第34話: 几帳面な雑費
門で鎖の音がした。
十二日ぶりの音だ。綴りが発ってから、外から来る紙は一枚もなかった。鎖の音は家じゅうに届く。聞いた者はみな、手を止めて、何が来たのかを考える。
朝の空気がもう春のものではない。窓を開けると、緑の匂いが濃くなっていた。中庭の木の影が、地面の上で短くなりはじめている。
荷馬車は一台。積み荷は麻布でくるんだ四角いものがいくつかと、封のある文が一通。
帳場でミラは筆を置いて待った。
持って上がってきたのは、ジェルヴェだった。
「監査院の封でございます」
紐には手をかけず、封のところだけを検めて卓に置く。奥は通さない。院の封のものは、帳場へ直に来る。この家で、それはもう決まりごとになっていた。
「わたくしの役目は、ここまでで」
礼をして、出ていった。
レオは立ち上がって卓の端から手袋を取った。
きのうまで指をそろえて置いてあったものだ。綴りが発つ前から、同じ場所にあった。
「触れる紙が、来ました」
はめてから封を切った。
発った日から、十二日がたっていた。四十二日目の朝だ。
文は一枚だった。
読み終えたレオが卓のこちらへ回してよこす。ミラは両手で受けて読んだ。
「受理、とあります」
「五つの行は、読まれました」レオは言った。「名の四つと、日の一つ。院の帳に載りました」
「沙汰は」
「まだです。氏の件は、監査の掛では扱いません。院のなかの、別の掛に回ります」
「回って、どうなりますか」
「掛が違えば、読む人も違います」レオは文の下のほうを指した。「わたしへの指図は、ここです」
「読む人は、どこまで読みましたか」
「書いていません」レオは言った。「読んだ、とだけ書く人たちです。どの行で手が止まったかは、向こうの帳にしか残りません」
十七年ぶんを五つの行にして出した。読んだ側の十七年は、受理の二字で返ってきた。
在勤を続けよ。押収の巻の検めを続けよ。
二行だった。急げとも、いつまでとも、書いていない。
「期日が、ありません」
「氏の件が向こうへ渡ったので、こちらの手が空きました」レオは言った。「期日のない検めは、初めてです」
急がない読みは、深くなる。返しを待ちはじめた朝に、この人はそう言った。
荷のほうは、巻だった。
麻布を解くと見覚えのある背が四つ出てきた。修繕。冠婚葬祭。寄進。雑費。押収されて王都へ行った束の、続きが戻ってきたのだ。検めはこちらの卓で続く。
いちばん上に、紙が一枚載っていた。
巻ではない。折り畳まれた薄い紙だ。開くと、三行だけ書いてある。
渡し賃。煤払い。白き花。
ミラはその紙を知っていた。王都の監査院で、立件の済んだあとに書いた紙だ。書記が押収の束のいちばん上に置いた。置いたときのままの順で、束と一緒に戻ってきた。
渡し賃の行には線が引いてある。煤払いにも線がある。理由がついて、落ちた印だ。
白き花には線がない。
「忘れずにおきました」レオは言った。
「ずいぶん、置きました」
「氏の件が塞いでいました」レオは紙を卓の真ん中へ置いた。「それに、花は、逃げません。帳面に残っているものは、待たせても減りません」
「二ソルに、一日割けますか」
「今日は、割けます」レオは座り直した。「期日が、なくなりましたから」
ミラは雑費の巻を手前に引いた。麻布の匂いがまだ背に残っている。
「前に読んだ巻です」
「読みました」レオは言った。「不正かどうか、の物差しで」
「答えは出ています。不正の形ではない。作られた数字でもない。あの一行は、実際に買われた花です」
「出た答えの先を、まだ読んでいません」レオは三行の紙の、線のない行を指した。「物差しを替えます」
「何で読みますか」
「誰が、で読みます」レオは言った。「誰が、誰のために。金の問いは終わりました。残っているのは、人の問いです」
ミラは巻を開いた。頁の下のほうのあの場所だ。
三月三日。白き花、一束。二ソル。
十一年ぶん、同じ行が並ぶ。日も額も品も、一度も動かない。
いちばん古い行だけ字が大きい。線が震えて、白き花の、きの字が濃い。六つの年の字だ。見るたびに、恥ずかしさより先に、遠さが来る。
「懐かしい、とは言わないのですね」
「他人の字です」ミラは言った。「六つのわたしは、他人です。書いた行に、覚えだけがありません」
「並べ直します」ミラは新しい紙を出した。「今度は、行の外にあるものと比べます」
「外にあるもの」
「志の書式です」
ミラは寄進の巻を引き寄せた。戻ってきた四つのうちのひとつだ。
「教区の志は、動かない金です。年に一度、決まった頃に、決まった額で立ちます。実りが多くても少なくても、志は志の額で出る。気持ちの上に乗る金だからです」
「白き花も、その形です」
「形は、同じです」ミラは二つの巻を並べた。「年に一度。同じ頃。同じ額。決まった店へ決まった額を包んで、決まった日に届けさせる。それなら額の動かない理由もつきます。志を含んだ定額です」
寄進の頁には、出した先が並んでいる。年ごとの額と、出した先の教区の名。志は行き先ごと書かれて、初めて帳面に立つ。
「説明が、立ちますね」
「立ちます」ミラは頷いた。「立つことと、答えが出ることは、別です」
レオが目を上げた。
「どこが欠けていますか」
「受け手です」ミラは寄進の巻の頁を開いた。「志には、受け手の名が立ちます。教会へ、堂へ、施しの箱へ。誰に渡ったかが書いてある。志は、渡って初めて志になるからです」
「白き花には」
