第22話: 八年の空白
朝いちばんに出た。
街道を東へ折れて丘をひとつ越える。半日と聞いていたが、馬車はそれより早く着いた。
名は十一年書いてきた。寄進の巻に毎年この教区の名が立つ。書いたことはあっても、来たことはない。
聖アニエスは、思っていたより小さい。石の礼拝堂と、その脇に司祭館。畑がそこまで迫っている。穂の出ていない麦が、道の両側で膝の高さに揃っていた。
礼拝堂の戸は閉まっていた。
いま数えに来たのは、年だ。ミラは司祭館のほうへ歩いた。
戸を開けたのは若い男だ。三十を出たかどうか。袖をまくった手の甲に土の跡がある。畑を見に出ていたのだろう。
「アンセルムと申します」
名乗ってから、レオの外套の留め金を見た。監査院の紋をこの人は知っている。
レオは、ミラを引き合わせなかった。
「お返事は、差し上げました」
「読みました」レオは言った。「それで、参りました」
アンセルムは戸口を塞いだままでいる。体をずらす気配はないが、戸を閉める手も動かない。
「原簿は、動かせません」
「動かさなくてけっこうです」
「写しも、出せません」
「書き写させてくれとも、申しません」
司祭の眉が、わずかに動いた。
「では、何を」
「見せてください」レオは言った。「一葉だけ」
「令状はお持ちですか」
「王都へ出しました。裁可を待つ列を入れて、早くてふた月です」
「では、ふた月お待ちいただければ」
「その前に、婚礼が済みます」
アンセルムは黙った。断るための言葉を探している顔ではない。断ったあとのことを考えている顔だ。
「ロズレー侯爵家との縁組です」レオは言った。「式が済んでしまえば、あとで紙が出てきたところで、動かせるものが減ります」
「動かす、とおっしゃると」
「わたしは監査官です。数えるのが役目で、動かすのはわたしではありません」レオは言った。「ですが、数えられなかった紙は、誰にも動かせません」
司祭の手が、戸の枠から離れた。
「わたしは、三年前にここへ来ました」
アンセルムは、自分の言葉を確かめるように区切った。
「前の司祭さまが綴じた古い巻は、綴じ目が傷んでおります。めくれば外れる。外れた葉は、もう元の順には戻りません。順が崩れれば、それはもう原簿ではない」
ミラは、その一言を覚えておいた。
順が崩れれば、原簿ではない。きのう、同じことを自分が言っている。綴りは日付の順に重ねてある、と。
「では」レオは言った。「あなたがめくってください」
「触れないでいただけますか」
「触れません」
「めくるのは、わたしです」
「はい」
「見ていただくのは、一葉だけ」
「十七年前の一葉です」レオは言った。「それだけで足ります」
アンセルムは司祭館の奥へ引っ込んだ。断ったわけではなかった。
通されたのは卓が一つと椅子が二脚きりの部屋だ。
窓が北を向いている。帳場と同じだ。
卓の端に、糸の切れた束が積んであった。司祭はそちらへは触れず、麻布を敷いて、その上へ原簿を置いた。
思ったより厚くない。年に何件も立たない教区だ。表紙が反り、背の糸がゆるんでいる。
「触れないでください」
触れません、とレオはもう一度答えた。その手は、はじめから手袋に包まれている。
司祭はめくった。指の腹だけで、紙の端を持ち上げるようにして。
もう一方の頁には司祭の手のひらが置かれたままだ。見せる気のない側だろう。
十七年前の頁に、七行あった。
洗礼が三つ、婚姻が一つ、葬いが三つ。村の一年ぶんが、それで足りる。
上から三つ目に、セリーヌ、とあった。
きのう、ミラはこの数を家の言い分だと言った。この綴りでは決まりません、と。いま、家の外の帳面に、同じ年でこの子の名が立っている。
だから、次を見た。
名の欄が、短い。
ほかの二つの洗礼には、名のあとに続きがある。粉屋の子、なにがし。鍛冶の娘、なにがし。婚姻の一行にも、葬いの三行にも、誰の家の何某かが書いてある。
上から三つ目だけが、セリーヌ、で終わっていた。
「書き落としでは」レオが言った。
「氏が、ありません」ミラは言った。「落としたのか、はじめから無いのか。この一行では分かりません」
「ございませんね」
司祭は頁を見たままでいる。
