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第52話: 薬の経路

 ミラは先代の亡くなった年へ戻った。


 新しい紙は、要らなかった。二枚とも、前から手にある。前に並べて、途中で置いた二枚だ。


 「もう一度、あの二枚を見ます」ミラは言った。


 「薬の話ですね」レオが応じた。




 一枚は、家の帳面。先代の最期の頁だ。


 床の費えがない。薬の行も医者の呼び賃も、看病の人手も炭の増えも。


 長い病で亡くなった人の頁には、それが立つ。この頁には、立っていない。


 「前の日まで、いつもどおりの家の主でした」ミラは言った。「そう読める頁です」


 もう一枚は、薬種商の写し。


 眠りの薬、ひと壺。一服の三十ぶんを超える量。先代の亡くなる数日前に、この家の使いの手で買われている。床の無い家に、三十の床ぶんの薬が来ていた。




 「この二枚は、前にも並べました」ミラは言った。「あのとき、わたしは途中で置きました」


 「多ければ、と」レオが言った。「あなたは、そこで止めた」


 「止めました」ミラは言った。「薬の効きは、帳簿係の領分ではない。そう言って、退がりました」


 いまなら、止めた理由が分かる。


 物差しが足りなかったのではない。動機が、見えていなかったのだ。


 先代を死なせて、誰が得をするのか。あのときのミラには、その人が見えなかった。得をする人のいない死は、ただの不運に見える。不運な死に、二文字は置けない。


 「あのころ、わたしは金を数えていました」ミラは言った。「盗みの金です。金の帳面には、得をする人がすぐ立ちます。多く取った人が、得をした人ですから」


 「死は、ちがいましたか」


 「死で得をする人は、金の帳面には立ちません」ミラは言った。「別の帳面が要りました。誰が家を継ぐか、という帳面が」


 その帳面をミラはこの数日で読んだ。血の順の帳面だ。金では見えなかった得が、そこにははっきり立っていた。




 「いまは、見えます」ミラは言った。「血の順は、この前に読みました。先代さまと、順の先頭の子。二つが消えて、はじめて家は弟君へ渡ります」


 「二つとも、同じ年に」レオが言った。


 「消えました」ミラは言った。


 先代の死と、子の抹消。二つそろえて得をする人は、一人だけだった。金の帳面には立たなかった得が、血の順の帳面には立っている。




 「奥さまでは、ありません」ミラは言った。


 「前に、訊きましたね」


 「訊きました」ミラは言った。「頼んだのは奥さまですか、と。あのときは、そこを疑っていました」


 いまは、疑わない。


 奥さまは、先代さまを悼んでいる。三月の白き花を、十一年欠かさず手向けた。


 先代さまの子を、名を伏せ盾になって守ってきた。夫を亡くし、憎まれ役まで負って。


 その人は、先代さまの死で何も得ていない。失っただけだ。


 「得た人と、失った人がいます」ミラは言った。「盛らせたのは、得た人のほうです」




 ミラは、二枚の紙の上に手を重ねた。


 病で死んだのではない。床の費えが無いのは、床が要らなかったからだ。


 「床の要らない死なら、ほかにもあります」ミラは言った。「転落。急な発作。冬の水。前に、そこまで数えて留めました」


 「今日は、留めないのですね」


 「事故に、薬は要りません」ミラは言った。「急な死に、数日前の壺も要りません。それに、亡くなる前の日にこの家から堂へ使いが立っています。急に逝く人に、前の日はない。前もって分かっていた死です」


 「残るのは」


 「一つです」ミラは言った。


 薬の効きは、前は領分の外だと退がった。いまは、量だけで足りる。量を越えた眠りは、目を覚まさせない。


 ミラは、十一年避けてきた二文字をはじめて口の中に置いた。


 毒殺。


 二文字を置いた指が、紙の上でわずかに冷えた。数える手が、はじめて数ではないものに触れていた。


 声には出さなかった。出さなくても、二枚の紙がその二文字の形に並んでいた。


 二文字を置くと、頁の見え方が変わった。


 床の費えが無いのは、倹約ではない。看病がないのは、看取る間もなかったからだ。


 前の日まで家の主に見えたのは、まだ薬が効ききっていなかっただけだ。


 同じ空白から、別のことが読めた。病がなかったのではない。病のふりをする暇もない死だった。


 「声に、出しますか」レオが訊いた。


 「まだ、出しません」ミラは言った。「けれど、二枚はもうそう読めています」




 「頼んだ手は」レオが訊いた。「まだ、紙に姿がありません」


 「ありません」ミラは言った。「壺を買ったのは使いの足です。足を動かした手は、外の紙にも家の紙にも立っていません」


 「名指すには」


 「監査の権が、いります」ミラは言った。「家の外の、もっと奥の紙まで。それは、わたしの手には余ります」


 紙で名を立てるのは、まだ先だ。けれど、形はもう見えている。得をした手が、盛らせた手だ。


 その手の名を、ミラはもう知っていた。義父だ。いまも当主で、この家の上にいる人だ。




 得をした人が、いまも家の主でいる。


 ミラはそのことの重さをあらためて量った。盗みを暴くのとは、目方がちがう。盗みは、金の話だ。これは人ひとりの命と、その子の十一年の話だった。


 「証すには、まだ足りません」ミラは言った。「けれど、探す向きはもう決まりました」


 「向きが決まれば」レオは言った。「あとは、紙を集めるだけです」


 集めるあいだ、義父はこの家の上にいる。名の立った子も、同じ家の中にいる。


 「あなたは、同じ家にいます」レオが言った。


 「名の立った子が、盛らせた人と同じ屋根の下にいます」ミラは言った。


 先代さまのときは、床が要らなかった。眠らせて、目を覚まさせない。それで済んだ。


 次に邪魔なものを消すときも、床は要らないだろう。


 その「次」の位置に、名の立った自分が立っていた。


 ミラは、そこから目をそらさなかった。目をそらせば、数える手が止まる。止めるわけには、いかなかった。

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