第18話: 育てた山
今日、罪に名がつく。
四日ぶりの広間は、前より人が多かった。壁ぎわの椅子が足されている。前は幾人かだった列席の貴族がいまは端まで埋まっていた。噂が回ったのだ。
ミラは扉のそばに立っていた。
「そちらへ」
年かさの官吏が机の脇の椅子を示した。
「証人の席です。立たせておく決まりはありません」
ミラは、それを見た。背の低い、飾りのない椅子だった。
「立ったままで、かまいません」ミラは言った。「まだ、勘定の途中ですから」
官吏は何も言わず、椅子をそこへ残した。
戸が開いた。当主が入ってくる。
四日前と同じように身なりは整っていた。けれど、歩き方が少し違う。広間を見渡すとき、目が止まる場所を探していた。旧知の顔はどれもこちらを見ていない。
ベルナールは机の前に立った。今日は誰にも会釈をしなかった。返らない釣り銭は、数えない人だった。
レオが卓の端に立った。「本日は、売り手の帳面を開きます」
書記が麻袋から一冊を出した。革の表紙に山の土がまだ薄く残っている。ミラが持ち山の小屋で見つけ、山守の立会いのもと監査院が押さえた、あの出荷控えだった。
「ロシュから、エルフェルト伯爵家へ。十一年ぶんの出荷が書いてあります」
卓の上に、二冊が並んだ。革の匂いと、山の土の匂いが、石の広間には場違いに青かった。
左に、売り手ロシュの控え。右に、買い手の伝票。当主が自分の手で書いた支払いの記録だった。あの夜、油の匂いのする棚から監査院が押さえたものだ。押収の目録に番号が振ってある。
「同じ年の、同じ荷を開いてください」
書記が二冊をめくる。列席の貴族が幾人か身を乗り出した。
「監査官どの」ベルナールが口を挟んだ。声は、まだ持ちこたえていた。「その一冊は、売り手の帳面でしょう。わたしがその帳場を覗いたことがあるとお思いか。ロシュがどこの誰かなど、こちらは知りません。公示の値だと言われて、そのとおり払った。それだけの話です」
最後の扉だった。値を疑われても、素性を知らなければ罪にならない。知らずに高く買った者は盗人ではなく間抜けで済む。
「あの夜、帳場では、古い付き合いの商人だとおっしゃいました」レオは言った。「臨検の日には、目の詰まった良い木を使う、長く買ってきた、と。あれは書記の筆が控えています。そして今日は、どこの誰か知らぬ、と」
「言葉のあやだ」
声は平らなままだった。けれど、言い直しはもう三度目だった。数える者は数えてしまう。
「では、その二冊を、並べて見てください」レオは卓に手袋の手を置いた。
撥ねが右へ流れている。
八の字は上から書きはじめている。
線の終いをそっと持ち上げて止めている。
二冊とも同じだった。
広間の音がいちど途切れた。
「この手を、知っている者は」官吏が広間へ問うた。
「十一年、写してきました」ミラは言った。「旦那さまの字です。傾きも、癖も、この指が覚えています」
書記の筆が、その証言を書き取った。
「売り手の帳面と、買い手の伝票を」レオは言った。「一つの手が書いています」
「知らぬ相手だと、いまおっしゃった」レオは二冊を当主のほうへ押した。「その相手の帳面を書いた手が、ここにあります。あなたが、あなたの山の葡萄酒を、山の古い名で、あなたの預かる家へ売っていた。値をつけたのも、払ったのも、同じ人です」
「売り手は、いなかった。はじめから」
笑おうとした顔が途中で止まった。口の端だけが動いて、あとがついてこない。
「持ち山の産は、わたしの物だ。自分の物を、自分の家に納めて、何が悪い」
「納めるのは、かまいません。公示の値でなら」
「相場は――」
言いかけて、当主は口をつぐんだ。四日前、その扉は自分で閉めていた。
「二割です」ミラは言った。
自分でも思っていなかったほど静かな声が出た。
「十一年、きっかり二割でした。安い年も、高い年も。旦那さまが払った額を、その年の商会の公示で割ると、いつも一・二です。付け値を六で割れば、抜けた分がそのまま出ます。その二割が、どこへ行ったかも、もうわかっています」
当主がはじめてミラの顔を正面から見た。
十一年、この人がミラを見るとき、見ていたのはいつも値打ちのほうだった。いまも同じ目だ。ただ、勘定が合わなくなっている。
年かさの官吏が書面を持って立った。
「では、読み上げます」
広間が静まる。
「エルフェルト伯ベルナール。家の財を預かる者が、その財を自らの手へ移した。これを、家財の私消と認める」
高い天井の下で、その名は上へ抜けずに落ちた。
罪に名がついた。
あんな古い数字を、いまさら誰が読む。
追い出された朝、この人はそう言った。ミラはその一言だけを覚えておいた。
いま、その古い数字が王都の広間で声に出して読まれている。
「追徴、二百三十一リーヴルと八ソル。科料、同額。あわせて四百六十二リーヴル十六ソル」
書きつける音がいっせいに止まった。
「追徴は家へ返し、科料は王庫へ納めること」
ベルナールが口を開いた。
「家に返す、と。家の当主は、わたしだ」
まだ数える力は残っていた。返した金が自分の手に戻るなら、痛むのは科料だけになる。
「返す先は、この監査院が預かる家の勘定です」レオが言った。「今日からこの家の帳簿は、監査院の管理に入ります。出納には官の裏書きが要ります」
当主の指が印章指輪をさがして止まった。立件の日から、それは監査院が預かっている。
