第42話: 薬の量
五十日目の朝、ミラは家の帳面のほうを先に閉じた。
この家の紙では、もう立たない。奥向きの綴りも費えの巻も人件の写しも、みな読み切った。先代の亡くなる前後に、薬の行は一つも無い。
無いことは、もうここまで数えた。同じ無いを、これ以上ここで数えても仕方がない。増えるのは無いの数だけだ。
閉じた綴りに手を置いた。十年、この家の紙だけを読んできた手だ。その手が、初めて家の外を指そうとしている。
「外の紙に訊きます」ミラは言った。
「町の薬種商ですね」レオが応じた。
「はい。この土地で薬を売るのは一軒です。市の脇の店です。先代さまのころも、いまも同じ店が売っています」
「堂と違って、そこは開きますか」
「開きます」レオは言った。「堂の帳面は志の紙です。開けてもらうには堂の作法が要る。薬種は売り買いです。売り買いの帳面なら、監査の照会で写しが取れます」
立件のとき、葡萄酒の相手の帳面を開かせた。あのときと同じ作法だとレオは言った。
あのときは、横の値を突き合わせた。今度は、有る無いを突き合わせる。
「何年ぶんを出しますか」レオが訊いた。
「十二年ぶんを」ミラは言った。「一年では多い少ないが分かりません。十二年並べて、初めていつもの売れ方が立ちます」
照会の返しは、すぐには来なかった。
町の店は坂の上の堂より近い。それでも写しには時がかかる。店の者が十二年ぶんの綴りを繰らねばならない。
売り買いの帳面は、家の帳面より雑に綴じてある。日で綴じず、買い手で綴じる店もある。
四日かかった。
その四日を、ミラは家の帳面の側で使った。人が床につく。養生する。それでも亡くなる。
その形が帳面にどう立つのかを、他家の写しで数え直した。立件の写しには、比べるための他家の帳面が幾枚か挟んである。
他家の死は、どれも似た形で費えを残していた。長い床には長い費え。急な死にはそれなりの取り乱しの痕。
人が亡くなれば、帳面のどこかが必ず乱れる。乱れの無い死のほうが、めずらしい。
床の長い死は費えが長い。薬が要る。医者の駄賃が立つ。粥の量が変わる。蝋燭が増える。看病の人手が並ぶ。
日を追うごとに、費えは太っていく。看取りに近づくほど、紙の上の数字も太る。
最後の日に、いちばん太る。太った先で、行が途切れる。
その形が、先代の死には無い。前の日まで、いつもの帳面だ。
太らないまま、ふつりと終わっている。看取りの太りが、どこにも見あたらない。
「無いの形は二つあります」ミラはレオに言った。「本当に何も要らなかった無いと、要ったものを別の場所に置いた無いと」
「別の場所」
「家の帳面の、外です」
四日目の夕、写しが届いた。
厚い束だった。薬種商の帳面は家の綴りのように整っていない。買い手の名で綴じてある。日付は行の中に紛れている。
字は速い。値は略して書いてある。買った人のためではなく、売った人のための帳面だ。
ミラは翌朝まで開かなかった。
夜のうちに読むと、探す目になる。探す目は見つけたいものを見つける。ミラはそれを帳場で覚えた。
無いを立てる読みは、有るを探す読みより明るいうちにやる。そう決めている。
五十五日目の朝、束を開いた。
「読み方を決めます」ミラは言った。「先にいつもの売れ方を掴みます。何がどの家へ、どれだけ、いくらで出ているか。それが分かってから外れた行を探します」
「外れを先に探さないのですね」
「外れはいつもが分からないと立ちません」ミラは言った。「真ん中を決めます。そこからどれだけ離れているかで、外れの重さが決まります」
レオはうなずいて束の半分を引き寄せた。二人で別々に相場を掴む。あとで突き合わせる。
葬送の頁を日の順に数えたときと、同じやり方だった。
ミラは薬の名ごとに行を分けた。眠りの薬をひと束にまとめ、痛みの粉と熱の湯も、それぞれ別の束にしていく。
束ごとに量と回を数える。数えたものだけが真ん中になる。覚えているだけの真ん中は、真ん中の顔をした思い込みだ。
薬は、細く出ていた。
眠りの薬。痛みを鎮める粉。熱を下げる湯。どれも一服か二服の単位だ。しょっちゅう、いろんな家へ散っている。市の女房が二服。隣村の職人が一服。宿の主が三服。買い手はばらけ、量はそろって小さい。
「眠りの薬がいちばん多く出ています」ミラは言った。「けれど一度の量は小さい。一服か二服です。眠れない夜の続く人が、そのつど買いに来る形です」
「まとめて買う人は」
「ほとんどいません」ミラは十二年ぶんの行を目で追った。「まれに三服や四服があります。五を超える行は、十二年で数えるほどしか出ません」
薬は日持ちのしないものが多い。だから細く、しょっちゅう買う。まとめ買いに向かない品だ。
会計の目で見ると、眠りの薬は散る品だった。買い手も量も日付も、みな散る。散っているのが、この品の正しい姿だ。
「散る品ほど、隠しにくいのですね」レオが言った。
「隠せません」ミラは言った。「散るものが一つだけ固まれば、固まったところが目に立ちます。まわりが散っているほど、固まりは濃く見えます」
その散った十二年の中に、一つだけ散らない行があった。
ミラの指が止まった。
束の、ある一枚。買い手の名で綴じられた頁の一つ。
眠りの薬、ひと壺。
一服でもない。二服でもない。壺で、一度に。日付は先代の亡くなる数日前だ。
ミラはもう一度、店の値を数えた。ひと壺がいくらの薬かを、一服の値から割り戻す。割り戻して量に直す。数が像になるまで、少し間があいた。
