↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/67

第40話: 揺らぐ冷血

 四十八日目の朝、帳場の卓に書き出しの紙が開いたままだった。


 埋まった欄が三つ。誰が。誰のために。いつ。


 白い欄が二つ。なぜ隠すのか。なぜ冷たいのか。


 ミラは筆を持たずに、その二つを見ていた。きのう名を書いた手は、今日はもう何も足せない。


 「帳面から埋まりますか」レオが訊いた。


 「埋まりません」


 答えは、きのうのうちに出ている。奥向きの綴りにも雑費にも、なぜ、を書く欄はない。帳面は起きたことしか書かない。


 「では、今日は何を読みます」


 ミラは少し考えた。


 「帳面では、ないものを」




 卓の向かいで、レオが手袋をはめ直した。


 「その前に、一つ」彼は言った。「きのうの人は、いまも納屋にいますか」


 「朝に見ました。縄をなっていました」


 「ならば、けっこうです」レオは短く言った。「あの人はもう、十一年前の朝を知っている人です。知っている人だと、家の側にも分かってしまいました」


 ミラは、筆の柄を握り直した。そこまで考えていなかった。訊きに行った足跡は、訊かれた側にも残る。


 「わたしが、危なくしましたか」


 「訊かずに済ませる道はありませんでした」レオは言った。「ただ、あの人の名を紙に立てるのは、まだ待ちます。書けば束に入り、束は人の手を渡ります」


 「胸の中に置きます」


 「そこがいちばん堅い」




 ミラは、白い二欄を伏せた。


 読む対象を決めるところからだ。なぜ冷たいのか。この問いの材料は、紙ではなく十一年ぶんの記憶にしかない。


 記憶は帳面ではない。日付も額もつかない。それでも、読み方だけは同じにできる。


 縦に見る。同じものが、毎年どう立っているか。


 横に見る。それを、誰が受け取ったか。


 醸造で使い、雑費で使ってきた二つの目だ。物差しを人に当てるのは初めてだった。


 「二つの目で読みます」ミラは言った。「紙のときと、同じに」


 「対象は」


 「冷たさです」


 レオは止めなかった。ただ、紙を一枚こちらへ滑らせた。数えるなら書け、という意味だった。




 まず、縦に見た。


 十一年。ひとつずつ、年を下りていく。


 「初めの年から言います」ミラは言った。「廊下で行き合っても、目は上を通りました。声はかかりません」


 「次の年は」


 「同じです。その次も」


 「変わった年は」


 「ありません」ミラは指で年を送った。「帳場を任された年も、字が読めるようになった年も、背が伸びた年も。追い出された年も」


 「厳しくなった年は」


 「ありません」ミラは言った。「厳しくなった年も、緩んだ年も」


 レオが、紙の左端を指の背で上から下へなぞった。ミラの言った年数のぶんだけだ。書きはしなかった。


 「上下がありませんね」


 「はい。十一年、一度も」


 人の気分は、こうはならない。ミラは自分の手元を見た。


 「わたしの字は、その日で変わります」ミラは言った。「機嫌のいい日は速くなって、叱られた日は硬くなります。人の書くものには、その日の中身が出ます。誰のものでも、たぶん」


 「なのに、あなたへ来るものだけは」


 「十一年、同じ形でした」


 「動かない」


 その一語を、レオはこちらへ返すように置いた。


 動かないものには、保った人がいる。


 その言葉を、ミラはきのうこの帳場で聞いた。決まりのあるものには、保った人がいます、と。


 五日前に蔵で自分が思ったことと、同じ形をしていた。あのときは花のことだった。




 次に、横に見た。


 同じ冷たさが、ほかの誰に立っているか。


 セリーヌには、小言がある。袖の丈が短いとか、客の前で扇を鳴らすなとか。用件ではない一言もあった。髪を結い直しなさい、と言ってそのまま行った日が一度ある。直せ、ではなかった。


