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第51話: 名を呼ばぬ理由

 翌朝、ミラは洗礼の写しをもう一度開いた。


 前に見たときは、誰の家の何某かに目を奪われていた。先代さまの子、の一語だ。そこで目が止まってしまった。


 「一つ、読み飛ばしていました」ミラは言った。


 「どこを」レオが訊いた。


 「その手前です」ミラは言った。「誰の家の何某かの前に、名の欄があります」




 洗礼の行は、日と名と誰の家の何某か。名は、いちばん前にある。


 ミラはそこへ指を置いた。


 ミラ、とあった。


 「わたしの名です」ミラは言った。「十六年前からここにあります」


 「いまの名と、同じですか」


 「同じです」ミラは言った。「ミラ・エルフェルト。ミラのところがこの行と重なります」


 十六年前、この名で神へ差し上げられた。拾われるよりずっと前からだ。




 「わたしは、これを拾い子の名だと思っていました」ミラは言った。「拾った先で、誰かが付けた名だと」


 「ちがった」


 「先代さまが、娘に付けた名でした」ミラは言った。「わたしが生まれた年に、この家で」


 家は多くを書き換えた。誰の子かを消し、氏を立てなおして拾い子に仕立てた。産の欄の宛を伏せ、後見の子を紙の上で止めた。


 それでも、名だけは変えていない。


 「なぜ、名だけ残したのでしょう」ミラは言った。




 「変えれば、綻びが増えます」レオが言った。


 「五つで戻ったとき、子はもう自分をミラと知っていました」ミラは言った。「里でも、ミラで通っていた。名を変えるほうが、よほど目につきます」


 消すより、残すほうが静かだった。それに、とミラは思った。


 この家では、死んだ子の名を誰も口にしない。十六年前の子は、里へ出したあと亡くなったことになっている。


 だから、拾い子のミラと亡くなったことにされた子のミラを、並べて言う者がいない。死を隠してきた沈黙が、名の一致まで隠していた。


 誰の子かさえ消せば、同じ名は危うくない。書き換えるほど綻びが増えるなら、変えずに済むものはそのままがいい。


 名は、そのままで済んだ。ほんとうのものが、手つかずで残った。


 十一年、ミラはこの名を値打ちのない名だと思ってきた。拾い子の名だ、と。呼ばれるたびに、少しそう思った。


 ちがった。呼ばれるたびに、ミラは父のつけた名を呼ばれていた。誰もそれを知らずに。ミラ自身も、知らずに。


 近くにありすぎて、かえって読まなかったものがもう一つあった。




 奥さまのことを、ミラは思った。


 奥さまはこの名を一度も呼ばなかった。十一年、あなたで足りていた。


 いまなら、理由が分かる。


 「ミラ、と呼ぶことは」ミラは言った。「先代さまの娘の名を声に出すことです」


 「氏を伏せても」レオが言った。


 「誰の子かを消しても、名を口にすればそこに娘が立ちます」ミラは言った。「紙は伏せられます。声は、伏せにくい。うっかり呼べば、なぜその名を、と誰かが思います」


 だから呼ばなかった。あなた、で通した。名は、盾の鋭い縁だった。


 「ほかの人は、呼びました」ミラは言った。「使用人も、出入りの者も。名だから、呼ぶ。それがふつうです」


 「奥さまだけが、ちがった」レオが言った。


 「呼びませんでした」ミラは言った。


 思い出したことがある。奥さまのあなたは、いつも一拍おそかった。何か別の一語を先に呑んで、それからあなたと言い直すように。


 ミラは十一年、その一拍を冷たさだと思ってきた。名を呼ぶ気もないのだ、と。


 ちがったのかもしれない。あの一拍は、名を呑むのにかかる時間だったのかもしれない。




 ミラはそこで少し黙った。


 呼ばずにいることは、呼べたのに呼ばなかったということだ。


 十一年、毎日その名を呑んでいた人がいる。ミラ、と呼びたい日があってもあなたで足りることにしていた。


 「名を呼べば守れないというのは、きのう読みました」ミラは言った。「今日わかったのは、その先です」


 「その先」


 「奥さまが呑んでいたのは、ただの名ではありません」ミラは言った。「先代さまが娘に遺した、ただ一つの贈り物です。父が子に残せた最後のものを、奥さまは毎日、口の手前で止めていました」


 贈られた名を、贈られた子の前で呼べない。守るために、呼べない。


 ミラはその徹しかたを恐ろしいと思った。同じだけ、分からないと思った。


 人がそこまで一つの子を隠しきるのに、憎しみでは続かない。


 かといって、情だと決める紙もまだなかった。




 ミラは、洗礼の写しを閉じた。


 名まで、埋まった。誰の子か、どの名で生まれたか。父の側は、これで立った。


 「わたしが何者かは」ミラは言った。「ここまで来ました」


 「残るのは」レオが訊いた。


 「なぜ、これが始まったのかです」ミラは言った。「消えた五つの子も盾も伏せた名も、みな十一年前から始まっています。その年に、先代さまが亡くなりました」


 「亡くなって、家が弟君に渡りました」レオが言った。


 「同じ年に、わたしは消されました」ミラは言った。「代替わりと消えた子は、同じ年です。別々のことには見えません」


 先代さまが亡くなり、順の先頭にいた子が消え、弟君が継いだ。三つが、一つの年に並んでいる。並んでいるものには、たいていつながりがある。


 父がどう生きたかは、名で立った。父がどう死んだかは、まだ知らない。その一年へ、ミラは向きを変えた。


 写しをたたむ手のなかに、名が一つ残った。ミラ、という名が。


 まだ、声には出さなかった。呼ぶ日は、今日ではない。

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