第56話: 身を挺して
帳場に、ひとりだった。
束は机の上にある。紐でくくった四つの写しと、上に載せた経緯の紙。出す先は監査院だ。出す者はここにいる。
門は閉まっている。
義父の足音は奥に去っていた。廊下に人の気配がない。
門を閉めたのは紙を止めるためだ。この紙が監査院に届けば、この家の中の話はこの家の外に出る。
門番に言ったのは門だけだ。通用口のことは言っていなかった。厨房の脇を通り、屋敷の南に出る口だ。
ミラは束を抱えて立った。
帳場の戸口に出た。右の廊下は奥へ伸びている。義父はそちらにいる。左の廊下が厨房に通じている。通用口はその先だ。
左へ向かおうとした。
右の廊下の角で、色が動いた。
濃紺だった。
足音はしなかった。
奥さまだった。
ほつれ一つなく結い上げた髪に白が混じっている。背筋のまっすぐな中背の人だ。装飾を削いだ濃紺のドレスは、いつも喪のように見えた。
奥さまは帳場のほうを見た。束を抱えたミラを見た。
「門が落ちたのは」ミラは言った。
「聞こえました」奥さまは言った。「義弟どのの声も」
「経緯の紙を読まれました」ミラは言った。「全部」
「分かっています」奥さまは言った。
「義父はいま奥に」ミラは言った。
「書斎です」奥さまは言った。「下女たちは下がらせました」
「奥さまが」ミラは言った。
「わたくしが」奥さまは言った。
「通用口は」ミラは言った。
「開いています」奥さまは言った。「確かめました」
「いつ確かめたのですか」ミラは言った。
「門が落ちたあとです」奥さまは言った。
「出なさい」奥さまは言った。「その紙を持って」
「この紙を監査院のお方に届けます」ミラは言った。
「監査院のお方はどちらに」奥さまは言った。
「控えを確かめに外へ出ています」ミラは言った。「街道のほうへ」
「ひとりですか」奥さまは言った。
「ひとりです」ミラは言った。
「よろしい」奥さまは言った。「その方に渡しなさい。束ごと」
奥さまが先に立った。左の廊下を歩いた。足音がしない。ミラの足音だけが廊下に落ちた。
廊下の途中で奥さまが止まった。
手を上げて、ミラを止めた。
奥のほうから足音がした。揃った短い歩幅だった。義父の足音だ。廊下の向こう側を横切っている。
奥さまは動かなかった。濃紺の背筋がまっすぐに廊下に立っている。ミラは束を抱えたまま壁際に寄った。
足音は遠ざかった。上の階へ上がっていく音がした。
「二階へ上がりました」ミラは言った。
「いまのうちです」奥さまは言った。「先へ」
奥さまは歩き出した。厨房を通った。朝の火が落ちたあとの暗い部屋だ。釜の灰がまだ温かい匂いを残していた。
通用口の木戸が見えた。開いている。外の光が差し込んでいた。
奥さまは木戸の手前で止まった。
「帳面は」奥さまは言った。
「帳場にあります」ミラは言った。
「帳面はこの家の中にあります」奥さまは言った。「動きません。紙があればよろしい」
「写しは四つあります」ミラは言った。
「それで足ります」奥さまは言った。
ミラは木戸のそばに立った。外の光が束の紐に当たっている。
「奥さまは」ミラは言った。「出ないのですか」
「出ません」奥さまは言った。
「なぜ」ミラは言った。
奥さまは答えなかった。
「義弟どのの傍に」奥さまは言った。「参ります」
「奥さま」ミラは言った。
「行きなさい」奥さまは言った。「振り返らなくてよろしい」
奥さまの手がミラの肩に触れた。
薄い手だった。十一年、この手に触れたことがなかった。
押した。軽く、外のほうへ。
ミラは木戸をくぐった。日が高かった。屋敷の南側に出た。道が先に伸びている。
振り返った。振り返らなくてよろしいと言われた。振り返った。
奥さまは木戸の内側に立っていた。暗い厨房のなかで濃紺はほとんど見えなかった。背筋だけがまっすぐに見えた。
木戸が閉まった。内側から。
ミラは道を歩いた。足は速かった。束を抱えた腕に力が入っている。
道の先に人の影があった。鞄を持っている。
レオだった。
「門が閉まりました」ミラは言った。
「聞こえました」レオは言った。「街道まで音がした」
「義父が閉めました」ミラは言った。「経緯の紙を読まれました」
「いつ」レオは言った。
「昼過ぎです」ミラは言った。「肥やしの控えを渡しに来て、帳場で紙を読みました」
「いちばん下まで」レオは言った。
「いちばん下まで」ミラは言った。
「門から出たのですか」レオは言った。
「門は閉まっています」ミラは言った。「通用口から出ました。厨房の脇の」
「誰が開けたのですか」レオは言った。
「奥さまです」ミラは言った。「門が落ちたあと、通用口が開いているかを確かめに行って、そこからわたしを出しました」
「奥さまは」レオは言った。
「屋敷の中です」ミラは言った。「義弟どのの傍に参ります、と」
レオは黙った。
「参ります、と」レオは言った。
「そう言いました」ミラは言った。
ミラは束を差し出した。レオは受け取った。紐を確かめた。四つの写しがあることを指で数えた。
「経緯の紙は」レオは言った。
「いちばん上にあります」ミラは言った。
レオは紐の結びに触れた。解かなかった。
「開けなくてよいのですか」ミラは言った。
「紐が掛かっていれば中身は揃っています」レオは言った。
「この紙は」レオは言った。「わたしが預かります。監査院の名で」
「お願いします」ミラは言った。
「あなたは屋敷に戻りますか」レオは言った。
「戻れません」ミラは言った。「門は閉まっています。通用口も奥さまが内側から閉めました」
「では街道沿いに南へ」レオは言った。「宿場まで行けます」
紙はレオの鞄に入った。
「帳面は帳場にあります」ミラは言った。「奥さまが、帳面は動かなくてよい、紙があれば足りると」
「帳面が動かないなら帳面は安全です」レオは言った。「消す手間は伯爵にもかかる」
「写しは四つあります」ミラは言った。
「四つあれば足ります」レオは言った。
「奥さまがそう判断しました」ミラは言った。「紙があれば帳面は要らないと」
「正しい判断です」レオは言った。「この紙はわたしの鞄の中にあります。監査院の管理下です」
ミラは振り返った。屋敷は道の向こうにある。門は閉まっている。通用口は奥さまが内側から閉めた。
歩きながら左の肩を見た。奥さまの手があった場所だ。
門を閉めた人の中に、門を開けた人が戻った。




