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第46話: 拾われた、の嘘

 五十九日目。ミラは、よく眠れなかった。


 奥さまが言わなかったなぜを、考えていたのではない。きのうまで数えてきた費えは、みな「奥さまが何をしたか」だった。それが夜のあいだに、「わたしが何だったか」へ変わっていた。


 同じ紙だ。読む向きだけが、変わった。


 レオは、もう来ていた。卓の向こうに、きのうの四つの巻がそのまま置いてある。


 「眠れましたか」レオが訊いた。


 「いいえ」ミラは言った。「数える相手が、変わったのです」


 「相手が」


 「きのうまで、これは奥さまのした事の記録でした」ミラは言った。「今朝は、わたしがどう扱われたかの記録に見えます」


 レオは、四つの巻を見た。それから、ミラを見た。


 「では、今日は」レオは言った。「あなたの側から、数えますか」


 「はい」ミラは言った。「数えたことのない列です」




 ミラは、教育費の巻を引き寄せた。数えなおすためではない。額は、きのう読んだ。


 「この二十四は」レオが訊いた。「何を買いましたか」


 「読み書き。算」ミラは言った。「帳簿の手ほどき。それから、律の本です」


 「律の本」


 「帳面を疑う者が読む本です」ミラは言った。「役所の者か、監査の者が読みます」


 「拾い子が読む本では、ありませんね」


 「憐れみなら、飯を出します」ミラは言った。「寝かせもします。手に職は、つけさせません」


 「なぜです」


 「読み書きのできる子は、いつか自分の足で家を出るからです」ミラは言った。「出ていく子には、出ていける力を持たせません。憐れみは、囲うものです」


 ミラは、いちばん古い行に指を置いた。六歳の、震える字だ。その年から、律の本まで積み上がっている。


 囲う手つきでは、なかった。育てる手つきだった。


 「もう一つ、あります」ミラは言った。「わたしは、六つで筆を持たされました。それから十一年、この家の帳場を任されています」


 「拾い子に、家の内証を」


 「見せない紙です」ミラは言った。「家の恥も金の出入りも、みなここに書いてあります。それを、拾い子の手に渡しました」


 憐れみで拾った子には、こうはしない。恥を見せる場所に、使い捨ての手は置かない。




 きのうは、誰の手かを見た。今日は、その手が誰に向いていたかを見る。


 白き花を包ませた手と、この学びを置いた手が同じ一つだった。白き花は、先代さまへの喪だ。


 喪を欠かさない人が、拾い子ひとりに令嬢より多く手をかけ、職まで持たせている。


 「二つを、並べてみます」ミラは言った。「喪を欠かさない人が、同じ年に拾い子の学びを立てました」


 「同じ手で」


 「はい。同じ年にです」ミラは言った。「片方は死んだ人へ。片方は、生きているわたしへ」


 その二つを重ねると、ミラの知っている形にならない。拾い子には、こうはしない。


 「守られていた」ミラは、その言葉を口の中で試した。


 舌が覚えていたのは、無能や拾い子や使い捨てのほうだった。


 守られる、という形は据わらなかった。据わらないまま、喉の奥が一度だけ熱くなった。


 その熱の置き所を、ミラは持たなかった。


 「そう読める形が、帳面の側にあります」


 言ってから、合わないと思った。




 守られていたのなら、あの冷たさは何だ。


 思い出したことがある。奥さまは、ミラを名で呼んだことがない。あなた、とだけ言う。十一年、そうだった。


 名を呼ぶほどの値打ちもない拾い子だからだと、ミラは長いあいだ思ってきた。


 朝、廊下ですれ違っても目を合わせない。用のあるときだけ、あなたと言う。それで足りた。十一年、足りていた。


 その同じ人が、紙の上では令嬢よりも手をかけていた。


 「奥さまは」レオが訊いた。「あなたに、冷たかったのですね」


 「冷たい、とも思いませんでした」ミラは言った。「そういう決まりだと思っていました。疑うものでは、ありませんでした」


