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第19話: 几帳面すぎる花

 三行のうち、二行は片づいた。


 王都を発つ朝は、よく晴れていた。石造りの街に朝の鐘が薄く重なって、旅立ちの日の音になった。


 監査院の門前で馬車を待つあいだ、レオは黙っていた。手袋の指が外套の懐を二度たしかめる。何か入っているらしい。


 「眠れましたか」ミラは訊いた。


 「いいえ」


 あっさりした答えだ。


 「四日とも、ですか」


 「四日とも」


 レオはそれきり黙った。訊けるのはそこまでだと、声の高さが言っていた。




 馬車は来たときと同じ街道を戻る。


 二日で宿場町、そこからもう二日で領地。宿場町から先は、ミラが追い出された朝にたどった道を、そっくり逆に走ることになる。


 窓の外の畑には、もう緑が出ていた。あの朝、街道はまだ泥だった。


 レオが懐から紙を出した。


 折り畳まれた一枚。書記が書いた三行の写しだった。


 「渡し賃は、監査院に綴じてある川の届けで片づきました」彼は言った。「同じ荷が二度渡っていた年は、秋の長雨で上の渡し場が止まった年です。下の渡し場は対岸を回りますから、渡って、また渡り返すことになる」


 「煤払いは」


 「屋敷が客を迎えた年でした。暖炉を余分に焚けば、煤も余分に出ます。あの年だけは、人数ではなく暖炉の口数で払っている。だから人数と額が釣り合わない」


 「どちらも、帳面の外に理由があったんですね」


 「ええ。川の届けと、客の帳面に」レオは言った。「残るのは、三行目だけです」


 三月三日。白き花、一束。二ソル。




 「これが、気になって仕方がない」レオは言った。


 ミラは彼の横顔を見た。


 「ロシュと同じ形です」ミラは言った。「十一年、動きません。動かない数字は」


 「そこです」


 レオがはじめて言葉をさえぎった。


 「ロシュは、動いていました」




 ミラは口を開きかけて止まった。


 レオが紙から目を上げた。「あなたが数えた額を、思い出してください。十年前、二十六。九年前、二十七。八年前、二十五。二年前、十六。去年、二十一。今年、二十」


 全部、違う。


 ミラ自身が読み上げた数字だった。同じ額の年は、一年もない。


 「いま挙げたのは、公示との差です」レオは続けた。「差の元になった付け値は、毎年ばらばらでした。公示で割ったときだけ、どの年も一・二に揃う。動かなかったのは、そこだけです。だからあの数字は、相場のなかに紛れていられた」


 紛れる。


 ミラはそれを飲み込めなかった。


 「隠す者は、紛れます」レオは言った。「ばらつかせる。年をまたぐ。伯爵がやったのは、そのうちの一つだけです。額は動かしたまま、比だけを凍らせた」


 だから十一年、保った。


 あの不動は、帳面の表には出てこない。商会の公示を取り寄せて、割ってはじめて見える不動だった。




 馬車が石を踏んで揺れた。


 レオは紙を膝の上で伸ばした。


 「では、これは」


 三月三日。白き花、一束。二ソル。


 「日が動きません」彼は言った。「額も動きません。十一年、一度も」


 「こちらは、めくれば見えます」レオは紙の端を指でおさえた。「あなたは、一日で見つけた」


 紛れる気がない、とミラは思った。


 思ってから、背中が冷えた。


 「二ソルは、あなたが言ったとおり高い額です。パンなら十二斤、とおっしゃいましたね。隠したい者なら、もっと小さく書きます」


 「日付も」ミラは言った。声が、自分のものでない気がした。「隠す人は、日を決めません」


 「決めません。決めれば、探される」




 ミラは膝の上で手を握った。


 自分がしたことがようやく見えた。


 物差しは一つだけだった。動かない数字は人の手が決めている。それはロシュに当てて、十一年ぶんの横領を割った物差しだ。ミラはそれをそのまま三行目に当てた。


 当ててはいけなかった。


 同じ「動かない」でも、向きが逆だった。


 それに、とミラは思った。


 十一年、あれは誰かの墓の花だと思っていた。誰の墓かは知らないまま、ただそう睨んでいた。


 帳面を外から読み返しはじめた日から、思わなくなっていた。


 「わたしは」ミラは言った。「間違えました」


 レオは否定しなかった。




 「横領の偽装なら」レオは言った。「もっと雑に紛らわせます。二ソルを三ソルにしてもいい。一年くらい抜かしてもいい。そのほうが安全です」


 「はい」


 「けれど、この人はそれをしなかった」


 レオは、書いた者とも買った者とも言わなかった。ただ、この人と言った。


 「几帳面すぎるんです。同じ日に、同じものを、同じ額で。十一年、一度も欠かさずに」


 几帳面。


 ミラは、自分がその言葉を向けられたのを思い出した。数字だけは器用な子だ、が長かった。ただ一度だけ、几帳面な手だ、と字のほうを褒められたことがある。


 几帳面に書く人間を、ミラは一人だけ知っている。


 自分だ。


 窓の外を丘の連なりが流れていった。


 「隠すための数字ではありません」レオは言った。「忘れないための数字です」




 ミラはレオの手袋を見た。


 宿の帳場ではじめて会った日に、この人は言った。昔、ある帳簿の数字を自分の読み方で読んだ、と。自信があった。その読みで一人の男を横領犯にして、牢で死なせた。読み違いだったと分かったのは、数年あとだった。


