第44話: 読める行
五十七日目。ミラは、残していた最後の頁を卓に出した。
自分の教育費の巻だ。
人には訊けなかった。奥さまの沈黙は数えられない。数えられないものは、紙に戻すしかなかった。
「監査の写しに入っていました」レオが巻を滑らせた。「あなたに使われた金の帳面です。開くのに、堂の作法は要りません」
「一度だけ、繰ったことがあります。立件のときに」ミラは言った。「あとで、二十四と書いて、その下を白いままにしました。書く材料が、手元になかったからです」
「今は」
「あります」ミラは言った。「薬の量も、動かない科目も、名の書かれていない書式も、数え終えました。白いままの頁は、これひとつです」
「気が、進みませんか」レオが訊いた。
「人の紙なら、いくらでも開きます」ミラは言った。「十一年、そうしてきました。人の費えも、綻びも読みました」
「自分の紙は」
「初めてです」
卓には巻が三つ積んである。奥向きの綴り。寄進の巻。この教育費の巻。どれも、ミラ自身が写した紙だ。
教育費の巻に手をかけた。表紙の隅が、指の癖で反っている。
少し止まって、開いた。
年に二十四リーヴル。十一年、動いていない。
受け取った人の名が、毎年立っている。読み書きの師。算の師。帳簿の手ほどきをした、町の元の記録係。
額も日付も、みな書いてある。隠した跡は、どこにもない。
白き花とは、逆だった。あちらは店の名も届け先も書かせなかった。この巻は、頭から尻まで読める。
ミラは行が何を買ったのかを拾った。
読み書き。算。帳簿の手ほどき。数字の読み方。相場の見方。
「この巻が買ったのは」ミラは言った。「読み書きと、算と、帳簿の手ほどきです。いまわたしが、この家の帳面を崩すのに使っている力です」
「崩す道具を」レオが言った。
「崩される家が、わたしに買い与えていました」
ミラはその並びを、長く見た。
恨みたい家の帳面に、いちばん礼を言いたい相手が混じっている。混じったまま、名前がつかなかった。
いちばん古い年は、十年前だ。石盤ひとつと、写字の紙。次の年に算盤。そのあとから、帳簿の手ほどきが始まっている。
覚えていた。石盤の線が曲がると、引き直させられた。
算の師は、答えの合うまで盤を伏せさせなかった。
元の記録係は、一の位を狂わせると頁ごと写させた。
冬は指がかじかんで、数字が震えた。震えても、師は待たなかった。合うまで、と言った。
この巻の古い行は、六歳の震える字だ。ミラ自身の手だった。師はその字を、十一年かけて、いまの手にした。
家の者は、ミラを鈍いと言った。師の前を離れると、その声が待っていた。
鈍い子と呼ばれ、鋭くなるまで教えられる。二つは、同じ屋根の下にあった。
「厳しい師でした」ミラは言った。「拾い子に、手加減はありませんでした」
「厳しい師は」レオは言った。「月謝も厳しい」
「はい。それを今日はじめて、数字の側から見ました」
「この巻を書いたのは」
「わたしです」ミラは言った。「自分に使われた金を、自分で写していました。値を書きながら、値だとは思っていませんでした」
多いのか、少ないのか。相場に当てないと分からない。
「比べる帳面が、ありますか」レオが訊いた。
「あります」ミラはよその家の巻を引き寄せた。繰って、数えた。「どの家も、令嬢の学びは年に十五から二十でした。師の数と書物の数で、その幅に収まります」
「あなたの巻は」
「二十四です」
言ってから、頁の端に置いた指が、止まったままになった。
「令嬢より、多いのです」ミラは言った。「真の娘に家がかける額より、高い。それが、無能と呼ばれた拾い子に立っています」
憐れみではなかった。憐れみなら、令嬢の下に置かれる。二十四は、その上にあった。
「監査で、こういう帳面を見たことがありますか」ミラは訊いた。
「ありません」レオは言った。「名の立たない子に、名の立つ子より多くかけた家を、わたしは知りません」
「相場の、外ですか」
「外です」レオは言った。「なぜ外なのかは、人の腹の中にあります。腹の中に、監査の沙汰は入りません」
令嬢の学びに、帳簿の手ほどきは要らない。家の勘定は、嫁ぐ娘の仕事ではないからだ。けれどミラの巻には、それがいちばん厚く立っていた。
五年前の行に、書物が三冊あった。数の本。律の本。相場の読み方の本。
「律の本」
「国の決まりを、勘定の側から読む本です」ミラは言った。「令嬢の書棚には立ちません。帳簿を疑う者が、読む本です」
「ほかの年は」レオが訊いた。
ミラは行を送った。
「七年前に、算盤がもう一つ。桁の大きな帳面のためです。三年前に、写しを速くする紙が束で」
どれも令嬢の学びではない。帳場に立つ者の道具だった。
十一年、ミラはこの二十四を恩だと思ってきた。無能な子を家が憐れんで、学びだけは与えてくれた、と。返しきれない恩だと思ってきた。
恩では、なかった。恩なら、こんなに厚くない。では何かと問うても、ミラにはまだ名前がなかった。
いつか、同じ二十四の前で、ミラは自分に言い聞かせた。
きれいな数に、きれいな理由が付いているとはかぎらない。二十四は十二の二倍。それだけかもしれない。あのときは、そう畳んで頁を閉じた。
今日は、畳めなかった。相場が、畳ませなかった。
幅の外の数には、外の理由がある。理由は、帳面には立たない。立つのは、額と名と日付だけだ。
立つものだけを、ミラは並べ直した。そうして、もう一つの二十四に行き当たった。
寄進だ。この家が、収穫のあとに教区へ出す志。二十年で、一度だけ動いた。
「いつ動いたのですか」レオが訊いた。
「先代さまの、亡くなった年です。二十四から十二へ落ちて、それきり十二のままです」
「先代のころと、同じ数ですね」
「はい。わたしの教育費も、二十四です」
ミラは二つの巻の年を突き合わせた。
寄進が半分になったのは、先代さまの亡くなった年。教育費の二十四が立ちはじめたのは、その次の年からだ。
一年、ずれていた。
「繋がりますか」レオが訊いた。
「繋げません」ミラは言った。「寄進は教区へ出る金です。教育費は師へ渡る金です。行き先が違います。年も、一つずれています」
行き先も、年も違う。数字の上では、二つは他人だ。
それでも、片方が二十四を手放した、その次の年に、もう片方が二十四で立った。落とした額と、立てた額が、同じだった。同じ家の、隣り合う年に。
数字は、ここまでしか言わない。同じ二十四も、隣り合う年も、線にはならない。
線を引くのは、手だ。
三つの巻が、卓に並んでいた。寄進を半分にした手。教育費を二十四で立てた手。白き花を、十一年、同じ額で包ませた手。
どれも、名を書かせていない。
「同じ手ですか」レオが訊いた。ミラの手が、はじめて止まる問いだった。
「読めば、分かります」ミラは言った。「同じ手なら、書きぶりが揃います。撥ねの向き。数字の癖。行の詰め方」
ミラは三つの巻を隣に並べた。重ねはしない。
いちばん上に、六歳の震える字。ミラ自身の手だ。その下に、名を書かせなかった手が、二つ。
巻を閉じても、二十四は消えなかった。人の費えなら、閉じれば棚へ戻る。自分の費えは、閉じても手の中に残った。
同じ手なら、撥ねの向きが揃う。揃わなければ、三枚は、赤の他人だ。
どちらなのかを、この三枚は、もう知っていた。




