第20話: 署名の下
帳場の戸は、開いたままだ。
棚は荒らされたときのままで、革表紙が何十冊も床に散っている。ミラが並べた背表紙の列はもう一列も残っていない。
床の板に、油の匂いがまだ薄く残っていた。
醸造の棚には監査院の封が貼ってある。赤い蝋に、番号。ここから先は王の調べのものだという印だ。
「灯りは、ありますか」ミラは訊いた。
「頼んであります」レオが言った。「夜は長くなるでしょうから」
「座ってください。あなたの席でしょう」
北の窓の下。日の入らない場所。
十一年、ここに座っていた。卓の高さは体が覚えていて、椅子は腰を下ろすとやはり同じところで軋んだ。変わったのは座る理由だけだ。
「どこから開きますか」
「床のものから」レオは戸口に立ったままだった。「順番は、あなたが決めてください。わたしは、順番の意味が読めません」
「では、下から拾います」ミラは言った。「落ちた紙は、下のほうが古いので」
「読む順は」
「落ちた順の、ままになります」
レオが少しだけ口の端を動かした。
昼を過ぎて、当主が入ってきた。
ベルナールは戸口で足を止め、帳場のなかを見た。ミラの座っている席を、それから卓の上を。
「監査官どの」
声は温厚だった。王都で聞いたものとはもう別の声に戻っている。
「婚礼の日取りを、繰り上げます」
「日取りを」
「秋の予定でした。それを、夏の初めに」ベルナールは言った。「先方には、もう使いを出しました。支度は、こちらで進めます。監査の妨げにはなりません」
ふた月ぶん、早い。
ミラは写している行を見失った。
屋根も直せず、丘も取り上げられて、この人の手に残っているものはもう数えるほどしかない。
けれど、日付を決めるのに金は要らない。
「向こうが承知すれば、の話でしょう」レオが言った。「侯爵家に、急ぐ理由がありますか」
「支度の厚みで、ご得心いただきます」
「その厚みは、どこから出ます」レオが訊いた。
「家の実りです」
「今年の、ですね」
ベルナールの口が、開いて、閉じた。
家へ戻された六筆は、あらかたまだ実らない若木の畑だ。今年、あの丘から入るほどのものはない。支度を厚くするなら、出どころは今年の収穫しかない。
金で呑ませる、と当主は言った。その金をもう自分では動かせないまま。
「急がれる理由は」レオが訊いた。
「めでたい話に、理由が要りますか」
「要ります」レオは言った。「今日から、この家のすることには全部つきます」
ベルナールの笑みがわずかに固くなった。
「娘の支度に、監査院の許しが要るとでも」
「持参金は」
その一語で、部屋の空気が変わった。
「持参金は、家の金です」ベルナールは言った。
「今日からは、そうではありません」
レオは戸口を離れなかった。
「持参金も祝儀も、家の出納です。一リーヴル動かすのに、官の裏書きが要ります。書式は、書記が置いていきました」
「これは家格の話だ」
「紙の上では、金です」
ベルナールの返事がすぐには来なかった。
ミラは頁に目を落としたままでいた。けれど、その沈黙の長さは数えていた。この人が答えを探すときの長さだ。十一年、帳場でそれを聞いてきた。
「……いくらまでなら、通る」
声から温厚さが少し剥がれた。
「額ではありません」レオは言った。「使い道が家のためだと、書面で立てばいい。娘御の婚礼なら、立ちます」
「では、通るのだな」
「通します。ただし、あなたの署名の下に、わたしの署名が要ります」
棚の封蝋が暗がりで赤く見えた。
この人は、娘の支度金を出すために、自分を潰した男の名を自分の名の下に並べなければならない。
「書式を、いただこう」
ベルナールは背を向けた。出ていく足音をミラは数えなかった。
戸が閉まってからレオが言った。
「急いでいますね」
「はい」