 あの日、ミラは思った。自分は几帳面に書いて盗みを覆い、この人は自信をもって読んで人を殺した。出た場所は違うのに傷の形がよく似ている、と。


 似ている、では済まなくなった。


 ミラは十一年ぶんの数字を読み、動かない一行を見つけ、作られた数字だと結論した。自信があった。当主を落としたのと同じ手つきで同じ確かさで。


 それは、この人が男を一人殺したときの手つきでもある。


 「四日、持っていらしたんですね」ミラは言った。


 「持っていました」


 レオは紙を二つに折った。


 「四日、自分を疑っていました」彼は言った。「またわたしが、自分の読み方で読んでいるのではないかと。それを確かめてから、話そうと思った」


 「確かめられましたか」


 「いいえ。ですから、あなたに話しています」レオは前を向いた。「あなたが読み違えたまま、わたしが黙っていたら。同じことを、二度やることになります」


 だから眠れなかったのだ、とミラは思った。この人は四日のあいだ、自分の過去をもう一度見ていた。


 「読み違えは」ミラは訊いた。「どこで気づけるんでしょう」


 「一人では、気づけません」レオは言った。「だから、隣に読む人を置きます」




 ミラはしばらく何も言えなかった。


 忘れないための数字。


 帳面というのは、そういうものでもある。忘れないために書く。ミラが十一年やってきたのはまさにそれだった。誰にも読まれないと知りながら、一行ずつ、間違えないように。


 この一行を書いた手も、同じことをしていた。


 ただし、ミラは何を書いているのか知らなかった。相手は知っていた。


 「訊かれましたね」ミラは言った。「誰が買いに行きますか、と」


 「訊きました」


 「答えませんでした」


 「ええ」レオは前を向いたままだった。「あのときは、正しかったと思います」


 あのときは、盗みの話だった。名を出せばその人は盗人の側に立つ。だからミラは、証拠の顔をしていない線を人前に置かなかった。


 いまは盗みの話ではない。


 名を出さなかったことの意味がそっくり入れ替わっていた。


 変わったものはもう一つある。


 作られた数字なら、買いに行った者はいない。誰も花を買っていないのなら、三月にひとりで門を出るあの背中は、この一行と関わりがなくなる。


 ミラの読みは、そこまで含めて都合がよかった。


 自分が誰を守ったのか守らなかったのか、ミラにはわからなくなった。


 レオは何も訊かなかった。




 「これから、どうなさいます」ミラは訊いた。


 「家の帳簿は、監査院が預かっています」レオは言った。「出納は官の裏書きが要る。つまり、これからも開けます」


 「開くのは、どの巻ですか」


 「奥向きです」


 その一語が、馬車のなかに落ちた。


 「いつ、開けますか」


 「戻った日に」


 レオは紙を懐へ戻した。「あの一行の支払者欄は、奥向き、としか書かれていません。誰の指図とは書かない。ならば、奥向きの払いを束ねている綴りを開くしかない。写字者として、あなたの手を借ります。監査の続くあいだは、あなたはあの帳場に入れる」


 押収されたのは、科目ごとに割った巻だ。奥向きの払いを束ねた綴りは帳場の棚に残っている。


 ミラはその綴りを知っている。十一年、自分で書き継いできた。


 縁組。産。教区への寄進。婚礼と葬送の支度。


 あの家がいちばん体裁を気にする帳面だった。数字より日付と名前が並ぶ。




 二日目の夕方に宿場町へ入った。


 テュレの広場は、追い出された朝と同じ場所だった。あの日、ここは泥で、ミラは袋を抱えて馬車を降りた。持っていたのは誰も欲しがらない古い帳簿だけだった。


 いまは、乾いている。石畳の目地まで白く乾いて、あの朝の泥はどこにもなかった。


 宿の帳場で、女将のマノンが顔を上げた。ミラを見て、それから何も言わずに椀を出した。約束は約束だと、この女は言った人だ。


 ミラは椀を受け取り、少し考えてから訊いた。


 「マノンさん。三月三日に、白い花を買う人がいたら、どこで買いますか」


 マノンは面倒くさそうな顔をした。


 「束にして売るような白い花は、三月にゃ出ないよ」


 「買うとしたら」


 「注文して取り寄せるもんだね。霜の下りる月の花は、金持ちのすることさ」




 その夜、ミラは眠れなかった。


 三月に咲かない花が十一年、同じ日に同じ額で買われている。


 咲かないものを毎年そろえるには、頼む先が要る。決まった店へ、決まった額を包んで、決まった日に届けさせるほかにない。それなら額が動かない理由もつく。決まった値を、毎年おなじだけ包んでいるからだ。


 つまり、あの一行の向こうには店がある。


 店があるのに帳面には店の名がない。書かなかったのだ。


 誰かがその店の名だけを、十一年、書かせなかった。


 そこまで考えてミラは寝返りを打った。これも物差しだ。当ててよい相手かどうかを、まだ確かめていない。


 話すべきだ、とも思った。四日黙っていた人の隣で、自分が同じことをしている。


 ミラは寝床で目を開けたまま、その一行の形を思い浮かべた。六つの年の、震える「き」。あの字を書いたとき自分は何を書いていたのだろう。




 そこからまた二日。馬車が丘を回ると門が見えた。


 エルフェルト家の門だ。追い出された朝に一度だけ振り返って、それきり見えなくなったものが、いま正面からゆっくり近づいてくる。


 三月に、あの背中が出ていく門でもある。


 持っているのは、閉じた帳尻が一つと開いていない一行が一つ。


 馬車が止まる。


 十一年、ミラが数えつづけた家だ。無能だと言われ、犬に骨を持たせるようなものだと言われ、用が済んだと言われて出された家だった。


 その家の帳面を、いまは読む権利がある。


 ミラは、自分の家だった場所へ、帳面を読みに戻った。


 今度は、読み手として。それが何を意味するのか、まだ全部は知らないまま。

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