「どこにもありません」ミラは線のない一行に指を置いた。「店の名がない。届け先がない。誰の指図とも書いていない。受け手のない志です」
志の形をして、志の書式が欠けている。
「似て、欠けている」レオは言った。「欠け方が、そろっていますね」
「そろっています。名前だけが、そろって欠けています」
金額はある。日付はある。品もある。人だけが、この行にはいない。
「この家で、いちばん几帳面な行です」
ミラは十一年ぶんの並びを、上から下へなぞった。
「几帳面な雑費、というのは、それだけで妙です。雑費は、こぼれたものを受ける科目です。決まらなかったもの、名のつかなかったもの。だから、雑に括られます。几帳面は、雑費の性に合いません」
「不正は、几帳面を嫌います」レオは言った。「不正は紛れたがる。これは紛れる気がない」
妙に几帳面な数字を、書き写したことがある。テュレの記録番の老人の声が、耳の奥で戻ってきた。誰が、なんのためにとは、首を突っ込まなかったと、あの人は言った。
首を突っ込む側の人間が、いま、卓の向かいに座っている。
「決まりごとは、揺れません」
「では、これは決まりごとです」レオは一行を見た。「決まりごとの顔をしていて、決めた人が、どこにも書いてありません」
誰かが決めて、十一年一度も破られなかった決まり。破られないように守った人が、必ずいる。決まりは、守る人がいて初めて十一年もつ。
「守った人は、書く人でもあります」ミラは言った。「店の名を書かない、と決めるのは、書く側の決まりです」
言ってから自分の指を見た。
この行を書いてきたのは、ミラだ。書けばよろしい、と言われて、十一年書いた。書かないことも、ミラの手が守ってきたことになる。
「わたしは、決まりの中にいました」
「決まりの中にいた人は、決まりの形をよく知っています」レオは言った。「外から来たわたしより、よく」
並べ直しは、昼までかかった。
年ごとに一枚ずつ、行の左右を書き出していく。同じ頁の上の行と下の行。その年の実り。その年の家の出来事。
実りの多い年があった。少ない年があった。当主が二割を抜いていた年々でもある。醸造の数字が膨らんでも、痩せても、二ソルは二ソルのままで立っている。
「家の金回りと、つながっていません」ミラは書き出しを回した。「実りがどちらへ振れた年も、二ソルのままです。家計の外から来る決まりです」
「外から」
「家計の都合が、届かないところから」
二人は並べ直しを終えた。
新しい紙に、行の姿が写し取られている。十一年。同じ日。同じ額。受け手のない志。決めた人の書いていない決まりごと。
「問いを立てます」ミラは筆を持った。
誰が、誰のために。
書いて、その下を空けておいた。答えの入る場所はまだ白いままだ。
「帳面で、答えられますか」
「この巻では、答えられません」ミラは言った。「この巻は、決まりが始まったあとの巻です。決まりの始まりは、載っていません」
「始まりは、どこに」
「前の巻です」ミラは窓の外の、蔵のほうを見た。「この雑費は、わたしの字で始まっています。わたしの前の年々は、前の巻にある。先代さまの頃の巻です」
「押収の束には」
「入っていません。押収は、帳場にあった巻でした」ミラは言った。「前の巻は、蔵に移してあります。誰にも、押収されていません」
「家の者には、訊きませんか」
「前に一度、答えの返らなかった問いです」レオは言った。「訊き直す前に、紙で読めるところまで読みます。人は二度目の問いを覚えていますが、紙は何度読まれても気づきません」
「蔵の巻を、読んだことは」
「ありません」ミラは言った。「運び込みを手伝ったことなら、あります。読む用のない紙でした」
「用が、できました」
レオは手袋を外して、卓に置いた。指をそろえて、次の紙を待つ形に。
「修繕と、冠婚葬祭は」
「そのあとで検めます」レオは戻ってきた巻の背へ目をやった。「急ぐ理由がありません。一巻ずつ、深く読みます」
「では、順番です」
「あすの朝、蔵を開けてもらいます」ミラは言った。「決まりには、始まりがあります。始まった年を見れば、決めた人の側から読めます」
夕方の控えは三枚だった。台所と厩と竈の薪。家の暮らしの行が、いつものように並んでいる。
取りに来たジェルヴェは、卓の上の巻の背を見た。雑費の巻と、寄進の巻。視線は一度だけで、何も言わなかった。
「本日の控えでございますね」
「三枚です」
「確かに」
「ジェルヴェさん」
戸口で家令が振り向いた。
「あすの朝、蔵を開けていただけますか。古い巻を検めます」
「巻、でございますか」
「先代さまの頃の、費えの巻です。監査の続きに要ります」
ジェルヴェは一拍おいて頷いた。
「鍵は、わたくしが束ねております。朝のうちに、ご用意いたします」
それだけだった。何の巻か、とは訊かなかった。訊かない人が、訊かないままでいる。
揃えて、礼をして、出ていった。廊下の板は、鳴らなかった。
その夜、手箱は開けなかった。
四行の頁は、閉じたままでいい。ミラが開いたのは、手箱の外の、仕事の書きつけだった。
誰が、誰のために。
昼に書いた問いを写しておく。問いは立てた人の手元にも、一部あったほうがいい。読み違いのときに、突き合わせができる。
窓の外で初夏の虫が鳴きはじめている。
春に立った問いはまだ手箱の中にいる。夏に立った問いが、いま卓の上に来た。
二つの問いは、いまは別々の頁にいる。