 使用人には、差配がある。厨房の献立も、洗いの人繰りも、あの人が決める。声は短いが、通じる声だ。


 当主には、応答がある。長くはない。けれど問われれば答える。


 みな、届いている。


 ミラにだけ、届いていなかった。


 名で呼ばれたことがない。あなた、で足りていた。目が合ったことがない。合いかけると、上へ逸れた。


 「配られていません」ミラは言った。


 「配られる、というのは」


 「冷たい人なら、誰にも同じように冷たいはずです」ミラは紙に線を引いた。「この家の冷たさは、家じゅうに配られていません。ひとりに向いています」


 レオは、その線を見た。


 「向けるには、力が要ります」


 「はい。十一年ぶんの」




 ここまでは、帳面の読みと同じだった。


 次が、いつも難しい。


 「例外を探します」ミラは言った。「ロシュのときと、同じ順で」


 「一年でも崩れれば」


 「決まりではありません。ただの偏りです」


 ミラは目を閉じて、崩れた場面を探した。


 すぐに、一つ出た。


 「監査官どのと戻った日です」ミラは言った。「広間の奥の扉が開いて、あの人が立ちました。卓の二冊を見て、戻って、きたのですね、と。それだけです」


 「声は」


 「いつもと同じでした。情はありません」ミラは言った。「けれど、二冊を見た目が長かった」


 「長い、というのは、あなたの目でどのくらいですか」


 ミラは考えた。人の目の長さを数えたことはない。


 「行を一つ読むくらいです」


 「あの日、あれを長く見なかった人がいますか」


 いなかった。臨検の卓に開かれた二冊は、その場の全員が見ていた。


 「見方が、違いました」ミラは言った。「みなさま、二冊があることを見ていました。あの人だけ、行を追う目をしていました」


 「読める人の見方ですね」


 「はい」ミラは言った。「数を読まない人が、開かれた頁を、あの動かし方で見る理由がありません」


 冷たさは崩れていない。崩れたのは、冷たいだけ、という読みのほうだ。


 ミラは紙に、その一件を書いた。


 書いてから、手が止まった。


 似た場面が、ほかにもある。




 「三つ、出ます」ミラは言った。「六つの年。冬に熱を出して、三日寝ていました。誰が看たのかは覚えていません」


 「覚えているのは」


 「夜に一度、戸が細く開いて、すぐ閉まったことです。廊下の灯りが、細く入って消えました」


 レオは書かなかった。書くのはミラの仕事だという顔で、待っていた。


 「九つの年。帳場の踏み台から落ちて、腕を打ちました。厨房頭が薬草を持ってきてくれました」


 「言いつけた人は」


 「誰も言いませんでした」ミラは言った。「わたしも、訊きませんでした」


 「十二の年です。旦那さまが帳面を三度、突き返した日。数が合わぬと言われて、書き直しているとき、廊下をあの人が通りました。何も言いません」


 レオは何も言わなかった。


 「その日の旦那さまの小言は、そこで止みました」


 言ってしまってから、ミラは自分の言葉を聞き直した。順が逆かもしれない。通ったから止んだのか、止んだところへ通ったのか。四年前の廊下の順を、いまさら確かめる手立てはない。