「わたしの家だぞ」
「盗まれたのは、王の財ではありません。あなたが預かった、この家の財です。ですから爵位も領地も、家のものとして残ります。動かせないのは、金だけです」
「では、四百六十二リーヴルを」官吏が書面から目を上げた。「即日か、期限を切るか」
数字は答えを待つあいだも減らなかった。
ベルナールは答えなかった。
答えられない。ミラにはわかっていた。この家にその金はない。十一年かけて外へ出た分だ。屋根も直せず、手当も上げられず、寄進も半分に減らして、それでも出ていった分だった。
「家には、ありません」ミラは言った。「銀のままでは、どこにも残っていません」
官吏が顔を上げる。
「では、どこに」
「丘に」
官吏の目がレオへ動いた。
「監査官どの。それは、取り立てられる形か」
「帳面で、示せます」
レオが教区の台帳の写しを卓に出した。
「聖アニエス教区の登記です。什一税をかけるために、教区は畑を筆ごとに書き留めます。伯爵の持ち山に登記された葡萄畑は、十年前、二筆でした」
書記が頁を繰る。
「三筆になり、五筆になり、七筆」レオが年を追った。
「十一年目に、八筆」ミラは言った。「四倍です」
「同じ十一年に、家から二割が抜けています」レオが引き取った。「抜けた金は、増えた畑になりました。銀の形をしていないだけで、そこにあります」
ベルナールの喉が上下した。
あの丘を、ミラは見ている。作業場の木は、まだ白かった。踏み固められた道が、上の畑まで続いていた。この家が直せなかった屋根の分だけ、丘は広がっている。
「持ち山の畑を、追徴に充てます」官吏が言った。「筆は、教区の台帳で割ります。十一年で増えた六筆を家へ移すこと。残る二筆は、検分のうえ、科料に代えて王庫へ」
増えた六筆は、あらかたまだ実らない若木の畑だった。もとからの二筆は、いま実っている。実る側が、王の手に渡る。
持ち山は、一筆も残らなかった。
葡萄の消えた斜面に、作業場と道だけが残る。どちらも、実をつけない。
ベルナールがはじめて声を荒らげた。
「あれは、わたしが育てた山だ」
その一言で広間の空気が決まった。
金の出どころを問われている場で、育てた、と言ったのだ。
列席のどこかで扇が閉じる音がした。誰も、彼の側に立たなかった。
後ろのほうで、見慣れない紋を付けた従者がひとり、静かに席を立った。ロズレー侯爵家の紋だった。縁談の使いへ出した進物を、ミラは今年の帳面に書いている。
従者は誰にも会釈をしなかった。戸の閉まる音だけが、聞くべきものを全部聞いたと言っていた。
「育てられたのは」ミラは言った。「この家の金です」
あとは短かった。
当主は署名を求められ、震えの出はじめた手で書いた。書き出しの八の字だけは、それでも上から入った。ミラが十一年写してきた、あの撥ねが右へ流れる字だった。同じ手が、売り手の控えと、買い手の伝票と、そしていま、自分の負けを書いた。
三枚目の紙で、ようやく罪の名と当主の名前が、同じ一枚の上に並んだ。
官吏が封蝋を落とす。赤い蝋の匂いが短く立って消えた。
「以上」
列席の貴族たちが立ちはじめた。誰もベルナールに声をかけない。四日前は気まずそうに目をそらしていた旧知の顔が、今日はもう、そらす必要さえ感じていなかった。彼はそこにいるのに、いないものとして扱われていた。
名を汚すというのはこういうことらしい。
人がまばらになってから、ベルナールがミラのほうへ来た。
官吏が動きかけるのをレオが手で制した。
「ミラや」
十一年、この人はその呼び方をした。用があるときだけ。名を呼ばれるたび、次の言葉は決まって仕事だった。
今日はじめて、その先に問いが来た。
「お前は」彼は言った。「何が欲しかった」
ミラは少し考えた。
欲しかったもの。追い出された朝、この人はミラの十一年に値をつけた。無能だと。数字しか読めぬ娘だと。あのとき欲しかったのは、たぶん、その値が間違っていると誰かに言ってもらうことだった。
けれど、いまはもうどうでもよかった。
「合っていない数字を、合わせたかっただけです」ミラは言った。「それだけです」
ベルナールは何か言おうとして、やめた。その答えには値のつけようがなかった。
この人はたぶん最後まで理解しない。ミラが十一年かけて数えたものが、恨みではなくただの帳尻だったということを。
官吏に促されて、彼は扉の向こうへ消えた。
人のいなくなった広間に椅子だけが残っていた。
ミラはまだ立っていた。
「座らないのですか、ミラさん」レオが訊いた。
勧められた席はずっとそこにあった。背の低い、飾りのない一脚。
ミラは座った。椅子は思ったより低くて広間は思ったより広く見えた。
あの家には、誰も座らせるつもりのない椅子が五脚あった。ミラは立ったままそれを勘定していた。
いま、数えるものはなかった。
卓の上で、書記が押収の帳面を束ね直している。醸造の元帳。商会の公示。山の出荷控え。どれも行き先の決まった紙だった。
渡し賃も、煤払いも、この四日で理由がついた。
「終わりましたね」レオが言った。
「帳簿の上では」ミラは答えた。
束のいちばん上に、持ち越しの紙が一枚載ったままだ。
行き先の欄が、三行目だけ空いている。
白き花。二ソル。空いたままの欄を、夕日が薄く照らしていた。帳簿の外に、まだ読んでいない行がある。




