第45話: 継いだ手
五十八日目。ミラは、四つの巻を卓に並べた。
教育費の巻。寄進の巻。白き花の立つ雑費の巻。そして、奥向きの綴り。
きのうは、三つの手を読むつもりだった。今朝、一つ足した。奥向きの綴りだ。
「一つ、多いですね」レオが言った。
「三つの費えを引いた手を、探します」ミラは言った。「探すには、見本が要ります。手の見本は、奥向きにあります」
奥向きの綴りには、覚えのある切れ目がある。先の家令の粘る字が、十三年前で終わる。そこから二年、別の手が続く。十二年前と十一年前だ。十年前から、ミラ自身の字になる。
「その二年の手を、前に見ました」レオが言った。
「見て、確かめませんでした」ミラは言った。「あのときは、突き合わせる相手が外になかったのです。記憶とは、突き合わせられません」
今日は、相手がある。手で書かれた紙が、卓の上に三つ。
ミラは奥向きの綴りを、別の手のところで開いた。
十二年前の頁。台所の月々。蝋燭の数。洗いの回。どれも、あの手だった。少し右へ倒れて、四の右肩を閉じきらずに小さく開ける手だ。
この字を、ミラは記憶では知っていた。今日は、目の前にある。
次に、寄進の巻を引いた。寄進が二十四から十二へ落ちた年。十一年前。先代さまの亡くなった年だ。その一行に、指を置いた。
二つの頁を、並べた。
「同じ手ですか」レオが訊いた。
ミラは、すぐには答えなかった。答える前に、確かめることがある。
撥ねを見た。奥向きの手は、はらいの終いを上へ小さく撥ねる。寄進の行も、同じところで撥ねていた。
四の右肩を見た。ここで、指が一度止まった。
奥向きの四は、肩を閉じきらず小さく開ける。ミラは、寄進の四に目を移した。同じだけ、開いていた。
行の下がりぎわを見た。二つとも尻でわずかに右へ落ちる。
三つとも、合っている。
念のため逆からも読んだ。寄進の四を先に、奥向きの四を後に。順を変えても崩れない。
似ているだけの字なら、三つのうち一つは外れる。三つとも合えば、同じ手だ。十一年、字を見てきた指がそう言った。
「同じ手です」ミラは言った。「奥向きの二年と、寄進の落ちた年。書いたのは、一つの手です」
「寄進を半分にしたのも」
「この手です」ミラは言った。「落とすと決めて、落とした年の行をこの手が書いています。決めた人と、書いた人が同じでした」
一つ、埋まった。ミラは次の巻へ手を伸ばした。
教育費の巻を開いた。別の手を、探した。
いちばん古い行から見た。次の年も見た。その次も見た。
なかった。
どこにも、別の手はなかった。頭から、ミラ自身の字だ。六歳の、震える字から始まっている。
白き花の巻も開いた。十一本の行を、一本ずつ見た。
こちらにも、別の手はない。みな、ミラの手だ。
ミラは、指を巻の上に置いたまま動かせなかった。
「二つには、別の手がないのですね」レオが言った。
「ありません」声が、少し掠れた。「わたしの手しか、ないのです」
もう一度、頭から繰った。行を、一つずつ指で叩いた。見落としを、疑ったのだ。
二度目も、別の手はいなかった。
ミラは、巻を置いた。指の先が、冷えていた。
別の手は、奥向きと寄進で終わっている。十一年前まで。教育費も白き花も、十年前から始まる。ミラの手で。
一年の、切れ目だった。
別の手が置いた筆を、ミラが拾った年だ。
「一つ、思い出しました」ミラは言った。
「どうぞ」
「三年前の春です。白き花の一行を書いたとき、一度だけ手が止まりました。店の名も届け先も無い。書きにくい行だと」
「それで」
「書きました」ミラは言った。「そういう形でしたから。前の年もそうでした。その前も。だから、そう書きました」
形を疑わなかった。形は、来たときからそこにあった。空や、床の固さと同じだ。
教育費の二十四も同じだった。毎年おなじ数を、おなじ所に書いた。多いとも少ないとも思わない。数える相手が、いなかった。
「十一年、同じ形をなぞってきました」ミラは言った。「なぞっているとは、思わずに」
分かった、と思った。分かってしまった、のほうが近い。
「寄進を落としたのは、この手です」ミラは言った。「それは、字で言えます。奥向きの二年と、同じ手でした」
「教育費と、白き花は」
「そちらに、この手の字はありません」ミラは言った。「けれど、切れ目がそう読めます。別の手が二年で形を据えて、十年前にわたしへ筆を渡した。教育費の二十四も白き花の書式も、わたしはその形をなぞっただけです」
字で言えるのは寄進まで。あとは、切れ目が読ませる。ミラはその二つを、混ぜないように置いた。
「その手の主は」レオが訊いた。
「名は、書いてありません」ミラは言った。「立場なら、前に消しました。先の家令でも家令のジェルヴェでも、わたしでもない」
「残るのは」
「奥向きを、ずっと差配してきた人です」
言ってから、ミラは自分の手を見た。
崩す力も。喪の花も。自分の値も。みな、一つの手が引いた線の内側にあった。
この手で、ミラはこの家を崩している。その手を作ったのが、同じ一つの手だった。
「この手は、わたしのものだと思っていました」ミラは言った。「ちがいました。あの人の手の、続きでした」
十一年なぞってきた線の、いちばん先にいま自分がいる。
ミラは、右手を卓の上で開いた。
「この指は、六歳からあの人の形をなぞってきました」ミラは言った。「なぞって、うまくなりました。その手で、いま家を崩しています」
器用な手だと、誰も言わなかった。無能だと言われてきた。
その無能の手が、これだけの設計を一度も外さずに継いでいた。継げるほど、教えられていたことになる。
誰に、とはまだ書けない。
三月の白き花を据えた手と、拾い子の学びを据えた手が一つだった。同じ二年に、同じ人が両方を置いた。
白き花は、先代さまへの喪だ。それは、前に読んだ。
教育費は、無能と呼ばれた子に令嬢より高くかけた額だ。
同じ手が、その二つを置いた。ミラは、そこまでを紙から読んだ。
なぜ、とミラは思った。
けれど、なぜは撥ねの向きにも四の右肩にも出ない。手は、誰かを言う。なぜは、言わない。
きのう、奥さまは何も言わなかった。憎むなら、わたくしを、とだけ。
その口が閉じたままの人が、十一年ミラの手を動かしてきた。動かしておいて、理由のところだけを渡さない。
「奥さまに、もう一度訊きますか」レオが訊いた。
「訊いても、同じです」ミラは言った。「あの人は、なぜを言いません。沈黙は、あの人の持ち物でした」
ミラは四つの巻を、そっと閉じた。
「誰の手か、は埋まりました」ミラは言った。「なぜ、の一欄だけが白いままです。その欄を埋める紙は、この家にはもうありません」
レオが、少し間を置いた。
「家の中に無いなら」レオは言った。「外を、当たりましょう」
「外」
「わたしは、家の外の帳面に手を伸ばせます。監査の者ですから」レオは言った。「この家が書かなかったことを、外の紙が書いているかもしれません」
白い欄を埋めるのは、この家の紙ではなかった。
その紙を呼べる人が、隣にいた。