ミラは、その一行の長さを目で測った。ほかの洗礼の行の、半分にも足りない。
「この帳面は、どなたが書かれますか」
「司祭です。代が替われば、字も替わります」
「では、行の形は」
「形は替わりません」アンセルムは言った。「洗礼なら、日と、名と、誰の家の何某か。それに、氏の届けが出れば、その年に一行。年が替われば、丁を改めます。教区の帳面は、二百年その形でございます」
ミラは頁の上を左から右へ目で追った。七行とも、司祭の言うとおりに並んでいる。
形が同じなら、欠けたところが立つ。
「こういう行は、ほかにもありますか」
「ございます」アンセルムは言った。「親の知れぬ子です。拾われた子や、旅の女が置いていった子。氏を持たぬまま洗礼を授けます。名がなければ、神へ差し上げようがありませんので」
「その子らは、そのあと」
「たいてい村には残りません。乳を持つ女のある里へ出します」
「そのあとは」
「引き取る家が決まれば、氏が立ちます。教区へ届けが出て、こちらが書きます」
「同じ行に、書き足すのですか」
「いたしません」司祭は初めてミラのほうを見た。「あとから同じ行に足せば、いつ書いたか分からなくなります。届けの出た年に、あらためて一行立てます」
この人も守っている。書いた順は動かさない。
「届けは、どなたが出されますか」
「引き取る家です」
「どなたの名で」
「家の名で」アンセルムは言った。「帳面に立つのは家です。持ってきた者の名は、こちらには残りません」
「では、この子の氏は、どの年に立っていますか」
アンセルムは頁を送らなかった。かわりに原簿の背へ指を当て、紙の厚みを測るようにした。
「九年前です。お手紙にあったお名前で引きました。氏が立つのは、その年でございます」
書く前に、この人はここを開いている。
断りの返事はそのあとに書かれている。
「セリーヌという名は、ほかにありますか」
「引いたときに、十七年前から、氏の立つ前の年まで一年ずつ見ました。巻にあるかぎりで、その八年に、セリーヌはこの子きりでございます」
「氏の届けは、秘蹟ではありません」レオが言った。「ただの届けです。それだけなら、令状は届きます」
「同じ綴りでございます。一葉を出せば、前後の葉も出ることになります」
「一葉だけなら、家は届けそこねたと言います」レオは言った。「効くのは、二葉が並んだときです。今日は、出しません」
九年前。
奥向きの綴りで、七つのミラが書いた年だ。氏の登録と、教区への届け出。謝礼と、祝いの品の控え。
あの四行の向こう側が、いまここにある。
十七年前に洗礼。九年前に氏。
あいだが八年ある。
ミラは指を折らずに済ませた。折るまでもない。
その八年、この子はどの家の名も持たなかったことになる。
家はこう言ってきた。生まれたのはこの家の子だ、と。客の前でも教区の司祭の前でも、同じ言い方だった。
この家の子として生まれた者に、八年後の氏の届けは要らない。
書き落としでもなかった。落とした氏なら八年も待たない。
「十七年前も、家が言った数でしたね」レオが言った。
「洗礼の日は、書いてあります」ミラは言った。「生まれた日を書く欄が、この帳面にはありません」
拾われた日なら書ける。生まれた日は、拾った者にも書けない。
「九年前の届けの日を、伺えますか」
「三月の、十九日です」
レオが外套の懐から折り畳んだ紙を出した。九年前の一枚の写しだ。ミラは目を落とさなくてもわかった。家の控えは、十五日で立っている。
「四日、家のほうが早い」ミラは言った。「教区の日は、家の綴りにも同じ十九日で書いてあります」
「合いました」レオが言った。「書き直したのではない。順だけを、先に決めている」
「早いということは、ございません。届けが出て、こちらが書く。家の控えは、そのあとに起こすものです」
「では、あの控えは、何の控えでしょう」
「存じません」アンセルムは言った。「こちらの帳面のことしか、申し上げられません」
「もう一つ、伺えますか」レオが言った。「十六年前の丁を」
アンセルムの手が、原簿の上で止まった。
「一葉、と申し上げました」
「一葉で結構です。これを閉じて、かわりに」
