第21話: 誰の子か
教区からの返事は、三日目の朝に来た。
レオが封を切って目を通し、卓に置いた。
「原簿は動かせない、だそうです」
「写しも」
「出せない、と」
ミラは紙を受け取った。短い返事で、文字も断り方も丁寧だ。
「司祭さまが、代わられたのですね」
「三年前に。前の司祭が綴じた古い綴りは、綴じ目が傷んでいて、めくると外れる。だから触らせたくない、と書いてあります」
「傷んでいる」
「書いてあるのは、そう」
「傷んだ綴りこそ、写しを取るものです」レオは指を紙の端に置いた。「傷んでいるから触らせない、は、写しを断る理由になりません」
「では、なぜ」
「わかりません」
「わかりませんが、断り方は覚えておきます。人は、隠したいときだけ、丁寧になる」
ミラはその言い方を胸のなかで書き取った。
「出させることは、できないのですか」
あの什一の台帳は、人をやった翌日に写しが届いた。
「できます」
「では」
「あの台帳は、地と実りを数えた紙です」レオは返事を畳んだ。「畑の筆数は財の記録です。財のことなら、令状が届きます。ですが洗礼は、秘蹟の帳面です。教会が神へ向けて綴じたもので、これを開けさせる令状には王都の裁可が要ります」
「どれくらい」
「往きと還りで、八日」レオは言った。「その上に、裁可を待つ列が載ります。早くて、ふた月」
ミラはその一語を数の側で受け取った。婚礼までは、それより短い。
「間に合いません」
「間に合いません」レオは言った。「断られたときのために、使いは今朝のうちに王都へ出しました。ですが、待ってはいられません。ですから、頼みます」
十一年ぶんの帳面を割って当主を落とした人が、頼むと言う。
「頼んで、断られたら」
「もう一度、頼みます」
「明日、教区へ出ます」レオは言った。「行って、頼んで、読めれば読む。今日は、こちらで読めるものを読んでおきたい」
「読めるものは、まだあります」ミラは言った。「日付の合う合わないしか、見ていませんから」
奥向きの綴りを、卓の上へ広げた。
レオが向かいに腰を下ろす。この人が読むのは、ミラが読み上げたあとの形だけだ。
「子のことが立つ科目は、四つです」ミラは言った。「縁組。産。それから寄進と、婚礼や葬送の支度」
「産」
「子が生まれると、その月に何行か立ちます」
「十四年前の五月。厨房頭に子が生まれています」
「何が書いてありますか」
「産着の代が一リーヴルと四ソル。乳持ちの手当が三月ぶん。教会への礼が十ソル」
「三つですね」
「三つで一組が、この綴りの形です」ミラは別の年を開いた。「六年前の秋、門番の子。産着は一リーヴル八ソル。布の値が上がった年でした」
「十二年前は」
「庭番の子が二人。双子でした」ミラは指で押さえた。「産着と乳持ちが二人ぶん。礼は一度きりです。洗礼が同じ日でしたから」
使用人の子にまで、家は書き残している。
お嬢さまは、この家の子としてお生まれになった。
家がそう言うのを、ミラは十一年聞いてきた。客の前でも教区の司祭の前でも同じ言い方だった。
「探しましたか」レオが訊いた。
「これから探します」ミラは頁の端を折った。「お嬢さまは、十七です。生まれたのは、十七年前」
「あなたが来る前ですね」
「はい」
言ってから気がついた。
自分が書いていない年だ。日付の順を追ったことはあっても、産の行を読んだことは一度もない。
「この綴りは二十年前から、途切れずに続いています」ミラは言った。「十三年前までが先の家令の字。そこから二年は、別の手です。誰の字かは、わたしにはわかりません。十年前から、わたしの字になります」
「あなたのは、角の立った字ですね」
「はい」
ミラは、新しいほうから順に下りていった。
どの年にも、誰かの産がある。
十一年前で、指が一度ひっかかった。
葬送の支度が長く続いている。喪の布。棺の作り。鐘の代。会葬の振る舞い。これだけ厚い支度は、この綴りに一度きりだ。
