第39話: 明朝おいでを
四十七日目の朝、光の下で名を読んだ。
伏せてあった頁を起こして受け手の欄を見る。二度とも、同じ名。
ギヨム。
読んだ名は、知っている名だった。
蔵番の老人だ。鍬を担いで畑の納屋から戻ってくるあの人。蔵の前で行き合って、腰を折ったあの人。
十一年前、二日つづけて坂を上った足は、あの人の足だった。
人件の写しの中で、この名は駄賃だけの名ではない。同じ年の季節の手当にも立っている。写しの外の年なら、ミラが自分の手で書いてきた。毎年あった名だ。
ずっと居た人だ。ずっと居て、ずっと訊かれなかった人。
「知っている人でしたか」
「顔と持ち場を知っています」ミラは言った。「名前は今朝初めて、名前として読みました」
「聞き役と、書き役に分かれます」
朝の帳場で、レオが言った。
「あなたが聞き、わたしはここで待ちます。戻ったら、二人で紙にします」
「わたしは、行きません」
レオは卓から動かなかった。
「監査官が戸口に立てば、監査の問いになります。答える前に身構えます。あなたの問いのほうが、答えが生きます」
「一人で、ですか」
「一人で。ただし、決めた順は守ってください」レオは言った。「それから、訊き終えたら足してはいけません。足したくなったら、戻ってきてから紙に書くことです」
問いは三つ。坂を上ったのはあなたですか。何の使いでしたか。坂の上で誰に取り次ぎましたか。
言いつけた人の問いは順の外に置いてある。出すかどうかは、戸口で決める。
納屋までは中庭を抜けて畑の縁を行く。朝の畑は湿って、鍬の跡がまだ黒い。
帳場の窓から見るのと土を踏んで行くのとでは、同じ道でも長さが違った。
蔵番は、納屋の脇で縄をなっていた。朝の畑はまだ人が少なく、縄の鳴る音だけが乾いて届く。
ミラの足音に気づいて手を止め、立ち上がって腰を折る。いつもの会釈だ。
いつもと違うのは、ミラがそのまま通り過ぎずに戸口の前で足を止めたことだった。
「ギヨムさん」
名を呼ぶと、老人は少しだけ首をかしげた。この家でこの人が名で呼ばれるのをミラは聞いたことがない。蔵番、で通ってきた人だ。
「これは、帳場さま」老人は縄を握ったまま言った。「御用でございますか」
「昔のことを訊きに来ました」ミラは言った。「一度だけ訊いて、帰ります。答えたくないことは答えなくてかまいません」
「昔の、で、ございますか」
「十一年前の三月です。堂へ使いに上った人がいます。二日つづけて。あれは、あなたですか」
縄をなう手が、完全に止まった。
「……わしで、ございます」
隠す間ではなかった。遠いものを引き寄せる間だった。十一年前の坂を、この人はいま、上り直している。
「一度目の使いは、何の使いでしたか」
「明朝おいでを、と」老人は言った。「それだけでございました」
「それだけ、というのは」
「用向きを聞かされとりませんで」ギヨムは縄を置いた。「明朝、司祭さまにおいでいただきたい。口上はそれだけ。わしは、そのまま運びました」
司祭を呼ぶ使いには、ふつう用が付く。祝いなら祝いの、弔いなら弔いの。授かりものの報せ、病人の枕元。用を言わなければ司祭は支度ができない。
「妙だとは、思いませんでしたか」
「思いましたで」老人はうなずいた。「じゃが、使いは口上を運ぶだけで。付け足しも引きもいたしません。妙なまま、運びましたで」
付け足しも引きもしない。運ぶ人の矜持だった。だからこの口上は、出た形のまま坂を上っている。
「司祭さまは、何と」
「どなたが、とお訊きで」老人はゆっくり言った。「わしは知らされとりませんで。知らんまま、そう申しました。司祭さまはしばらく黙っておられて、ほんなら明朝、と」
取り次いだ先の名が、舌の先まで来た。ミラはそれを一度戻した。決めた順では、それは最後の問いだ。
「次の日の使いは、何の使いでしたか」
「報せで。堂へ、先代さまが身罷られたと。それだけで」ギヨムは目を伏せた。「あの朝は、屋敷が静かでございました。誰も廊下を走りませなんだ。走らん報せというのは、あれが初めてで」
老人は少し目を上げた。
「二日つづけて同じ坂を上ったのは、後にも先にも、あれきりでございます」
走らない報せ。
報せはふつう走る。急を伝えるのが報せで、急は足に出る。伝わる前から伝わっていた報せ。
「坂の上で、誰に取り次ぎましたか」
「エロワさまで。前の司祭さまでございます」
初めて聞く名だった。帳面の外の名は、こうして人の口から来る。
ミラは口の中で一度だけ繰り返して、覚えた。あすの紙に、この名の欄ができる。
いまの堂はアンセルムさまで、三年前に来た人だ。十一年前の坂の上には別の司祭がいた。
「エロワさまは、いまは」
「存じませんで。代替わりのあとのことは、堂のことでございますから」
三つの問いが、終わった。
順の外に置いてきた問いが口の中に残っている。誰に言いつけられたのか。出すかどうかは戸口で決める。そう決めてきた。
目の前の老人は、縄を置いたまま待っている。答えたくないことは答えなくていい、と言った。それなのにこの人は、三つともまっすぐに答えた。
一度きりの機会だ。
「もう一つだけ」ミラは言った。「その使いを、あなたに言いつけたのは、どなたですか」
「家令さまで」
間を置かない答えだった。
「ジェルヴェさまが、朝早うに納屋へおいでで。堂へ行ってくれ、と。口上も、二度ともあの方からで」
「家令さまは、どなたの指図とは」