「同じことです」司祭は表紙に手を置いた。「二葉目をお許しすれば、次は三葉目です。わたしは、そこで止まる自信がありません」
レオは、それ以上言わなかった。
自分で出した条件だった。
訊きたいことは、もう一つあった。十一年前の冬の一葉だ。けれど今日の借りは、一葉で使い切っている。
開いた丁の次で、糸目が一つ飛んでいる。
司祭は表紙を閉じ、卓の端の束へ目をやった。糸の切れた葉が重ねてあり、縁が茶色く波打っている。なかほどが、ひときわ厚く膨れていた。
「外れた丁です。前の司祭さまの巻から、幾つか抜けました」
巻にあるかぎり、と司祭は言った。あの一言が束を除けてある。
「その束にも、セリーヌは」
「分かりません」アンセルムは言った。「参りました年に、一度ひろげました。順は戻せませんので、年だけ拾って控えてございます。名までは、控えておりません」
「その八年で、束に落ちているのは」
「十六年前きりでございます。年は控えてございますから、それだけは」
名まで読めたのは、七年だ。
「なぜ、写しを断られました」
「写しは、わたしの読み方でございます」アンセルムは言った。「わたしが読み違えた一行が、紙になって歩き出します。原簿は、歩きません」
引いてから断った。隠したのとは違う。渡し方を選んでいる。
「順は」
「拾った順に重ねただけです」司祭は束から目を離した。
「王都の裁可が下りれば」レオが言った。「そのときは、崩さずに読む手が来ますか」
「来ます。綴じ直す者が、王都にはおりましょう」
「ふた月」
「ふた月です」
レオは外套の留め金に手をやってから、下ろした。
ミラも言わなかった。
あの束のどこかに十六年前の洗礼がある。産着が絹で、乳持ちが一年ぶんで、宛のない、あの一件の洗礼が。
開くには、ふた月が要る。
外へ出ると日が高くなっていた。畑のあいだの道を馬車まで歩く。膝の高さの麦が、裾に触れた。
「一つ、決まりましたね」レオが言った。
「はい」
洗礼の日、あの三つ目の行の子は親の知れぬ子として書かれている。
裏づかなかったのは、もう一語のほうだ。この家の子として、という一語が。
「氏は、生まれた年に立ちます」ミラは言った。「立っていません」
「立ったのは、九年前」
「はい」
「その八年を、家は何と言うでしょうね」
ミラは答えを持たない。
分かったのは一つだけだ。八年ぶん、この子を誰の子と書いた行を、まだ一つも見ていない。
書かれていない子を、ミラはもう一人知っている。十一年前の冬に、氏の登録と教区への届け出だけが立っている子だ。外の帳面を、ミラはまだ一度も見ていない。
馬車が丘を上りはじめた。
振り返ると礼拝堂の屋根が、畑の向こうに沈んでいく。
「戻ったら」ミラは言った。「九年前の綴りを開きます。それと、家政の巻を」
「家政は監査院です」レオが言った。
「奥向きに子が立つ科目は、四つきりです。六年ぶんの育てた分は、そこには立ちません」
「王都へ書きます」レオは言った。「往って戻って、八日」
「教区のふた月よりは、早い」
「早いだけです」レオは言った。「間に合うとは、申していません」
「何を見ますか」
「その八年のうち、前の六年です」ミラは言った。「わたしが参ってからの二年は、お嬢さまはこの家においででした」
「それは、覚えですね」
「覚えは、証しになりません」ミラは言った。「どの頁を開くかは、決められます」
「では、六年」
「その六年、この家がこの子に何を払っていたか」
「払っていれば」
「払った先に、名があります」
「十六年前のように、宛のない払いなら」
「あれは産です」ミラは言った。「産は三点で一組です。乳持ちが一年ぶんまでなら、その一組に収まります」
「六年は」
「収まりません。一組の外へ出れば、科目が要ります」ミラは言った。「物なら、何を買ったかで済みます。けれど預けた先へ毎年払うなら、先の名が要ります」
自分の教育費がそうだった。年に二十四リーヴル、十一年。受け取った人の名が毎年書いてある。
なぜ拾い子ひとりに、という問いはあのとき置いたままにした。いまも置いたままだ。
払いは名がなくても立つ。受け取る側には、要る。
馬車が丘を越えた。帰り着くころには、また一日が減っている。