誰の葬送かは頁のどこにも書いていない。書いていなくても、家の者はみな知っている。支度の行に立つのは、何を買ったかだけだ。科目ごとに割った巻も、同じはずだ。
いま探しているのは産だ。無いものは、探している者の目にしか映らない。ミラは頁を送った。
この綴りは十一年前で、慶弔の行が半分になっている。それより古い年は、倍ある。
その厚かったころを、ミラは一枚ずつ繰った。
十七年前。その前の年。さらに前。
いちばん古い年まで、下りた。
家の子の産は、二十年で一件だけあった。
十六年前。
使用人の子とは厚みが違う。産着は絹で五リーヴルを超えている。乳持ちの手当は一年ぶん。礼も五リーヴルで、使用人の十倍だ。
この家の子が生まれたときの書き方は、ちゃんとある。
けれど十六年前だ。お嬢さまの年と合わない。
そして、使用人の子の行には宛がある。厨房頭に、門番に、庭番に。教会への礼はどの年も同じ相手へ払うのに、どの礼にも誰の子かが書いてある。
支度は誰のためかを書かない。産は書く。二十年、どの年も。
この年の三行には、それがない。産着、乳持ち、礼、とだけ立っている。
名がないので、この子が次にどの行へ出たのかは追えない。
お嬢さまの産は、まだ出てこない。ミラは、そこから上へ繰り上がった。
二度目も、同じだった。
「ありません」
「何がです」
「お嬢さまの産です」
レオが黙った。
「二十年ぶん、二度繰りました。厨房頭の子にも、門番の子にも、庭番の双子にもあります」ミラは綴りから手を離さなかった。「家の子の書き方も、この綴りにあります。二十年で、一件だけ」
「その一件は」
「お嬢さまの年と合いません。宛は書かれていません」
「その年が、書き違いということは」
「綴りは日付の順に重ねてあります」ミラは言った。「年を書き違えたなら、その頁だけ並びから外れます」
「四日のときと、同じ理屈ですね」
「同じです」
「では、逆はどうです」レオは筆を止めた。「動いたのが、お嬢さまの年のほうだとしたら」
ミラは指を止めた。
「その数は、この綴りでは決まりません。十七と言っているのは、家です」
「家の言うことを、家の帳面では確かめられない」
「はい。ただ、一つだけ決まります」ミラは頁を繰った。「お嬢さまには、九年前の縁組があります。氏の登録と、教区への届け出。この家で生まれた子に、それは要りません」
「届けそこねた子なら、あとから要りますね」
「十六年前の子には、礼が立っています。ですから、これで決まるのは、その一件との切り分けだけです」
レオは何か書き留めた。「先に、お嬢さまのほうを終わらせましょう」
そのまま続けた。「書き落とし、ということは」
「落とすなら、まず使用人の子のほうが落ちます」ミラは綴じ目を見せた。「抜いた跡もありません。糸を通し直せば、そこだけ揃いません」
「産着は、家に代々あるものでは」レオが言った。「使用人には現物がない。だから金で出す」
「十六年前の子には、絹の産着が五リーヴルを超えて立っています」ミラは言った。「代々のものがあるなら、この行は要りません」
「乳持ちは、給金の科目かもしれません」
「常づめの乳母なら、人件です。けれど礼は、別の科目になります」
「里で産んだのなら」
「洗い場の女です」ミラは頁を戻した。「里で産みました。産着も乳持ちも空です。それでも礼だけは家が出しています。名を届けるのは、家の役目ですから」
レオは、まだ引かない。
「十七年前のご当主は、先代です」彼は言った。「弟君の子なら、この家の子ではない」
ミラは頁を見たままでいた。
「弟君は、どこの家の方でしたか」ミラは顔を上げずに訊いた。
「この綴りは、家の方の入り用も引き受けています」ミラは頁を繰った。「十七年前の頁にも、弟君の入り用が載っています。仕立てと、冬の炭です。名を届けるのは、家の役目です。さきほど、申し上げました」
「家は、この家の娘として生まれたと言っています」ミラは顔を上げた。「綴りは、届けた跡がないと言っています。どちらかが、嘘です」
自分の言ったことの重さが、あとから追いついた。
