第49話: 盾だった冷たさ
教会の紙を待つ日が、続いた。
ミラは、決めたとおりにした。この十一年を、費えではなく扱われ方で読み返す。帳面ではなく、覚えのほうを繰った。
「今日は、何を数えていますか」レオが訊いた。
「わたしの、扱われ方です」ミラは言った。「覚えには日付がありません。それでも、動いたか動かなかったかは数えられます」
「奥さまは、わたしを名で呼びませんでした」ミラは言った。「十一年、あなたで足りていました」
「一度も」
「一度もです」ミラは言った。「目が合いかけると、視線は上へ逸れました。用のあるときだけ、あなたと言う。用が済めば、もう見ません」
「無能だと言われた、とも聞きました」
「言われながら、手元に置かれました」ミラは言った。「出されはしませんでした。冷たさは、動きません。六つのときも十六のいまも、同じ温度でした」
「それは、前にも数えましたね」レオが言った。
「数えました」ミラは言った。「あのときは、途中で止まりました」
ひとつ、覚えている場面があった。
六つの冬だ。ミラは廊下で足を滑らせて、手をついた。そこへ奥さまが通りかかった。足は止まらなかった。目も下りてこなかった。あなた、とも言われなかった。ただ通り過ぎていった。
見えていないのだと、そのとき思った。値打ちがないから、目に入らないのだと。ミラは、ずっとそう覚えてきた。
「縦に見れば、冷たさは十一年動きません」ミラは言った。「横に見れば家じゅうには配られず、わたしひとりに向いていました」
「動かないものには、保った人がいる」レオが言った。「あなたが、そう読みました」
「保った人がいて、ひとりを選んだ人がいます」ミラは言った。「そこまでは読めました。その先で二つに割れたのです」
「二つ」
「見張りか、保たれた形か」ミラは言った。「冷たさが見張りなら、わたしがどこで何を見ているかをずっと知っていたことになります。保たれた形なら、冷たさの下に別のものがあります」
「決められましたか」
「決められませんでした」ミラは言った。「決める材料が、外になかったのです」
「いまは、あります」ミラは言った。
「後見の一枚が、効きましたね」レオが言った。
「わたしが、この家で生まれて一度消された子だとすれば」ミラは言った。「消された子を無事に置いておくには、どうすればいいと思いますか」
レオは、少し考えた。
「わたしなら」レオは言った。「目立たせません」
「値打ちのない子に、見せておくのです」ミラは言った。「名を呼べば、誰かが名を訊きます。大事にすれば、誰かがなぜかと訊きます。訊かれれば、いつか答えが要ります」
「だから、名を呼ばない」
「大事にしない。目も合わせない」ミラは言った。「そうしておけば、誰もこの子は何者かと訊きません。値打ちのない拾い子に、素性を訊く人はいないのです」
「わたしは、これを拒まれていたと思ってきました」ミラは言った。
「十一年」
「名を呼ばれないのは、値打ちがないから」ミラは言った。「目を合わせないのは、見るほどのものがないから。ずっとそう読んでいました」
「いまは」
「逆かもしれません」ミラは言った。「名を呼ばなかったのは、名を訊かれたくなかったから。大事にしなかったのは、大事にしていると知られたくなかったからです」
声にすると、手が冷えた。十一年、拒まれていると思ってきたものが裏返る。
あの廊下を、ミラはもう一度見た。
足が止まらなかったのではない。止めなかったのだ。転んだ子に駆け寄れば、人が見る。誰かがなぜこの子に、と思う。
だから通り過ぎた。見えていなかったのではなく、見ないことにした。
六つのミラには、その違いが分からなかった。分からないように、してあった。
そうしてあったのだとして。
ミラは、十一年ぶんの寒さを一度に思い返そうとした。うまくいかなかった。毎日のことは、数が大きくなりすぎて像を結ばない。
名を呼ばれなかった朝や目を逸らされた夕が、もう数えられない。
その一つずつに裏があったのだとしても、寒かった十一年が温かくなるわけではない。
守られていた、と読んでも寒さは消えない。変わるのは呼び名だけだ。拒まれていたが、隠されていたに。同じ寒さの、呼び名だけが。
「前に一つ、合わないものがありました」ミラは言った。「冷たさと、帳面です」
「帳面では手をかけ、顔ではかけない」レオが言った。「同じ人の上で食い違う、と」
「合わないのでは、ありませんでした」ミラは言った。「表で値打ちを消して、裏の帳面で手をかける。人前では拾い子、紙の上では令嬢の上。その二つは、逆ではありません」
「同じもの、ですか」
「同じ一つの策の、表と裏です」ミラは言った。「隠すために冷たくして、育てるために手をかけた。冷たさは、蓋です。蓋が冷たいほど、中身は覗かれません」
「誰から、隠したのですか」レオが訊いた。
その一点だけは、ミラはすぐに置けた。
「先代さまが亡くなって、この家を継いだ人からです」ミラは言った。
「弟君ですね」
「先代さまの家に、消された子がいます」ミラは言った。「その子が値打ちのない拾い子でいるうちは、誰も跡取りとは思いません。けれど、名が立って大事にされていると知れたら」
「継いだ人は、放っておかない」
「その冷たさの下に、わたしは隠されていました」ミラは言った。「継いだ人の目から。値打ちを消すことが、いちばん静かな隠し方でした」
ミラは、しばらく黙った。
十一年の見え方が、さっきから変わりつづけている。
「けれど、まだ決めません」ミラは言った。「これは、材料が一つ来れば裏づく読みです。その一つが違えば、崩れる読みでもあります」
「その一つは」
「名です」ミラは言った。「消された子の名が、わたしの名と重なるかどうか。冷たさが盾だったと確かめる紙も、素性を確かめる紙も同じ一枚でした」
言ってから、もう一つ思い当たった。
「盾は、過ぎた話ではありません」ミラは言った。「隠す理由が正しいなら、隠す相手もまだこの家にいます。継いだ人は、いまもこの家の上です」
名が立てば、消された子は消された子でなくなる。そのとき盾はいちばん薄い。
教会の紙。あと、幾日か。
ミラは、待つ日をまた一つ減らした。減らすたびに、薄くなっていくものがある気がした。




