第36話: 土で汚れた指
奥向きの綴りは、両手でないと卓まで運べなかった。
きのうの費えの巻よりずっと重い。二十年が一冊に綴じ足されて切れ目なく続いているからだ。
二十年ぶんの背が朝の光の中に横たわっている。焼けの色が三段に分かれて見えるのは、手が替わるたびに綴じ足しの布と紙が替わっているからだ。
古い布と、あいだの布と、いまの布。手が替わる年に装丁も替わっている。
四十四日目の朝だった。
「重い紙ですね」
「二十年ぶんですから」ミラは言った。「それに、この綴りは切りません。巻き直しも抜き差しもしない決まりです。続いていることが、この紙の値打ちなので」
「三度目です」
ミラは綴りの紐を解いた。一度目は産の科目を探して。二度目も産の科目を、レオと二人で。どちらの読みも、この綴りの奥へ向かう読みだった。
今日は違う。読むのは、出ていく側だ。
「産の科目は、通り道です」レオが言った。「今日は止まりません」
「止まりません」ミラは言った。「今日の問いを先に立てて、問いの外は流します」
問いの外を流すのも読みのうちだ。流すと決めた行の前で目が揺れたら、その揺れごと覚えておく。
レオは黙って手袋をはめた。
家の紙で、封もない。それでも、はめる。触れる紙の決まりは紙の格を選ばないらしい。
「探すものを、先に決めます」
「二ソルです」ミラは言った。「年に一度。同じ頃。宛のあるなしは問いません」
「無いことの側は」
「決まりより古い払いが無いこと。きのうと同じ読み方で、裏からも通します」
二十年の払いを頭から繰りはじめた。
古い側の頁は、先の家令の粘る字だ。
奥向きの払いは細かい。糸、櫛、白粉の包み、冬の炭の増し。
名は書かない流儀で、そのかわり品はきちんと書いてある。誰のための費えかは書かず、何の費えかだけが並ぶ。
二ソルの年例は、無い。
一年、また一年。祝いの年に祝いの増しがあり、寒い年に炭が増える。額は暮らしと一緒に揺れている。
同じ頃に同じ額、という顔の行はどの年にもない。
「櫛が、多い年があります」
「櫛は、贈りものにも使います」ミラは言った。「祝いの多い年は櫛が増えます。奥向きの費えは、家のつき合いの鏡です」
読みながら、二十年前の奥向きが見えてくる。糸の色まで書く年があり、白粉の店の名が変わる年がある。
名を書かない流儀の中で、品だけが暮らしを話している。
途中で手が替わった。
粘る字が消えて、あの誰のものとも知れない手が入る。二年ぶん。ミラは頁をめくる速さを変えずに通った。今日の問いは二ソルの有る無しだ。
その二年にも、無い。
そしてミラの字が始まった。
十年前の頁で指が止まった。
小払い、二ソル。
行の姿がまわりと違う。上の行は、糸、二包み。下の行は、炭、半俵。
品の並ぶ列の中でその行だけが品を持たない。短い行だ。読み流せば、ただの端数の行だ。
そして、最初の年の行だけ、字が大きい。線が震えている。
雑費の巻のいちばん古い白き花と、同じ年の、同じ六つの手だった。
品が書いていない。宛も書いていない。払いの流儀は名を書かず品を書くのに、この行は品さえ書いていない。ただ、小払い、とだけ。
「ありました」
声は、自分で思ったより静かに出た。
「平らな声ですね」
「見つかると思っていましたから」ミラは言った。「雑費の側に立った金は、どこかから出ています。出た側の行は必ずどこかにある。無いほうが、驚きでした」
見つけてからも、読みは止めなかった。頭から尻まで通し、それから尻から頭へ、裏でもう一度。
決まりより古い払いは、二十年のどこにもない。小払いの十一行だけが、十年前から並んでいる。
次の年の頁を繰る。ある。その次の年も、ある。同じ頃に同じ二ソルが同じ書き方で。
十年前から今年まで、十一行。一行も欠けず、一行も余らない。
「雑費の側と、突き合わせます」
レオが雑費の巻を運んできて、卓の上で二つの巻が並んだ。
新しい紙に左右で書き出していく。左に白き花の行、右に小払いの行。年ごとに一段ずつ、十一段。
頃が重なる。額が重なる。十一段、一度も外れない。
「十一で十一です」ミラは書き出しを回した。「たまたまで、ここまでは揃いません」
「日は、どちらが先ですか」
「小払いが、二日か三日先の年が多いです」ミラは段を目でなぞった。「金が先に発って、花が着く順です。頼みは年の決まりで、動くのは金と花だけです」
「取り寄せの順ですね」レオは言った。「決まった店へ、先に包む。あの読みと合います」
「同じ金です」ミラは言った。「雑費に立った二ソルが、奥向きの手元から出ています。表の帳と奥の綴りで、同じ払いを両側から書いていました」
「書いたのは」
「どちらも、わたしです」
言ってから、その意味が遅れて届いた。
白き花、と表の帳に書いたのはミラだ。小払い、と奥の綴りに書いたのもミラだ。
十一年、年に二度、同じ金を書いてきた。二つの行を並べたことは一度もなかった。
「両側とも、わたしの手です」ミラは自分の指を見た。「わたしは十一年、この二行を突き合わせずに書いてきました」
「帳面は、書く人に突き合わせを求めません」レオは言った。「求めるのは、読む人だけです」
「悔しい、という顔ではありませんね」
「悔しくは、ありません」ミラは言った。「書く手は行の外を見ません。見ない決まりで、書く速さが立ちます」
「では、いまの顔は」
「数の合った顔です」ミラは書き出しの十一段を見た。「十一年別々だった二つの行が、いま初めて一枚の紙で会いました。会わせたのは、読む目です」
