第47話: 消えた五歳
六十二日目。レオが、外から戻った。
外套の肩に、三日ぶんの埃がのっていた。すぐには口を開かず、鞄を卓に置いて留め具を外した。
三日、留守だった。この三日、ミラは家の巻を開かなかった。開いても、答えは無い。答えは、外の紙にある。
その写しが届くのをただ待った。待つのは、数える仕事に似ていない。数える者は、材料を集めてから座る。今度は材料の届くのを何もできずに待った。
戻ったレオの鞄から、役所の綴りの写しが出てきた。家の巻ではない。表紙の紙が、家のものより厚い。
「取れましたか」ミラは訊いた。声が、思ったより低くなった。
「取れる紙だけ、取りました」レオは言った。「氏の届け。後見の綴り。相続の届け。役所の側の紙です」
「教区の簿は」
「あれは、別の道です」レオは言った。「秘蹟の帳面には、王都の裁可が要ります。早くて、ふた月。今日は、間に合う紙だけです」
役所の紙は、王の名ですぐに取れる。教会の紙は、そうはいかない。レオは、取れるほうから当たっていた。
ミラは写しに目を落とした。見たことのない書式だ。それでも、行の読み方は同じだった。どこに何が来るか、指が先に知っている。
「先代さまの、亡くなった年から見ました」レオは言った。「十一年前です」
「その年に、何がありましたか」
「まず、相続の届けです」レオが一枚を開いた。「先代さまが亡くなり、弟君が家を継いだ。役所へ、そう届いています」
知っている行だった。義父が当主になったのは十一年前。家の巻でも、同じ年に額が動いている。寄進が落ち、屋根の手当が止まった年だ。
「それは、読みました」ミラは言った。「家の紙と、合います」
「合います」レオは言った。「相続の届けは、家の紙のとおりです。ここに、驚くところはありません」
ミラは少し力を抜いた。読んだ紙は、こわくない。
けれど、レオの手は止まらなかった。次の一枚を引いた。
「同じ年に、もう一つ届いています」レオは言った。「相続のすぐ下に、綴じてありました」
「もう一つ」
「後見の申し立てです」レオは言った。「親を亡くした子に、後見の人を立てる紙です」
「後見」
「その年、この家から一件出ています」レオは言った。「先代さまが亡くなったのと、同じ年に」
ミラはその紙を引き寄せた。
後見の申し立てだ。日付は、先代さまの亡くなった年。立てるのは、後見の人。
守られる子の欄に、目を落とした。
名が、無い。
その欄は、はじめから空だった。
「名は、立っていません」レオが言った。「後見は、後見の人の名で起こします。守られる子は、歳と親を亡くしたという書きようで足ります。名は、あとから氏の届けで立てる決まりです」
「元帳にも、無いのですね」ミラは言った。
「元帳にも、歳だけです」レオは言った。
ミラはその欄へ指を移した。守られる子の、歳。
五つ、と書いてあった。
五、という字をミラはしばらく見ていた。数えるときに、毎日書く字だ。今日は、いつもの字に見えなかった。
ミラは自分が五つだったころを思い出そうとした。像が結ばない。
いちばん古い覚えは、六歳の震える筆だ。その前に、何も無い。
家じゅうの紙を十一年覚えてきた者が、自分の五つのところにだけ一枚も持っていなかった。
「五つの子が、十一年前に親を亡くしました」ミラは言った。「この家から、後見が立っています。名は、無いままです」
「無いままです」レオは言った。
ミラは指を離さなかった。離せば、五つが消える気がした。
「この子は」ミラは言った。「そのあと、どうなりましたか」
「五歳のあとを、役所の紙で辿りました」レオは言った。
「氏の届けは」
「ありません」レオは言った。「この子の名が役所に立った日は、どこにもありません。名の無いまま、止まっています」
「縁組は」
「養子に出た届けも、もらわれた届けもありません」レオは言った。「どこの家にも、この子は入っていません」
ミラは次を待った。待つのがこわかった。
「亡くなった届けは」ミラは、それだけ言った。
レオは少し間を置いた。
「役所には、ありません」レオは言った。「けれど、亡くなりは役所で終わりません。葬りは、教会の帳面です。秘蹟の側の紙で、あれはふた月かかります」
「では、生きたか亡くなったかは」
「役所の紙では、そこまでです」レオは言った。「氏も、縁組も無い。それは今日、言えます。そのあと名を得て生きたか、いつ葬られたかは教会の紙にしかありません」
名の無い五つの子が、役所の紙に一度だけ立って止まっていた。氏も縁組も、そのあとに続かない。
「三日、綴りを繰りました」レオは言った。「氏の綴り。縁組の綴り。相続の綴り。十一年ぶんを、頭から尻まで見ました」
三日レオが留守にしたのは、これを繰るためだった。一枚の子を探して、十一年ぶんの綴りを三日かけて繰った。
「二度、読み返しました」レオは言った。「抜けを、探しました」
「それでも」
「同じでした」レオは言った。「五歳より先、この子は役所のどの綴りにも出てきません」
「消えたのですか」ミラは訊いた。
「消えたのとは、違います」レオは言った。「消したなら、消した跡が残ります。これは、はじめから届けなかった形です」
「届けなければ」
「氏も立たず、縁組もされません」レオは言った。「役所の紙に、その子はもう出てこない。いた、という一行だけを残して止まります」
止まれば、その子はいないのと同じになる。生まれも行き先も、どこにも問い合わせるところが無くなる。
いないことにするのに、手荒なことは要らない。届けを、出さなければいい。ミラは、そう読んだ。
紙の上でいなくなった子は、探しようがない。生きているかと問う先も、どこに眠るかと問う先もいっしょに消える。
無いことにされた子は、ほんとうに無くなる。
「一つだけ、言えます」レオは言った。「読み解きでは、ありません。紙が、こう並んでいるという話です」
「どうぞ」
レオは、二枚の写しに手を置いた。相続の届けと、後見の綴りだ。
「相続のすぐ下に、後見が一枚あります」レオは言った。「先代さまの亡くなった年、この家から五つの子に後見が立ちました」
レオは間を置いた。
「……その子の、その後の記録が役所の綴りにありません」
ミラは動かなかった。
訊きたい問いは、一つきりだった。喉のところまで、来ていた。
その子は、誰ですか。
訊いても、名は無い。役所の紙に、この子の名は立っていない。ミラにも、埋める字が無い。
字の無いところに、顔だけが浮かびかけた。浮かべてはいけない顔だと、ミラは思った。思うことすら、まだ材料が足りない。
分かることは、一つきりだ。五つの子が、先代さまの亡くなった年にこの家から後見に立った。そして、そのあとの紙が無い。
そこまでが、役所の紙にある。その先は、教会の紙にしかない。
ミラは膝の上で手をそろえた。数える者の、いつもの手つきだ。息が、いつもより浅かった。
窓の外で、日が傾いていた。
役所の紙は、五つで途切れている。その先を書いた紙が、この世に一枚だけあるとすれば教会の帳面だ。名も生き死にも、そこにしかない。それは、ふた月先だ。
ミラは後見の綴りを開いたままにした。閉じると、五つが指の下から遠のくようで手が動かなかった。
「ふた月、待ちます」ミラは言った。「教会の紙が、届くまで」
「待てますか」レオが訊いた。
「待ちます」ミラは言った。「十一年、知らずにいました。ふた月は、短いほうです」
ミラはあと幾日かと胸のうちで置いた。教会の紙が届く日までを、初めて数えた。数えられなかったものを、数えはじめた。
消えた五つの子の名を、ミラはまだ言わなかった。




