第54話: 守ったのだ
紙を待つあいだに、ミラは別の帳面を開いた。
きのう一つに閉じた四枚は、机の端に寄せてある。横領の数字、偽の血の届け、白き花の行、教育費の巻。
四枚とも一つの根から出た枝だった。その隣に、枝でないものを出した。
「待つあいだに、読んでおきたいものがあります」ミラは言った。「罪のない行を読みます」
出したのは、家の日々の帳面だ。修繕、給金、仕入れ、寄進。家を回すために立てた行を、十一年ぶん。
ミラは十一年この帳面を書いてきた。金の綻びを追うために何度も開いた。だが罪のない行を、罪のない目で読んだことは一度もなかった。
屋根の葺き替え。壁の漆喰。冬ごとの薪の手配。
家を継いだ人は、修繕をほとんど翌年に送らなかった。傷みが出た年に費えを立て、持ち越しの行が少ない。
厩の床にも井戸の石組みにも、壊れる前に手が入っている。ただし西の蔵の屋根だけは見積もりが三度綴じられて工事がない。
「一箇所を除いて、修繕は傷みの前に入っています」ミラは言った。「除いた一箇所は、二割を抜いた家には重い費えでした」
使用人の給金ははじめから相場より高く、十一年動いていない。動かさなくても人が出ない額だ。辞めた者は三人。病と老いと嫁ぎだけだ。
「人も替わっていません」ミラは言った。「高い給金で留めて、長く使っている。出入りが少なければ、帳場に不審な目が増えません」
レオが顔を上げた。
「帳場に長くいる人は」レオが言った。「見慣れたものを疑わなくなります」
「この人は、それを分かっていた」ミラは言った。
先代さまの頃の帳面を重ねた。先の家令の粘る字で書かれた、十三年前より前の帳面だ。
悪い帳面ではない。だが修繕に翌年送りがいくつかあり、給金は相場のちょうどだった。
先代さまが家を傷めた形跡はない。けれど、直す手は少し遅い。
「先代さまの頃と並べました」ミラは言った。
「なにが見えますか」レオが訊いた。
「この家は、継いだ人のほうが上手に回しています」ミラは言った。「先代さまは家を傷めませんでしたが、継いだ人は家を伸ばしています」
ロシュの行を帳面から抜いてみた。
二割の上乗せを除き、残りだけで十一年の支出を見る。二割を引いた残りで、修繕にも給金にも仕入れにも足りていた。
「壊さない量だけ取って、壊さない家を保っています」ミラは言った。
家が傾けば目につく。帳場の者が首を傾げる。
修繕を後回しにすれば壁が傷み、給金を削れば人が出る。出た人が口を開けば、帳面の外に話が漏れる。
目につかなかったのは、傾かなかったからだ。傾かなかったのは、取り方が上手だったからだ。
「帳面の上では」レオが言った。「壊れた跡がありません」
ミラは帳面を閉じなかった。
罪の行を除いた十一年は、整った家の帳面だった。
「この人は」ミラは言った。「盗りながら家を回していました。先代さまのときより、上手に」
欲で盗る人なら、もっと取る。家が傾いても構わず取り、傾いたら出ていく。
この人は傾かせなかった。家が持つ幅で取り、残りで家を回した。
家を持たせることが、この人には要った。持たせて、次の代へ渡す。そのために兄を盛り、兄の子を消し、自分の子を前に出した。
「家を守ったのだと」ミラは言った。「この帳面を読むと、この人はそう思っている人です」
「自分を悪いとは」レオが言った。「言わないでしょう」
「帳面を出されたら、家は回っていたと言うでしょう」ミラは言った。「壊したことではなく、そのあと守ったことを」
「殺した人のほうが、上手に守っていました」ミラは言った。
帳面を読めば読むほどそう読める。ミラの手が帳面の上で止まった。
「この人を帳面で追い詰めたとき」ミラは言った。「盗った話だけでなく、守った話もされるでしょう」
「監査の場で」レオが言った。
「はい」ミラは言った。「家は回っていた、と。使用人は辞めていない、と。修繕は遅れていない、と。事実です。帳面がそう書いています」
だが帳面に立たない行が、一つある。
先代さまの命だ。
修繕も、給金も、寄進も、ロシュの二割も、みな先代さまが亡くなったあとに立った行だ。
十一年の帳面は、一人の命のあとから始まっている。
「整った帳面です」ミラは言った。「ただし、始まりに一人の命が要りました」
壊したのは一度きりだ。はじめに兄を盛って、家をまるごと手に入れた。手に入れたあとは、壊す必要がなかった。
一度の毒殺で十一年の整えを買った。
「一度壊して、あとは守りました」ミラは言った。「守った十一年の帳面が、壊した一度を帳消しにしてくれると、この人は信じています」
レオは黙っている。
「強いところも弱いところも、十一年この手で書いてきました」ミラは言った。「罪の行だけを追っていましたが、残りの行は乱れのない家の行でした」
「十一年の整った行が」ミラは言った。「この人の言い分です」
ミラは自分の手を見る。
この家で帳面を覚えた。費えは奥さまが帳面の隅に紛れ込ませた。
紛れ込ませることができたのは、家に余裕があったからだ。余裕を作ったのは、家を上手に回した人だ。
盛った人が回した家で、帳面を覚えた。
「わたしが帳面を読めるのは」ミラは言った。「この人が家を壊さなかったからです」
ミラは帳面を閉じた。
ロシュの二割を抜いても、この帳面は整った家の帳面だ。修繕は行き届き、人は替わらず、家は立っている。
先代さまの命だけが、この帳面のどの科目にも載っていない。載っているのは、そのあとの十一年だけだ。




