第37話: 喪の行
冠婚葬祭の巻は、戻ってきた四つのうちで抜きん出て薄い。
片手で持てる。きのうの奥向きの綴りの三分の一もない。
祝いと弔いは毎年は来ない。来ない年の頁は一枚で足りる。薄いことが、この巻のふつうの姿だ。
四十五日目の朝、ミラはその巻を卓の真ん中に置いた。
「立件のとき、この巻は」
「開くまでもありませんでした」ミラは言った。「抜かれた形がなかったので。金の目で読めば何もない巻です」
「今日は」
「金の目では、読みません」
問いが、あのときと違う。同じ巻でも、問いが違えば別の巻になる。この帳場で何度もそれを見てきた。今日の巻が何になるのかは、まだ知らない。
レオは手袋をはめて卓の向かいに座った。
「読み方を」
「十年前を真ん中に置いて、前後を日の側から」ミラは言った。「祝いも弔いも、飛ばさずに」
「探すものは」
「三月三日です」
口に出すと、日付が少しだけ硬くなった。十一年動かなかった日。聖者の日でもなく祝いの日でもない日。この巻のどこかに、その日の名が立っているかどうか。
「無ければ」
「日の名は、この家の外にあります。王都の店を追うことになります」
「有れば」
「この卓の上で、終わります」
ミラは紐を解いた。
十年前の頁は、静かだった。
春に婚礼が一つ。よその家の祝いに進物の行が三つ。秋に、村の弔いに香典が一つ。どれも小さく、どれも一度きりだ。
「婚礼が、一つあります」
「三月ですか」
「春です。ですが、日が違います」ミラは行を押さえた。「それに、よその家の婚礼です。進物を出した側で、この家の出来事ではありません」
「弔いは」
「秋に一つ。香典が一行きりです。三月の行は、この年に一本もありません」
「決まりの生まれた年に、巻は静かですね」
「静かです」ミラは頁を押さえた。「生ませた出来事は、この年にいません」
「では、前後です。前を」
頁を一年、戻した。
戻した手が、止まった。
行が、多い。
頁の頭に表題がある。冠婚葬祭の巻は、大きな出来事に表題を立てる。婚礼、成人の儀、そして。
御葬送。
喪の布、十二反。堂への使い、二度。棺の樫材。石工の手間。会葬の席、六十。鐘の代。
行が頁を埋めて、次の頁へ続いている。小さな弔いではない。家じゅうが動いた葬送だ。
会葬の席、六十。並びの家々が来て、教区が来て、村が来た。これだけの人があの日をその場で知っている。知っていて、この家の中では誰もその話をしない。
行のあいだに雪の名残りがある。堂への道の雪かきに人足が四人。会葬の席の炭が二俵。春の名のつく月に、冬の行が挟まっている。雪の残る頃の葬送だった。
「大きな家の、大きな弔いです」
「執り行った側の行です」レオは頁の並びを目でなぞった。「乱れていませんね。急な弔いは、行が乱れるものですが」
「書いた手が、確かだったのだと思います」
言ってから、その手を思った。粘る字ではない。あの手だ。
誰の、は表題の下に書いてある。
先代さま。
ミラは、その二つの頁をゆっくり読んだ。葬送の科目は、あの誰のものとも知れない手で書かれていた。乱れのない、確かな字で。
科目の尻に締めの線がある。線の下が余っている。
二度目でございます、とジェルヴェは言った。線の下の余る締めは、十一年で二度目。一度目は、先代さまの葬送の科目で。
一度目が、この頁だった。
最初の行に戻った。
葬送の科目の、頭の行。
三月三日、堂へ使い。
ミラは動かなかった。
行が言うのはそこまでだ。三月三日に、堂へ使いが出た。弔いの支度は報せから始まる。報せは、その日のうちに出る。
雑費の巻を引き寄せた。手が、いつもより一拍遅かった。開けば並ぶと分かっている二つを並べる前の、一拍だった。
頁の下のあの場所。
三月三日。白き花、一束。二ソル。
二つの巻を並べて、日付を指で一度ずつ押さえた。
左の指の下に十一年前の三月三日。右の指の下に今年の三月三日。あいだに十一年あって、指と指のあいだは一枚の卓しかない。
同じ日だ。
息を一つ置いた。数字を読み違えたときのために、いつもそうする。読み違えていなかった。
帳場が静かになった。
筆の音も頁の音もない。廊下の遠くで誰かの足音がして、遠のいて、消えた。卓の上の二つの日付だけが同じ形で並んでいる。
「先代さまの、亡くなった日です」
声は静かに出た。
「十一年前の三月三日に、この家は先代さまを送っています。堂への使いがその日に出ている。白い花の行は翌年の三月三日から始まって、十一年、同じ日に立ち続けています」
レオは巻を見たまま動かなかった。答えを言わない。急かさない。ミラが行に着くのを、待つと決めていた人の背中だった。
「命日です」ミラは言った。「年に一度の、亡くなった方の日。白い花は、その日に立っています」
この家で、先代さまの話を聞いたことがない。死んだ者の話をしない家風だと、ずっと思ってきた。話さない家で、誰かだけが年に一度、話す代わりに花を立てていた。声のない場所に、声の代わりの二ソルが、十一年。
祝いの説明は落ちた。見舞いの説明も落ちた。聖者の日も落ちた。
説明が一つずつ落ちるたびにこの行は静かになっていった。最後に残った説明が、いちばん静かな場所に立っていた。
「この行は、金の行ではありませんでした」
ミラは白き花の行に指を置いた。十一年、写してきた行だ。
「喪の行です」
誰かが、先代さまの命日に白い花を供え続けている。