「理由に心当たりは」
ミラは王都の広間を思い出した。判決の途中で、後ろのほうの席から見慣れない紋の従者がひとり、静かに立った。従者はそのまま帰った。
「ロズレー侯爵家です」ミラは言った。「あの日、従者が先に帰りました」
「引きはじめていますね」
「はい。噂が領地まで回るには、少し間があります。回りきる前に、式を済ませてしまいたいのだと思います」
「金の要らないものは、まだ動かせますから」ミラは言い足した。
「ええ。日付だけは、まだあの人の物です」
レオは戸口の枠から手袋の手を離した。
「金で買えないものを、日で買おうとしている」
「日は、買えるのですか」
「買えます」レオは言った。「あとで、高くつくだけです」
夕方近く、廊下に扇の音がした。
セリーヌが戸口に立っていた。流行の袖の、明るい色のドレス。帳場の暗さのなかでそこだけ浮いて見える。
「本当に、戻ってきたのね」
声は甘い。棘の位置も十一年おなじだ。
「拾い子さん。ずいぶん出世したこと。追い出された家に、お役人の鞄持ちで戻るなんて」
ミラは頁を繰りつづけた。
「それで、何をしているの」
「書き写しています」
「書き写す」セリーヌは笑った。「わたしには覚えることが山ほどあるの。花の色、席の順、どなたにどう挨拶するか、どなたには挨拶しないか。帳面しか友達のいない人には、わからないでしょうね」
「そうかもしれません」
「わたし、夏の初めに嫁ぐのよ」
「うかがいました」
「うかがった」セリーヌの声が、わずかに高くなった。「誰から」
「旦那さまです。昼にこちらへ」
扇が止まった。
「お父さまが、ここへ」
「はい」
「日取りのことも」
「はい」
セリーヌはそれきり黙った。
ミラははじめて顔を上げた。
この人は、聞かされていない。自分の婚礼がふた月ぶん早まったことを、追い出された拾い子から聞いている。
「秋のはずだったのよ」セリーヌは言った。声が、いつもの高さに戻らなかった。「支度が、間に合うわけがないでしょう。何を急いでいるの」
「わたしにはわかりません」
「お父さまに訊いたの」
「訊きません。わたしは書き写すだけですから」
「そう」セリーヌは扇の縁を指でなぞった。「あなた、昔からそうよね。訊かない。訊かないで、全部見ている」
はじめて棘が抜けていた。
本当だった。ミラが知っているのは、急いでいるという事実だけだ。理由のほうはまだ推し量りだ。
セリーヌの手が動いた。
扇を持っていないほうの手の、親指の爪。口もとへ行きかけて、そのまま下りた。
その動きを、ミラは知っていた。
十一年、この人は婚約の話が出るたびに爪を噛んだ。
慶事のはずのその話題だけ、いつもそうだった。あんなに嬉しそうに扇を鳴らしながら、爪だけが別のことを言っていた。
「おめでとうございます」ミラは言った。
セリーヌは何か言い返そうとしてやめた。扇を閉じ、廊下へ戻っていく。
その背中は来たときより速かった。
日が落ちてから、ミラは奥向きの綴りを出した。
棚の下の段にそれはあった。下の段だけは、手が入っていない。押収されたのは科目ごとに割った巻で、こちらは残っている。家の内向きの払いを月ごとに束ねただけの綴りだ。
数字の少ない綴りだった。かわりに、いつ、誰が、何を、が並んでいる。
数年に一度、縁組が一件。合間に産が幾つか、教区への寄進が幾つか。婚礼や葬送のあった年は、支度の品が長く続く。
あの一行の支払者欄は、奥向き。誰の指図とも書かれていない。その「奥向き」が何をどう払ってきたのかを、この綴りは月ごとに並べている。
三月三日の頁を先に見た。雑費に立っていた一行と、同じことしか書いていない。店の名も、届け先も、この綴りにもなかった。
ミラはいちばん古い年から開き直した。
戸口に人の気配があった。
