第43話: 白い紙
五十六日目の朝、ミラは問いを一つだけ紙に書いた。
書いて、読み返した。長い。もう一度書いて、また削った。
長い問いには途中に逃げ道ができる。相手はそこから出ていく。逃げ道のない問いは短い。ゆうべそう決めて眠った。
残った一行を、レオに見せた。
レオは黙って読んだ。それから紙を返した。
「短いですね」
「これより短くはできません」ミラは言った。
「短くしろとは言いません」レオは言った。「短い問いは、短い答えを引きます。あなたは、それでいいのですね」
「はい」
「なら、これでいい」
ミラは紙を畳んだ。畳んでから、また開いた。
「奥さまは、お会いになりますか」
「会うそうです」レオは言った。「監査の立会として、わたしがひとり同席します。それ以上はしません」
「奥さまは、断らなかったのですね」
「断りませんでした」レオは言った。「この家の奥向きは、監査にいつも正しく開きます。書式も勘定も、隅まで揃っている。一度も渋られたことがありません」
「揃っている」
「ええ」レオは言った。「揃いすぎているほどに。けれど、揃っていることと、答えていることは、違います」
ミラはうなずいた。
「わたしが訊きます」
「あなたが訊きます」レオはうなずき返した。「わたしは、あなたの問いに足しません。返ってきた答えにも足しません。納屋のときと同じです」
納屋の戸口に立った朝を、ミラは思い出した。あのときの相手は蔵番の老人だった。今朝の相手は、この家をずっと差配してきた人だ。
手順は変わらない。今朝の戸口は、納屋ではない。
「一つ、伺っても」ミラは言った。「格の高い相手に訊くと、何が変わりますか」
「答えないことが、赦されます」レオは言った。「下の者は、黙っていると咎められる。上の者は、黙っていても咎められない。沈黙が、向こうの持ち物になります」
「沈黙が、持ち物」
「そうです」レオは言った。「だから、沈黙を答えだと思わないこと。沈黙は、何も書いていない紙です。白い紙を、読んではいけません」
ミラはその言葉を、袖の内側にしまった。
奥の間は、廊下より暗かった。窓は開いている。それでも光がそこで止まる。
濃紺の背が、窓を背にして座っていた。
戸口の内側に、レオが黙って立っていた。立会だけを務めて、口は開かない。奥さまは、そちらを見なかった。
十一年この家にいて、ミラがこの人と正面から向き合った朝は数えるほどしかない。いちばん近いのは追い出される朝だった。
「用件を」奥さまは言った。ミラの顔は見ない。
「奥さま」
「あなたが監査の紙を持って戻ったことは、聞いています」奥さまは言った。「理由の説明は、要らないでしょう」
用件だけを言う。理由は言わない。十一年、この人の言葉はいつもそうだった。
ミラはその短さを、叱責だと思ってきた。けれど今朝の短さは、叱責の顔をしていない。ただ、短い。
「町の薬種商の帳面を、写してもらいました」ミラは言った。「十二年ぶんです」
奥さまは動かない。
「眠りの薬は、細く出ていました。一服か、二服です。あちこちの家へ散っています。多くても、三服か四服です」
「それが」
「一つだけ、散らない行がありました」ミラは言った。「眠りの薬、ひと壺。一度に。先代さまの、亡くなる数日前です」
部屋の奥で、古い木が軋んだ。それきり、また静かになった。
「買いにいったのは、この家の使いでした」ミラは言った。「家の帳面には使いの駄賃が立っています。外の帳面には使いの買い物が立っています。同じ足が、坂も市も往っていました」
「使いの名を、責めにきたのですか」
「いいえ」ミラは言った。「使いは足です。足に、行き先を決める力はありません。決めた人の名は、どちらの帳面にもありません」
奥さまは、まだこちらを見ない。
「奥向きの書式も、見ました」ミラは続けた。「先代さまのあと、台所も蝋燭も洗いも、何も変わっていません。十一年、同じ書式のままです」
「家のことは、変える要がなければ変えません」
「はい」ミラは言った。「変えないのは落ち度ではありません。ただ、変えないと決めた人がいます。その人の名も書かれていません」
「あなたは、名を探しているのですね」奥さまは言った。
「名だけです」ミラは言った。「わたしは、名しか探せません。帳面に立つのは、名と、数と、日付です。それより奥は、帳面に立ちません」
「では、帳面に立たないものは、諦めなさい」
「諦め方が、分かりません」ミラは言った。「立たないものを、どう数えないでいるのか。わたしは、それを習いませんでした」