一人の人が、三十の夜を眠り続ける。ミラにはそれが、数でしか掴めない。
掴めないなりに、数の大きさだけは手のなかで重かった。
「ひと壺は」ミラは声を落とした。「一服の、三十ぶんを超えます」
「三十」
「眠れない夜を三十。あるいは三十の床を、同じ夜に眠らせる量です」レオのほうは見ずにミラは続けた。「一人の眠りのためなら、ひと月分を一度に買ったことになります」
「そういう買い方は、あり得ますか」
「あり得ます」ミラは言った。「遠くへ発つ人が道中のぶんをまとめて持つことはあります。床の多い大所帯がまとめて置くこともあります」
言いながら、その理由が一つずつ、床の費えの無しに当たって砕けた。
「遠くへ発つ人の薬なら」ミラは言った。「発った先で使います。この家の中に床の費えは立ちません。けれどこの壺を買ったのは、この家の使いです」
「発つためではなく」
「発つ人の記録が、この冬の帳面に立ちません。旅の支度の行も餞別の行も無い。発ってもいないのに道中の薬だけを買う人はいません」
ミラは次の理由に移った。
「大所帯の床のためなら、床が要ります。ひと壺を使い切る床なら、いくつもの床が同じころに敷かれるはずです。粥が増える。蝋燭が増える。人手が並ぶ。けれどこの冬、この家の床はいつもの数です」
「病人の多い冬では、なかった」
「なかったのです」ミラは言った。「床が無いのに、三十の床ぶんの眠りの薬が一度にこの家へ来ました。使い切る床が、帳面のどこにもありません」
残ったのは、量と、床の無しと、その二つが並んだ紙だけだった。
レオは長いこと、束の一枚を見ていた。
「わたしの側から、一つ」レオは言った。「薬種商はまとめ買いを覚えています。細い品を壺で買う客は、めったに来ない。来れば顔を覚える」
「店の者に、訊けますか」
「訊けます」レオは言った。「ただ、店が覚えているのは買いに来た足です。壺を抱えて帰った者の顔です。言いつけた人の顔は、店には見えません」
「壺を頼む声と、壺を運ぶ足は、別だと」
「たいていは別です」レオは言った。「重い頼みほど、頼む人は自分の足を使いません」
買い手の欄を、ミラはもう一度読んだ。
名がある。この家の使いの名だ。ひと壺を抱えて坂を下りた足の名。
その足に誰が言いつけたか。欄は、言っていない。
「家の紙では、書式を渡した人の名を訊いていませんでした」ミラは言った。「外の紙でも同じです。壺を頼んだ人の名は、この帳面のどこにもありません」
「足の名だけが、二つの紙に立っている」
「立っています」ミラは言った。「家の帳面に使いの駄賃。外の帳面に使いの買い物。同じ足が坂も市も往っています。その足を動かした手は、どちらの紙にも姿がありません」
昼を過ぎて、二枚の紙が卓に並んだ。
一枚は家の帳面の、床の費えの無し。もう一枚は外の紙の、眠りの薬ひと壺。
「繋げますか」レオが訊いた。はじめて床の費えを数えたときと、同じ問いだった。
「繋げません」ミラは言った。「けれど、あのときとは無いの重さが違います」
「重さ」
「あのときは、床の費えが無い、それだけでした」ミラは言った。「今日は床の費えが無いのに、床の薬が、床の要らない量、来ています。無いと有るが、同じ家の同じ冬で食い違います」
薬は眠らせる。少なければ眠り。多ければ、と、ミラはそこで思いを止めた。
多ければ何なのかを、ミラは知らない。薬の効きの深さは、帳簿係の領分ではない。
知っているのは、量だ。
一人の眠りに、ひと月分。床の無い家に、三十の床ぶん。
「帳面が言えるのは、ここまでです」ミラは言った。「この量が長い床の形をしていない。療養のための薬とは言えません。療養の帳面が、それを裏づけません」
「では、何のための量か」
「帳面は言いません」ミラは言った。「量は数えられます。何のための量かは、数えても出ません」
夕方になった。
ミラは二枚の紙を重ねなかった。重ねれば、一つの形に見える。まだ一つの形にしてはいけない。
無いと有るは、隣に置く。隣のまま眺める。並べても、繋がない。それが今日の読みの終いだ。
「向きは、変わりました」ミラは言った。
「この数日で」
「動かない科目を数えたときは、奥向きが凍っている、まででした」ミラは言った。「今日はその凍った家の外で、床の要らない量が動いています。凍った内と動いた外が、同じ冬に立っています」
疑いは、もう帳面の中にいなかった。数えられるものは、書式も科目も量も、みな数えきった。
量という物差しが、また一つ増えた。
増えても数えられる疑いは、まだ人の顔をしていない。数字のかたちのまま、卓の上に置いておける。
けれど今日、その疑いは帳面の縁まで来た。縁の先は、紙ではない。
「数えられないものが、残りましたね」レオが言った。
「残りました」ミラは言った。「壺を頼んだ手。書式を渡した手。二つの紙に姿の無い、同じ一つの手かもしれません。それは帳面には訊けません」
筆を置いた。
頼んだ人の名は、外の紙にも空いたままだ。空いた欄を埋めるのは、もう帳面ではない。埋めるとすれば、人の口だ。
差配する人に、直に訊くしかない。奥向きをずっと差配してきた、あの人に。
訊けば、たぶん一度きりだ。だから今夜も、問いを一度で足りる形にする。あの晩と同じ支度だ。相手だけが、足から、差配する人に変わった。




