いていません」
直せなかった屋根だった。抜くほどの金が、そこにはない。見積もりの紙だけが三度ぶん綴じられて、紙だけが仕事をした顔をしていた。
「使用人の手当は」レオが訊いた。
「一人あたりは、十一年、据え置きです。屋敷で申しあげたとおりです」
「名簿に、いない者が混じっている恐れは」
「パンと、合っています」
レオが顔を上げた。
「食堂の帳面に、焼いたパンの数があります」ミラは頁を開いて見せた。「一日に何斤焼いたかで、その日ここで何人が食べたかが出ます。客のあった日は跳ねます。刈り入れの月も増えます。跳ねた日には、別の帳面に必ず理由がありました。理由のない増減は、十一年、一度もありません」
レオの口の端がわずかに動いた。
馬の飼葉も、麻も、同じだった。跳ねた年には、跳ねただけの理由が監査院に綴じられた公示に出ている。
削りかけの筆が書記の手のなかで止まった。
寄進も、冠婚葬祭も、開くまでもなかった。先代の半分まで落ちたきり、戻っていない。
教育費の巻は、いちばんあとに回した。自分に使われた金の帳面だった。
開くのに、少し手間取った。紐の結びは自分の癖のままで、十一年、誰もほどかなかったのだとわかった。
「年に二十四リーヴル。十一年、動いていません」
「動かない」
「はい。ですが、疑いは横で消えます」ミラは頁を指した。「受け取った人が、名前で立っています。手習いの師の名。書物を入れた店の名。どれも家の外の、生きている相手です」
金は出て、物は返ってきていた。読み書きも、算術も、隣国の言葉もミラのなかにある。ロシュの形をしていない。
「受け取った者が名前で立っている科目は、いまは要りません」レオは言った。
ミラは巻を閉じた。指が、まだ表紙に残っていた。革は古びて、角だけが手の脂で暗い。ミラの知らないうちに育った艶だった。
なぜ、無能な拾い子ひとりに、年二十四リーヴルだったのか。
今日の帳尻には要らない問いだった。前にも一度、同じところへ置いたな、とミラは思った。
「ロシュのように立っている科目は」レオが訊いた。
「科目ごとでは、ありません。一つも」
「では、伯爵は醸造だけで止めたことになります」レオは言った。「わたしの見立ては外れました。外れたぶんだけ、この家が正直だったということです」
紙は午後になっても白いままだ。
ミラは、自分の手が書いた十一年を、一枚ずつ裏返していった。どれも痩せていた。
洗っては、閉じる。巻の閉じる音だけが、数を増やしていった。
この家は、貧しかったのではない。貧しくさせられていた。
レオは何も言わずにいた。書記の筆を止めさせたまま、ミラの手元だけを見ている。
ふいに指が止まった。
この帳面を、ミラは十一年書いてきた。一行ずつ、間違えないように。屋敷の帳場でも、同じ巻を読んでいる。
あのときは痩せた跡を探していた。今日は、疑いながらめくっている。そうしてはじめて、中身を見ている気がした。
数えるのと、読むのとは、別の仕事だった。
十一年、ミラは前のほうだけをしていた。誰にも文句を言われない字で、数え、並べた。それが何のための金なのかを一度も訊かなかった。
任せていたのではない。書き写させていただけだ。当主は追放の朝、そう言った。犬に骨を持たせるようなものだ、と。六つの娘に持たされた骨が、この帳面だ。
三つだけ残った。
「科目ごとでは、とおっしゃいましたね」レオが言った。「では、行ごとでは」
「三行です」
書記の筆が紙の上で待っている。
「一つ。河の渡し賃です。秋の終わりに、同じ荷が二度渡っている年があります。七年前と、四年前」
「渡し場は二つあります」レオが言った。「回り道をすれば二度払うことになる。ですが、理由は要りますね」
書記が一行目を書いた。
「二つ。煤払いの手間賃です。人数と額が、年によって釣り合いません」
二行目が書かれた。
「三つ」
ミラは雑費の巻を開いた。頁の下のほうに、それはあった。
「三月三日。白き花、一束。二ソル」
レオが目を上げた。
「毎年です」ミラは頁の端を押さえた。「十一年、同じ日に、同じ一行が立っています。額も、二ソルから動きません」