奥さまは、答えなかった。
ミラは袖から紙を出さなかった。出さなくても一行は覚えている。
「一つだけ、伺います」
奥さまの肩が、わずかに動いた。ミラにはそう見えた。数字ではないから、確かとは言えない。
「頼んだのは、奥さまですか」
奥さまは、答えなかった。
間があった。知らない人の間ではない。知っている人の、長い間だった。
白い紙を読んではいけない。レオの言葉が、袖の内側で動いた。ミラは口をつぐんだ。
「あなたは」奥さまが、はじめてミラのほうを向いた。「昔から、数える子でした」
用件でもない。差配でもない。ただの一言だった。
十一年、この人がミラにそんな言葉を向けたことは一度もない。
袖の中で、ミラの指が止まった。
「そうやって、何もかも数えて」奥さまは言った。「もう、およしなさい」
「奥さま。あの量は」ミラは言った。声が、思ったより細くなった。「一人が三十の夜、眠り続ける量です。あるいは三十の床を、同じ夜に。けれど、この家にあの冬、床はありませんでした」
「それで」
「眠りは、深くすれば」ミラはそこで言葉を選んだ。選んで、選びきれなかった。
「帳面に、書けない語があります」ミラは言った。「わたしは、それを書きたくありません。書けるだけの数が、まだ揃っていないからです」
奥さまの指が、膝の上で一度だけ動いた。それきり、また止まった。
ミラはそれを見た。見たけれど、意味は取れなかった。
「揃えないほうがいい」奥さまは言った。
「奥さま」
「憎むなら、わたくしをお憎みなさい」声は低いままだった。「ほかの帳面をいくら繰っても、あなたの欲しい名は、立ちません」
憎しみも赦しも、帳面には立たない。ミラは、それを書く欄を持たなかった。
ミラは次の一歩を踏めなかった。踏めば、この人が退がる気がした。
奥さまはそれきり口を閉じた。窓の外へ目を戻す。もう、こちらは見なかった。
ミラは部屋を出た。
廊下は明るかった。奥の間の暗さが、目の裏に残っている。
沈黙にも、形があった。ミラはそれを、帳面の無いと同じに読もうとした。
無いに二つの形があるように、沈黙にも二つある。言うことのない沈黙と、言えない沈黙と。外から見れば、同じ顔をしている。
きのう、動かない科目の前で足を止めたときと、似ていた。
十一年、ミラはこの人の勘定を読んできた。奥向きの綴りは、この人の領分だ。蝋燭の数も台所の銀も、ミラは知っている。この人の一年がいくらでできているかを、指で数えられる。
それでも、この人が今、何を言わないのかは読めない。
帳面なら、突き合わせる紙がある。家の紙と、外の紙。片方でもう片方を検める。
けれど今日の沈黙には、突き合わせる一枚が無い。奥さまの中から出て、奥さまの中で閉じた。外に、検める紙が無い。
白い紙を読んではいけない。レオはそう言った。
ミラは読もうとした。読めなかった。
十一年、どんな頁も読んできた。読めなかった頁は無かった。
今日はじめて、開かない頁の前に立った。開かないのではない。閉じると決めた人が、そこにいる。
廊下に出ると、レオが横に並んだ。
「足しませんでした」ミラが言うと、レオはうなずいた。
「聞いていました」
「沈黙でした」
「知っています」レオは言った。「わたしの側からは、一つだけ。沈黙は、監査の証拠になりません。書かれていないものに、沙汰は出せない」
「分かっています」
「けれど」レオは続けた。「沈黙が証拠にならないことと、沈黙に中身が無いことは、別です。中身のほうは、あなたの領分でしょう」
ミラはうなずかなかった。うなずけるだけのものが、まだ手の中に無い。
人には訊けなかった。訊いて、返るのは沈黙だと分かった。
沈黙は数えられない。数えられないものをこれ以上ここで見ても、増えるのは分からないの数だけだ。
だから、また紙に戻る。
戻りかけて、ミラは足を止めた。
この数日、数えてきたものを頭のなかで並べ直す。薬の量。動かない科目。名の書かれていない書式。
どれも、この家の紙だった。どれも、誰かの費えだった。
一つだけ、数えていない費えがある。
自分の費えだ。
拾われた養女に、この家はいくら払ってきたか。無能だと言われ続けた子どもに、毎年、決まった額が立っている。揺らいだ年が、一度もない。
ミラはそれを当たり前だと思って、書き写してきた。当たり前のものは、真ん中に見える。真ん中は、数えない。
揺らがない額には、揺らがせなかった手がある。動かない科目と、同じだ。
自分の値段をつけた手を、ミラはまだ数えていない。