 「どれも、たまたまだと思っていました」


 「思っていた、というのは」


 「勘定の外に置いていました」ミラは言った。「外に置いたものは、数えられません。列に入れていなかったんです」


 いま、列に入れて数えている。


 数えられるのは、覚えている場面だけだ。覚えていない年のほうが、ずっと多い。


 それでも、覚えている側に、たまたまが寄りすぎていた。




 紙の上で、二つの列ができていた。


 左の列は、冷たさ。十一年、動かない。


 右の列は、たまたま。数えると、たまたまではない形をしている。


 ミラは、その二列を長く見た。丘を並べたときと同じ並べ方だった。左に損、右に得。あのときは、二つを並べた瞬間に金の行き先が見えた。


 今度は、何も見えなかった。


 あのときは、左と右が別の場所から来ていた。家の紙と、教区の紙。互いが互いを検算した。


 今日の二列は、どちらもミラの中から出ている。突き合わせる先が、外にない。


 見えないのに、背中が冷えた。


 「読めません」ミラは言った。「並びました。並んだのに、意味が決まりません」


 「二通り、立ちますか」


 「はい」


 ミラは、左の列に指を置いた。


 「冷たさが本当なら、たまたまは見張りです。この家でわたしがどこにいて何を見ているかを、ずっと知っていたことになります」


 指を、右へ移した。


 「たまたまが本当なら、冷たさのほうが」


 そこで言葉が続かなかった。


 「保たれた形だ、と」レオが引き取った。


 「はい」




 昼になった。


 ミラは紙を伏せて、棚の下の段から奥向きの綴りを出した。記憶の側で立てたものを、紙の側で一度当ててみる。それが帳場の作法だ。


 開いたのは、いちばん古い年ではない。手の切れ目のところだった。


 この綴りには、手が三つある。


 十三年前までが、先の家令の粘る字。


 そこから二年が、誰のものとも知れない手。


 そのあとが、ミラの字。


 二年ぶんの頁を、ミラはゆっくり繰った。書き癖は、几帳面と言っていい。科目の立て方に迷いがない。行の頭が揃っている。ミラが十年前に見習ったのは、この形だ。


 この手が書いた二年の中に、二日前に数えたあの冬がある。


 「奥向きの綴りに手を入れられる人は」レオが訊いた。


 「家令か、帳場か」ミラは言った。「あとは、奥さまです」


 「順に、消えますね」


 「先の家令は十三年前に手を離しています。次の家令の字ではないことは、当人の前で並べました。存じません、と返りました」ミラは言った。「わたしの字になるのは、十年前からです」


 「では、この二年に、あなたの来た年が入りますね」


 「入ります」


 自分がこの家に着いた冬の行も、この手が書いている。十一年、ミラはその頁を何度も繰った。誰の字かを、一度も考えなかった。


 「もう一つ、前に立てた札があります」レオが言った。「奥さまが十二年前、この家で次の家令へ引き継いだ、と」


 「はい」


 「引き継ぎは、出ていく人の形です」レオは、あのときと同じ言い方をした。「その札は、まだ両方に読めます」


 「その二年に、名は出ますか」


 「出ません」ミラは言った。「手だけです。書いた人の名を、帳面は書きません」


 残る一つを、ミラは口に出さなかった。


 奥向きは奥さまの領分だ。手元金の出入りに、家令も帳場も口をはさまない。それは十一年、この家の当たり前だった。




 指が、頭より先に動いた。


 書ける人は、書かないことも決められる。


 その一行を、ミラは口の中で二度読んだ。


 わたしは書いて、決めなかった。決めなかった書き手も、いる。


 それでも、決められる場所にいた書き手もいる。


 あの冬の頁には、立っていない費えがある。長く臥せった人のまわりに要るはずのものが、どこにも出てこない。ミラは二日前にそれを数えた。数えて、繋げませんと言った。


 繋げないままの空白の頁を、書いていた手がある。


 「言えますか」レオが訊いた。


 声が、いつもより低かった。止めるための低さだった。


 ミラは、綴りを閉じた。


 「言えません」


 「どこまでが言えますか」


 「二年、手が替わっていること。その二年に、あの冬が入っていること」ミラは言った。「そこまでです。手が誰のものかは、まだ紙が言っていません」


 「では、そこまでを書いてください」


 ミラは書いた。書きながら、自分の指が少し重いのに気づいた。きのう名を書いたときと同じ重さだった。




 筆を置いて、ミラは伏せていた紙を起こした。


 なぜ隠すのか。なぜ冷たいのか。


 どちらの欄も、まだ白い。


 ただ、朝より一つ増えたものがある。


 あの二列を並べたことで、問いの向きが変わった。なぜ冷たいのか、ではない。冷たさは保たれたものかもしれない、という問いのほうへ、紙が一寸だけ寄った。


 寄っただけだ。ミラは自分にそう言った。寄っただけのものを、寄り切ったことにしてはいけない。


 王都から戻る前の晩に、宿の寝床で同じことを自分に言った。当ててよい相手かどうかを、まだ確かめていない、と。


 あのときの相手は、一行だった。今日は、人だ。


 それでも、朝と同じ顔で紙を仕舞うことはできなかった。




 昼の廊下は、明るかった。


 北の帳場から出ると、光が急に強くなる。十一年、この明るさの中を、ミラはいつもうつむいて歩いてきた。


 今日は、顔を上げて歩いた。


 奥へ続く廊下の途中に、戸が一つ開いている。中に人はいない。窓が開けてあって、風が入っていた。


 卓の上に、器がひとつ伏せてあった。


 白い陶の、細い口の器だ。洗って、伏せて、乾かしてある。伏せた縁のまわりに、埃が薄く輪をつくっていた。近ごろ動かされた器ではない。


 ミラは足を止めなかった。止めずに、目だけがそれを数えた。


 口の際に、土が薄く残っていた。洗って落ちきらなかったぶんだ。


 どこの土か。


 ミラには、まだ数えようがなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。