金は奥の手元から出る。花は王都から来る。日は十一年動かない。紙の言うことはそこまでだ。そこまでで、読める形は一つしかない。
名は、紙に無い。無いものは書かない。
それでも、卓の上の景色はもう朝とは違っていた。
「わたしは」
言いかけて、ミラは一度口を閉じた。それから、閉じたままにしておけなかった。
「わたしは立件のとき、これを横領の隣に置いて読みました。ロシュと同じ形だと言いました。作られた数字だと。動かない数字は人の手が決めている、と」
「動かない数字は、人の手が決めています」レオは言った。「その読みは、外れていません。決めた手が、何のために決めたかが、違っていただけです」
「帳面は、悲しみに科目をくれません」ミラは言った。「だから悲しみは、いちばん目立たない科目を借ります。雑費の隅で、品も宛も書かずに、十一年」
書いたのはミラだ。
六つの年から、震える字で。間違えずに、一度も欠かさずに。
書いた朝をいくつか覚えている。雪のやんだ年があった。雨の年があった。伝票は同じ形で来て、行はいつも同じ長さで、書く字だけが年ごとに落ち着いていった。三月三日は、帳場では白き花を書く日だった。それだけの日だった。
それだけの日ではなかった。
「わたしは、その花を見たことがありません」
言葉が先に出て、意味があとから付いてきた。
「十一年書いて、一度も。どんな花かも知りません。白い、ということしか。花は帳面の外で咲いて帳面の外で萎れて、わたしのところには二ソルの行だけが来ました」
「行だけを、書く係だった」
「わたしは、誰かの悲しみの帳簿係でした」ミラは言った。「知らずに、十一年」
「知らずに、が務めだったのだと思います」レオは静かに言った。「知る者を増やさない形でこの行は組まれています。書く子どもにも、知らせない形で」
「六つの子に、書けばよろしい、とだけ」
「その言い方ごと、決まりのうちだったのでしょう」
書けばよろしい。理由を訊く欄のない言い方だ。十一年前に形を決めた人は、書き手への答え方まで決めていたことになる。
レオは、しばらく黙っていた。
「監査は、金の行に沙汰を出します」やがて言った。「喪の行に出す沙汰を、わたしは持っていません」
「持たないままで、いいのですか」
「持たないままでいるのが、正しい行です」
監査官が、監査の届かない行を前にして、届かないことを正しいと言った。この人の口から聞いた言葉のなかで、それがいちばん監査官の言葉に聞こえた。
昼のあいだに、書き出しの紙を直した。
いつ、の行が埋まった。三月三日、先代さま御命日。
「書き入れて、よい行ですか」
「事実の行です」レオは言った。「日と名はこの巻が言っています。書き入れない理由がありません」
「沙汰は出さないのに、ですか」
「沙汰と記録は別です」レオは言った。「沙汰を持たない行も、読みの途中の紙には立ちます。立てておかないと次の読みが迷いますから」
誰が、の行は奥の手元金のまま置いた。名は紙に無い。無いものは書かない。それでも、いつ、が埋まっただけで、残りの欄の白さは朝までの白さと違って見えた。
書き出しの紙の問いが一つ、書き換わった。
誰が、誰のために。そう書いてきた。誰のために、には、もう名が入る。先代さまのために。残っているのは、誰が、と、もう一つ。
なぜ、隠すのか。
「喪は、隠すものではありません」ミラは言った。「この土地の弔いは、白い花を持って堂の坂を上ります。弔いの花も聖アニエスさまへの供えの内です。表を歩ける習いです」
「表を歩ける喪と、歩けない喪がある」レオは言った。「歩けない喪を、わたしは監査で二度見ました。どちらも、喪そのものは罪ではありませんでした」
「では、何が」
「喪の相手と、喪の主の組み合わせです」
「組み合わせが、喪を隠れさせる」
「隠れさせます。悲しむことに咎めはなくても、悲しんでいると知られることに、値の付く場合があります」
それ以上は、どちらも言わなかった。紙のない話は、紙のない場所までしか行けない。
この喪は、店の名を書かせず、届け先を書かせず、雑費の隅で十一年、身を細くしてきた。悲しみを隠す理由が、この家のどこかにある。
夕方、冠婚葬祭の巻を閉じる前に、ミラはもう一度頭から頁を繰った。
読みながら、一度だけ目が揺れた。
どの行で揺れたのかは自分でも分からなかった。葬送の頁のどこかだ。流すと決めた行の前で目が揺れたら、揺れごと覚えておく。きのう自分で立てた決まりが、さっそく仕事をした。
揺れの場所はあすの読みで探す。今日は探さない。
「今日の紙は、ここまでにしましょう」レオが言った。「重い行を読んだ日は、読みの精度が落ちます。落ちた目で数えた答えは信用できません」
「あすも、この巻ですか」
「この巻です」ミラは言った。「同じ頁を、今度は日の順を数えながら読みます。揺れた行は、数えると立ち上がるものなので」
巻を閉じて、紐を結んだ。
白き花の行は、今夜から違う行になった。
六つの字は、震えたままそこにある。あの朝のわたしは、これが何の行か知らないまま、ただていねいに書いた。
帳場を出る前に、雑費の巻へ手が戻った。
三月三日。白き花、一束。二ソル。
行は何も変わっていない。六つの字も震える線もそのままだ。変わったのは読む側だけで、読む側が変わると、紙は同じ顔で違うことを言う。
十一年、間違えずに写した。
間違えなかったことが、今日はいちばん重かった。