顔を上げると、濃紺の裾が廊下の暗がりへ入っていくところだった。足音は、しない。
この家で、あの人が帳場の前を通る用は、十一年、一度もなかった。
ミラは綴りに目を戻した。膝の上の紙が少し重くなった気がした。
九年前の頁に、縁組の記載がある。
セリーヌ・エルフェルト。氏の登録。教区への届け出。謝礼。祝いの品の控え。
ミラはその並びを何度も書き写してきた。九年前は自分が七つで、字はまだ大きかった。
指がそこで動かなくなった。
日付が二つある。
教区へ届けた日と、家が控えを起こした日。ふつうは同じ日か、家のほうが一日か二日あとになる。使いが村へ下りて、戻ってから書くからだ。
この頁は、逆だった。
家の控えのほうが教区の届けより先に立っている。
前後の年を繰った。十年前まで遡って、二十いくつの頁を見た。
十年前の縁組。八年前の寄進。七年前の葬送。六年前の縁組がもう一件。どれも教区が先で、家があとだ。
日付の合わない頁なら、ほかにもある。数日ずれた控えは、この家にいくつも転がっていた。
けれど、順番まで逆になっているのは、この一枚きりだ。
追い出された朝、ミラは思った。この家には、合わないものがいくつかある、と。日付は、そのうちのひとつでしかなかった。
九年前の、この一枚。
ずれは、四日。
書き損じだと言われれば、それで通る幅ではある。
けれど、綴りは月ごとに日付の順で重ねてある。書き違いなら、その行だけ並びから外れるはずだ。外れていない。
日付は書き違えられても、綴じた順は動かせない。
数字がどうであれ、この行は届けより前に書かれている。
この家は、日付を動かす。今日の昼にも、一度見た。
そして、その一枚を書いたのは、ミラだ。
七つの手が、二つの日付を、渡されたとおりの順に書き写した。教区へ出す前に、家の控えを先に起こす。そう指図した者がいて、そのとおりに動いた指がある。
白き花のときと、同じだった。あのときは意味を知らずに書いた。今度は、知らずに日付を押した。
ミラは綴りを持って立ち上がった。
二日前の夜、宿の寝床で自分に言ったことがある。話すべきだ、と。四日黙っていた人の隣で、自分が同じことをしている、と。
あのときは言えなかった。あれは、人の覚えと帳面のあいだにある線だったからだ。
これは、違う。
帳面と帳面のあいだなら、埋めていい。突き合わせる相手が、向こうにいる。
教区の記録は、この家の手が届かないところにある。
「レオさま」
ミラは綴りを卓に置いた。
「日付が、二つあります」
レオが卓へ来た。手袋の指が、頁の端で止まる。
「どちらが、先です」
「家の控えです」ミラは言った。「教区より、四日早く」
「書き損じ、ではなく」
「並びは崩れていません。前の行の五日あと、次の行の三日前。座るべき場所に座っています」
「綴じは」
「順のままです。この行は、届けの日より前に綴じてあります。綴じ直した跡もありません」
「よく、気づきましたね」
「並べただけです」
レオは、指を離さなかった。
「届ける前に、書いたことになりますね」
ミラはうなずいた。
「教区に、控えはありますか」
「あります」レオは言った。「写しを取り寄せます。向こうの日付が、こちらと合うかどうか」
「いつ、出しますか」
「朝いちばんに」
「返事は」
「向こうの帳面しだいです。二日か、三日か」
「合わなければ」
「どちらかが、書き直されています」
「どちらだと、お思いですか」
「決めるのは、教区の写しです」
「四日あれば、何が動かせますか」
「それを、これから数えます」
卓の上で、綴りは開いたままになっている。九年前の一枚。四日だけ順番の違う頁。
婚礼までふた月を切っている。
式が済んでしまえば、この四日を数える者はいなくなる。
いまはまだ一人だけいる。