書くことと読むことは、別の仕事だ。それを、この帳場で何度も確かめてきた。確かめるたびに、確かめた分だけ、自分の十一年が違って見える。
「払いの主が、立ちました」
レオは並んだ二枚を見たまま言った。
「奥向きの手元金です。指図の欄はどちらにもありませんが、金の出所は動きません。奥の手元から出て、雑費で立てられています」
「奥向きの手元金を預かるのは」
「奥さまです」ミラは言った。「奥向きは、奥さまの領分です。手元金の出入りに、家令も帳場も口をはさみません」
誰が、の欄に初めて言葉が入った。朝には無かった言葉だ。
名前ではない。領分の名だ。それでも、きのうまでの、誰も、よりはずっと狭い。
「奥さまに、訊きますか」
レオの問いは、平らだった。試す声でも、促す声でもない。
「まだ、です」ミラは言った。「誰に当ててよい問いか、確かめてからにします。それに、訊くなら日の名を読んでからです」
「日の名」
「同じ問いを二度は訊けません。訊くなら、一度で足りる形にしてからです」
「二ソルは、奥の手元から出ています」レオは言った。「では、次の問いです。出た二ソルは、どこへ行きますか」
「白い花に替わります」
「替わった花は、どこへ行きますか」
店から先の道は帳面に書いていない。届け先の欄は、十一年、白いままだ。
「白い花の用を、数えます」
ミラは指を折らずに数えた。
「祝いの飾り。見舞いの品。それからこの土地には、もう一つあります」
「もう一つ」
「聖アニエスさまへの供えです」ミラは言った。「堂の絵の足元に白い花を供えます。古い習いです。嫁ぐ人も、子の生まれた家も、白い花を持って坂を上ります」
「聖アニエスの堂は」
「半日の道の先です。アンセルムさまの教区の、あの堂です」
寄進を届ける供で堂まで行った年に、坂を上る花を見た。嫁ぐ娘の白い束。生まれた子の名を告げに行く父親の片手の三本。
この土地の白い花は、聖アニエスさまへの道を上っていく。
寄進の巻にも聖アニエスの名は毎年立っている。収穫のあとの志の、出した先の教区。この家と聖アニエスの縁は、帳面の上で二十年続いている。
「供えの花なら、白いことに理由が付きます」レオは言った。「額が動かないことにも。習いの供えは、決まりの顔をしますから」
「聖アニエスさまの日は、いつですか」
「秋です」ミラは寄進の巻に手を置いた。「志の行の隣に、堂の祭りの支度が毎年立ちます。収穫のあと、志と同じ頃です」
「一つだけ、合いません」
「日ですか」
「日です」ミラは頷いた。「聖アニエスさまの日は秋です。収穫のあとの、志の頃。白い花の行は、三月三日です」
供えの習いは聖者の日に合わせる。秋の聖者に春の花は合わない。
「三月三日は、聖アニエスの日ではない」レオは言った。「では、誰の日ですか」
日付だけが答えを持たずに残った。
祝いでもない。見舞いでもない。聖者の日でもない。それなのに十一年、一度も動かなかった日。
「帳面は、日の名を書いていません」ミラは言った。「日の名を知っているのは、日を選んだ人だけです」
「選んだ人と、選ばせた日のどちらかが」
「読める紙に、残っていれば」
十年前に何かがあって、決まりが始まった。三月三日に何かがあって、日が選ばれた。
二つの何かが同じものなら、日の名は出来事の巻に立っている。
「店の側からは、追えますか」
「追えます。ですが、遠いです」ミラは言った。「白い花を三月にそろえる店は、王都の温室の店です。使いを出して帳面を見せてもらって、往復で十日はかかります」
「日の側は」
「この卓の上です」
「では、近いほうからです」レオは戻ってきた巻の背を見た。「あすは冠婚葬祭の巻を。日の名は、出来事の巻に立ちます。この家の十年前の前後を、日の側から読みます」
誰の日か。その問いは、人に訊けば一度で終わる。紙で読めば、誰にも訊かずに終わる。どちらの終わり方を選ぶかはもう決めてあった。
書き出しの紙を仕上げるころには、日が落ちかけていた。
払いの主、奥向きの手元金。二ソルの年例、十年前から。決まりより古い払い、無し。二十年を頭から表で、尻から裏で。
三行になった。誰が、は奥の手元金まで。どこへ、は店まで。いつ、は三月三日という名の無い日。
問いの形が、朝より細くなっている。細くなった分だけ、先が尖っている。
書きながら、奥、という字を何度も書いた。
奥向き。奥の綴り。奥の手元。
何度目かの、奥、で手が止まった。
筆の先が紙の上で乾いていくのが分かった。乾くまで動かせなかった。
三月になると、あの人は毎年ひとりで屋敷を出る。行き先を誰にも言わない。帰ってくると、指先がいつも、少し土で汚れている。
追い出される前の十一年、ミラはそれを毎年見ていた。見て、何も思わなかった。
奥さまの出入りは帳場の勘定の外にある。勘定の外のことは、見ても数えない。それがあの家でのミラの目だった。
いまは、帳場の勘定が奥へ向かって開いている。その先に、あの出入りが立っている。
毎年の、三月の、ひとりの外出。日付の欄のない、十一年ぶんの繰り返し。
勘定の外に置いてきたものを、数えたことがない。数えなかったものの中に、答えの側から見れば行だったものがいくつ混ざっていたのだろう。
ミラは筆を置いた。
思い出は、帳面ではない。日付の欄も額の欄もない。突き合わせる先が、どこにもない。
それでも、土の色だけは消えない。
どの帳面にも書いていないその色が、筆を置いたあとの指の先に、いつまでも残っていた。