「四日は、順番の話でした。これは、頁ごと無い話です」レオは言った。「家の言い分は、通りません」
昼を過ぎて、家令のジェルヴェが帳場へ来た。
この家の出入りをすべて束ねてきた人だ。十一年、ミラの名を呼ばずにきた。呼んだのは一度、使用人を集めたあの広間で。
「監査官どの。書式のことで、伺いたいことが」
レオが応じる。そのあいだにジェルヴェの目が一度だけ、ミラの手元へ流れた。
一息ぶん、止まっていた。
レオが卓の向こうで一歩下がった。訊いてよい、という意味だとわかった。
「ジェルヴェさん」
老人が、こちらを向いた。
「奥向きの綴りに、産の科目があります。使用人の子まで、産着の代が書いてあります」
「ございます」
「お嬢さまの産が、どこにもありません」
ジェルヴェは表情を変えなかった。この人は驚いたときも困ったときも、同じ顔をする。
「わたくしがこの家に参りましたのは、十二年前でございます」
十二年前。家の言う年から数えれば、お嬢さまが生まれた五年あとになる。
「その年から二年、綴りに別の手が入っています」ミラは言った。「あなたの字とは違います。どなたのものでしょう」
「存じません」老人の目は、綴りの上から動かない。
「先の家令の方は」
「亡くなりました。わたくしが参ります、少し前に」
「では、引き継ぎは」
「奥さまから、直に」
奥さま。マルグリットの名を、この人はいつもそう呼ぶ。
「産の科目のことは、伺いましたか」
ジェルヴェの手が袖の縁で一度そろえられた。言葉を選ぶときの手つきだ。
「伺っておりません」
「けれど、お気づきでは」
「わたくしの役目は、奥向きの綴りを読むことではございません」老人は言った。「開いてよい棚と、開いてはならない棚を覚えておくことでございます」
「この棚は、どちらでしょう」
「監査官どのが開いておいでです。わたくしから申し上げることは、ございません」
白き花のことも、訊けた。
この人なら知っている。六つのとき一度だけ訊いて、書けばよろしい、と返ってきた。それきりだ。
いまも、訊かなかった。
二冊に同じことが書いてあるだけだ。それは、まだ線ではない。
「ありがとうございます」
書式のことは、それきり出なかった。
老人は出ていった。廊下の足音は、来たときと同じ速さだ。
「訊きましたね」レオが言った。
「はい」
「線を、人の前へ置きましたか」
「置いていません。あるはずのものが無い、と申し上げただけです」
「相手は、それを線だと受け取ったでしょう」
「はい」ミラは言った。「ただ、引くとすればあの人が自分で引きます。わたしの手は、そこまで届きません」
夕方まで繰った。婚礼までの日が、今日もひとつ減った。
使用人の子には、どの年も礼が立っていた。
お嬢さまの頁だけが、逆さになっている。産着の代も、乳持ちの手当もない。洗礼の礼も、立っていない。かわりに縁組の科目へ、セリーヌ・エルフェルト、と書いてある。
九年前の、あの一枚だ。
四日ずれていた頁に、この家はお嬢さまを入れている。
生まれた記録がなくて、家に入れた記録だけがある。
その形には、見覚えがある。
その頁だけは開かずにおいた。二度とも、指が先へ滑った。どこにあるかも、何がどの手で書いてあるかも知っている。
自分の頁だ。十一年前の冬。産の記載はなく、氏の登録と教区への届け出だけ。謝礼も、祝いの品もない。
書いたのは、この手ではない。字を覚える前の頁だ。
歳は行の脇に小さく足してある。あとから、別の字で。もともとの行には無い数だ。
どの手か、並べれば読める。
ミラは、綴りをそこで閉じた。
「レオさま」
顔は上げなかった。
「この家で、産の書かれていない子は、二人います」
「二人」
「お嬢さまと、わたしです」
「拾われた子の産が無いのは、当たり前です」レオは言った。「当たり前でないのは、一人です」
椅子の脚が、床を鳴らした。
「原簿には、この綴りが書かなかったものが残っているはずです」彼は言った。「読ませてもらえるまで、帰りません」