「そこまでは」老人は首を振った。「家令さまの上のことは、わしらにはございませんので」
家令の上のことは、わしらにはない。使いは口上を運び、口上は家令から来て、家令の上は見えない。指図の道は一段ずつしかたどれない。
それ以上は訊かなかった。三つと一つで、四つ。決めた数を一つ超えている。
「ありがとうございました」ミラは頭を下げた。「助かりました」
「へえ」老人は縄を取り上げかけて、手を止めた。しばらく坂の方を見て、それから言った。「帳場さまは、堂の道をお調べで」
「道、というより、道を通ったものを」
「ほんなら」ギヨムは、坂の方を見た。「堂の道なら、わしより、奥さまがようご存じで」
ミラは動かなかった。動けば、続きが引っ込む気がした。
「毎年、三月に、おひとりで上られます。わしは畑からお見かけするだけで。もう長いことで」
「長いこと」ミラは繰り返した。
「さて」老人は首をかしげた。「わしが数えたわけではございませんで。ただ、毎年で。三月の、決まった時分で」
訊かれていないことを、この人は言った。帳場が堂の道を調べていると思って、知っていることを足してくれたのだ。
ミラはもう一度頭を下げた。
帳場へ戻る道が長かった。
畑の縁で振り返ると、老人はもう縄に戻っていた。十一年前の坂を上った足が、今朝は納屋の脇でいつもの仕事をしている。
あの人の中で、あの二日はどこに仕舞われていたのだろう。訊けば全部出てくる場所にずっとあったのだ。誰も、訊かなかっただけで。
歩きながら、聞いたことを胸の中で紙に書いた。書く場所は決まっている。誰が、の欄だ。
金は奥の手元から出る。それは紙が言った。花は王都から来る。それも紙が言った。そして、毎年三月に奥さまがひとりで坂を上る。それは、畑の目が言った。
紙と、目と、三月。三つが同じ場所を指している。
帳場に入ると、レオが顔を上げた。
「順は、守れましたか」
「三つと、順の外の一つ。それから、訊いていないことを一つ、いただきました」
ミラは聞いたことをすべて紙に写した。写しながら話し、話しながら写した。
明朝おいでを。用向き無し。エロワさま。家令さまから。走らない報せ。そして、毎年三月のひとりの坂。
レオは最後まで黙って聞いた。聞き終えて、一つだけ確かめた。
「足しませんでしたね」
「足しませんでした。向こうから来ました」
「それがいちばん強い形です」レオは言った。「訊いた答えは問いの形に染まります。向こうから来た言葉は、染まっていません」
「欄が、埋まりますね」
「埋めます」
書き出しの紙を開いた。誰が、の欄。奥の手元金、とだけ書いて名は書かずにきた欄だ。
筆を持って一拍おいた。
紙に人の名を書くのは帳場の仕事のうちだ。受け手の名。払い先の名。十一年、数えきれないほど書いてきた。それなのにこの一名だけ、筆が重かった。
書いた。
奥さま。
紙の上で初めて、花の主が人の名になった。名になった途端に、分かっていたはずのことが違う重さで卓の上に載った。
十一年、冷たかった人だ。
ミラを拾い子と呼び、無能と呼ばせ、目も合わせなかった人。廊下で行き合えば視線が上を通った。帳場に十一年いて、言葉をかけられた数は両手で足りる。
その人が、十一年、一年も欠かさず、亡くなった先代さまの命日に白い花を上げてきた。誰にも言わずに。帳面の隅に身を細くさせて。
「分からなくなりました」
ミラは言った。取り繕う言い方が見つからなかった。
「冷たい人だと思ってきました。十一年、そう思わされてきた、と言ってもいいかもしれません。でも、この花は」
「花は、冷たくありませんね」
「冷たくありません」ミラは言った。「十一年欠かさない供えは、冷たい人の手からは出ません。出るはずがない。では、わたしの見てきた十一年は何だったのでしょう」
「両方が、本当の場合があります」レオは静かに言った。「冷たさと、花と。人は帳面と違って、二つの欄に別々のことを書けます」
「書き分ける理由が、あれば」
「あれば、です」レオは言った。「理由のない書き分けを、わたしは監査で見たことがありません。冷たさにも花にも、十一年の決まりがある。決まりのあるものには、保った人がいます」
「二つを、同じ人が」
「同じ人が、十一年」
決まりを保つ人の話は、前にもした。白き花の決まりには、守った人が必ずいる。冷たさも、決まりのように保たれてきたのだとしたら。
保たれた冷たさは、冷たさだろうか。
なぜ、隠すのか。きのうまでの問いに今日、新しい問いが並んだ。
なぜ、冷たいのか。
二つの問いは、たぶん同じ場所に根を持っている。帳面の外の、あの人の中に。
夕方、書き出しの紙を仕舞う前にもう一度読んだ。
誰が。奥さま。誰のために。先代さまのために。いつ。三月三日、御命日。
三つの欄が埋まって、問いの紙は答えの紙に近づいた。近づいたのに、卓の上のものは朝より重くなっている。
残った欄は、二つ。
なぜ、隠すのか。なぜ、冷たいのか。
どちらの欄も帳面からは埋まらない。埋める言葉を持っている人は、この家にたぶんひとりしかいない。
その人への問いはまだ形になっていない。一度で足りる形になるまで、この欄は白いままでいる。
ただ、今日、一つだけ分かったことがある。
訊けば答える人が、この家にはいる。十一年、誰にも訊かれなかっただけの人が。ギヨムの答えは、そのことをいちばん静かに教えていた。
白い欄の前で、ミラは筆を洗った。急がない。答えの側がもう逃げないと、今日の戸口が教えてくれたから。