 「けれど、紙の上では逆でしたね」


 「はい」ミラは言った。


 紙の上でだけ、ミラは大事にされていた。顔を上げれば、いつもの冷たさがあった。


 同じ人の中で、二つは重ならなかった。


 ミラは、その食い違いをどこにも収められなかった。




 「食い違いは、帳面の外にあります」レオが言った。「帳面には、いくら使ったかが書いてあります。なぜ使ったかは、どこにも書いてありません」


 「なぜは、人の腹の中ですね」


 「あなたが前に、わたしにそう言わせました」レオは言った。「監査の沙汰は、腹の中へは入りません」


 ミラはしばらく黙っていた。それから、口を開いた。


 「わたしは、拾われた子です」ミラは言った。「そう聞いて、育ちました」


 「聞いた」


 「拾われた、とだけです」ミラは言った。「誰が、どこでわたしを拾ったのか。一度も訊いていません」


 訊かなかった。訊く子では、なかった。


 「訊かない子だから、この家に置かれたのかもしれません」ミラは言った。「訊く子なら、置きにくいでしょう」


 言いながら、けれどと思った。


 拾われた子に、家は職を持たせない。喪の花を欠かさない人が、拾い子に令嬢の上をかけない。


 「拾われた」という一言は、紙に書いてあることと合わなかった。


 「わたしは」ミラは言った。「ただ拾われた無能では、なかったのかもしれません」


 言ってから、その先へ行きかけた。行きかけて、止めた。


 では、何か。誰の子か。そこまでは、考えが届いた。けれど、それを埋める紙が手にない。答えのない問いを口にすれば、口にしたぶんだけ望みが形をとってしまう。


 ミラは、そこで止めた。数える者は、材料のないところに数を置かない。


 止めても、消えはしない。一度ずれた向きは、戻らなかった。十一年立ってきた床が、少しだけ傾いだ気がした。




 「この家の紙では、出ません」ミラは言った。「わたしが誰かを、この家は書いていません」


 「書きようが、ないのです」レオが言った。


 「ないのですか」


 「家の帳面に書くのは、いくら使ったかです」レオは言った。「誰の子か、を書く欄がはじめから無い」


 「では、その欄は」


 「別の紙にあります」レオは、指を折った。「教区の簿。氏の届け。後見の申し立て」


 「後見」


 「親の無い子には、後見の人が付きます」レオは言った。「その申し立てが、役所に残ります。人が一人この世に立つと、家の帳面とは別のところに行が起きるのです。家が黙っていても、そちらには残ります」


 「外の紙は、消しにくいのですね」


 「二人が、別々に持つからです」レオは言った。「家と、役所とです。家の中の紙なら、燃やせます。外の紙は、燃やしきれません。一方を消しても、もう一方が残ります」


 「この家が消したいものがあるなら」


 「外にこそ、影が残ります」レオは言った。


 「わたしは、そちらを見られません」


 「あなたは、家の紙までです」レオは言った。「わたしは、外の紙に手が届きます。氏の届けや後見のような役所の綴りなら、王の名ですぐに差し押さえて照らせます。監査の者ですから」


 どこを当たるのか、とミラは訊かなかった。訊く前に、レオが言った。


 「先代さまの、亡くなった年から当たります」レオは言った。「十一年前です。あの年の外の綴りに、あなたに関わる行があるかどうか」




 ミラはうなずいた。


 拾われた、と十一年信じてきた。その一言だけを、渡された。誰が拾ったのかも、どこで拾われたのかも付いていなかった。


 訊かなかったから、付かなかったのではない。渡す側が、付けなかったのだ。


 今日はじめて、その一言を疑った。


 疑えば、もう戻れない。拾われた、という言葉が足の下から一枚だけ抜けた。


 外の紙に何が書いてあっても、ミラは見にいくと決めた。見ないでいることは、もうできなかった。

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