第50話: 正統な血
ふた月が過ぎた。
王都の裁可が下りたと、レオが先に報せてきた。秘蹟の帳面を崩さずに読む手が、聖アニエス教区へ入る。
ミラは、その日を指で数えて待っていた。数え終えた朝、レオが戻った。
鞄から出したのは、一葉の写しだった。原簿から、崩さずに写し取った一行がある。
「十六年前の、洗礼の頁です」レオは言った。
ミラは、すぐには手を出さなかった。
「読める形で、来ましたか」
「来ました」レオは言った。「崩さずに、一行だけ」
「読んでも、いいですか」ミラは訊いた。
「あなたの紙です」レオは言った。「わたしは、立会だけです」
ミラは、写しを引き寄せた。指の先が、少し冷えていた。
洗礼の帳面の形は、前に教わった。日と名と、誰の家の何某か。それだけだ。生まれた日を書く欄はない。
「親の知れぬ子は、名で終わるのでしたね」ミラは言った。
「氏を持たぬまま、神へ差し上げます」レオは言った。「拾われた子や旅の女が置いていった子は、みなそう書かれます。名がなければ、差し上げようがありませんから」
ミラは、自分の洗礼の行を目で追った。
名があった。
その先に、続きがあった。
「名で、終わっていません」ミラは言った。
「終わっていませんか」
「誰の家の何某か、が書いてあります」ミラは言った。声が、途中で細くなった。
名の先に、字が続いていた。続いてほしくない字で、続いてほしかった字だった。
その一語を、ミラは二度読んだ。三度読んだ。字は、動かなかった。
先代さまの子、とあった。
「先代さまの、子です」ミラは言った。「十六年前、この家の子として神へ差し上げられていました」
レオは、うなずいただけだった。
家の綴りを、ミラは思い出していた。
十六年前の産。産着の代。乳持ちの手当。教会への礼。三つとも立っていて、宛だけがなかった。使用人の子には必ず立つ宛が、その一件にだけない。
「家の紙では、伏せられていました」ミラは言った。「誰の子か、を家は書かせなかった。十一年、わたしはその空きを見てきました。自分の産の欄に、誰の子かがないことを」
「その一語が」
「ここにあります」ミラは、写しを指した。「家が書かせなかった宛が、教会の帳面に十六年ありました」
「家の中では消せても」レオは言った。「秘蹟の帳面は、王でも崩せません」
家が自分の紙で伏せた一語が、家の手の届かない紙には十六年消されずに残っていた。伏せることはできても、無かったことにはできなかった。
ミラは、写しの上に手を置いた。今度は、隠さなかった。手は、やはり震えていた。
拾い子ではなかった。
十一年、そう聞いて育った。名を呼ばれず無能と言われ、数しか読めぬ子だと言われて。石に話しかけるようだと笑われて。
その一言ずつが、いま根から違っていた。
この家で生まれた。先代さまの、実の子として。
「合わなかったものが、みな合います」ミラは言った。「消えた五つの子も。迎え入れの縁組も。盾だった冷たさも。教育費の二十四も」
「一つに」
「一人の子の話に、閉じました」ミラは言った。「ばらばらに拾ってきた紙が、みなこの一行へ戻ります」
その子は、拾われたのではない。この家の、正統な血だった。
うれしい、とは違った。
長く信じてきたものが崩れる音は、うれしさに似ていない。足の下の床が、名前を変えて敷きなおされるようだった。
立っている場所は同じなのに、それが何という床なのかが変わってしまう。
「わたしは」ミラは言った。声が、掠れた。「拾われた無能では、ありませんでした」
十一年、その名で生きてきた。呼ばれるたびに、少しずつそう思い込んできた。
その名が、いま剥がれる。剥がれた下から出てきたのは、まだ顔のよく見えない別の子だった。
涙は出なかった。かわりに、背筋を寒さが一息に抜けた。
レオは、慰めも祝いも言わなかった。ただ、写しの端をミラの側へ静かに寄せた。それだけが、この人のやり方だった。
落ち着きかけたとき、もう一つ持ちなおすものがあった。
先代さまの子。ミラは、その四字を帳簿の目で見なおした。血は、順で継がれる。実の子が立てば、弟君の代はまっすぐには通らない。
数える者には、順の意味がすぐに分かった。
「わたしがいたら」ミラは言った。「この家は、継いだ人のものになりませんでした」
「なりません」レオは言った。「まっすぐには」
「わたしは、要らない子だと思っていました」ミラは言った。「ちがいました。邪魔な子だったのです」
「順の、いちばん前にいた子は」レオは言った。「継ぐ人にとって、いていい子ではありません」
要らないのと邪魔なのは、遠い。その入れ替えが、さっきの寒さと同じところをもう一度通った。
もう一度、写しに目を落とした。名指されているのは、父の側だけだった。先代さまの子、とはある。
「母のほうは」ミラは訊いた。
「洗礼の帳面は、父の家までしか書きません」レオは言った。「母の名の欄が、もとから無いのです」
誰の腹から生まれたのかは、この帳面では読めない。父の血は立って、母のほうはまだどこにも出ていない。それが何を意味するのか、ミラはまだ置き場所を持たなかった。
一つずつだ、と思った。今日は、父の側が立った。母の側は、また別の紙が要る。
もう一つ、動かないものがある。
名が立った子は、もう消された子ではない。ミラは、前に自分でそう言った。盾がいちばん薄くなる日、と。
その日が、来ていた。
拾い子のミラなら、誰も跡目とは思わない。けれど先代さまの実の子なら、話が変わる。家を継いだ人にとって、正統な血はいていい血ではなかった。
「この一枚は」ミラは言った。「わたしを証します。同じだけ、危うくもします」
「王の名で、預かります」レオは言った。「崩されない場所へ移します」
外の紙は、燃やしきれない。けれど名が立ったいま、燃やしたい人がこの家にいる。
ミラは、その一枚をレオの手の側へ戻した。守るために、いったん手放す紙もある。十一年、自分を守ってきた冷たさがそうだったように。
「これから、どうしますか」レオが訊いた。
「父の血は、立ちました」ミラは言った。「次は、なぜ消されたのかです」
「消された理由は、もう出ました」レオは言った。「順の、いちばん前にいたから」
「順を空けるだけなら、里へ出したままでよかったはずです」ミラは言った。「わざわざ戻して拾い子にして、手元に置いた。空けるためだけの手つきではありません」
「戻した理由が、別にある」
「守るためか、使うためか」ミラは言った。「そのどちらかを、次の紙が言います」