「花としては、高い額です。パンなら、十二斤買えます」
自分の声が硬いのがミラにもわかった。
「ロシュと、同じ形です」ミラは続けた。「動かない数字は、書いた人の手が決めています。相場も天気も、そこには関わっていません」
レオが、手袋の手で巻を自分のほうへ回した。
「花の出どころは」
「書いてありません。ほかの雑費には、たいてい店の名があります。ここにだけ、ありません」
「届け先も」
「ありません」
「誰の名で、出ています」
「奥向き、とだけ」ミラは支払者の欄をなぞった。「家政の払いに、たまに使う書き方です。誰の指図とは書きません」
「教育費も、十一年動きませんでした」レオが言った。
「あれは横で立ちました。受け取った名前が、向こうにありました。この花には、どこにもありません」
縦でも横でも残るのは、ロシュとこの一行だけだ。
十一年ぶんの巻を通して、いちばん古い一行は、ミラが六つの年に書いたものだった。字が大きく、線が震えている。
白き花、の「き」だけが、裏まで写るほど濃い。まだ筆の力の抜き方を知らない手だ。
訊かなかった、というのは正しくない。一度だけ訊いている。その年だった。
この花は誰のものですか、と家令のジェルヴェに尋ねた。
書けばよろしい、とだけ返ってきた。
帳場の娘に、伝票の理由を尋ねる権利はない。この家では、そういうことになっていた。ミラは二度と訊かなかった。かわりに、間違えなくなった。
いちばん新しい一行も、ミラの字だ。今年の三月三日。追い出される、幾日か前に書いている。
この一行は、ミラの手で始まりミラの手で終わっていた。
「誰が、買いに行きます」
レオが訊いた。
ミラは、答えなかった。
三月になると、この家をひとりで出る人がいる。濃紺の背中が、供も連れずに門を出ていく。行き先は誰にも言わない。
帰ってくると、指先がいつも、少し土で汚れている。ミラは十一年、それを見てきた。
けれど、その人が花を買うところをミラは一度も見ていない。
線なら、とうに引いていた。胸のなかでは十一年ずっと引いている。ただ、その線に証拠の顔をさせて人の前へ出したことは、ない。
帳面と帳面のあいだなら、埋めていい。突き合わせる相手が、向こうにいるからだ。人の覚えと帳面のあいだには、それがない。
埋めた者はたいてい間違える。当主がミラを無能だと決めたときも、埋めたのは当主のほうだった。
「見ていません」ミラは言った。「名を書けるほどには」
レオはミラの顔を一度だけ見た。それから、書記のほうを向いた。
「三行目は、出どころ不明、とだけ」
「よろしいのですか」
「二ソルです」レオは言った。「一年に、二ソル」
「十一年で、一リーヴル二ソル」ミラが引き取った。
二百三十一リーヴルの隣に置くと、数字の顔をしていなかった。
「屋敷に人をやれば、知れます」ミラは顔を上げた。「ジェルヴェなら、家じゅうの払いを束ねています」
「知れます」レオは否まなかった。「ですが、使いが戻る前に期日が来ます。それに、二ソルの花のために、もう一度あの家の者を並べて訊く。伯爵はそれを、何と呼ぶでしょうね」
私怨。ミラはその二文字を胸のなかで書いた。昨日、レオが封じたばかりの札だった。
「長くて三日でしょう。罪の名がつきます」レオは卓の端の目録へ手を伸ばした。「それまでは、二ソルに一日も割けません」
「花は、逃げません」彼はそう言って、目録を閉じた。「帳面に残っているものは、来年も同じところにあります。忘れずにおきます」
日が傾いてから、年かさの官吏が入ってきた。
期日が決まったという。三日後、この監査院に、エルフェルト伯を呼び出す。追徴の額と、罪の名が読み上げられる。山の出荷控えも、その日に開かれる。
「三日後です、ミラさん」レオが言った。「立ち会われますか」
「はい」
考える間はいらなかった。十一年、誰にも渡せなかった帳尻がはじめて人前で合う日だった。
卓の上には、三行だけ書かれた紙が残った。
書記がそれを押収の束のいちばん上に置いた。当主の十一年を暴いた紙束の、真上に。
渡し賃。煤払い。白き花。
二ソル。この数字も、十一年動いていない。
窓の外で、王都の鐘が暮れを打った。




