第33話: 自分の帳簿
棚に、幅ひとつぶんの隙間があいている。
二十年、途切れずに並んでいた場所だ。綴りが家の外へ出たのは、この棚が立ってから初めてになる。
夕方の帳場で、ミラの手が癖で棚へ伸びた。掴むものがなくて、下りた。
隙間は、すぐには埋まらない。埋まる日が来ても、戻ってくるのは発った紙と同じ紙ではない。読まれた紙になって、戻ってくる。
卓の脇には、写しの束が残っている。発った綴りの、こちら側の控えだ。
同じ中身が、王都と帳場に一部ずつ。片方が読まれるあいだ、もう片方はここで黙っている。
「残りを片づけます」
発送の日の夕方、レオは卓の向かいに座った。
「読み残した紙、と言われました」
「人件の巻から写した名が、一つあります」ミラは書きつけに手を置いた。「写して、読んでいません」
「写して、読まない。できるものですか」
「手が写します。読むのは、問いです」ミラは言った。「名は、問いに答える形で読むものです」
「問いが、まだない」
「立てていません。要らない問いは置く。帳場の作法です」
「置いた問いを、あなたは忘れない」
「忘れません」
レオは書きつけを見なかった。名の載る頁を開けとも言わなかった。置いてあるものは、置いてあるままでいい、という座り方だった。
「写しの束は、どうしますか」
「錠のある棚に」レオは言った。「返しが来たら、向こうの読みとこちらの控えで、突き合わせをします」
「読み違いが、ありますか」
「読む人も人です」レオは言った。「数字は違わない。読みは、違うことがあります」
「そのときは」
「突き合わせです。だから同じ紙を、二つの場所に置くのです」
ミラは束を揃えて、棚に入れた。錠を掛ける音が、夕方の帳場に一つ落ちた。
「訊き残したことのほうは」
ミラのほうから訊いた。レオは少しだけ黙った。
「あとにします」
あとにします、はミラの言い方だ。人件の巻の朝に使って、そのまま返された。借りたものを返す人は、返す日も選ぶ。
翌日の控えは三枚だった。台所と厩と、井戸の縄の掛け替え。
夕方、ジェルヴェが取りに来た。
「本日の控えでございますね」
「三枚です」
「確かに」
ジェルヴェは枚数を検めて、束の角を揃えた。
「あすの分も、この嵩でございましょうか」
「出る行しだいです」
「さようでございますね」
揃えて、礼をして、出ていった。訊かれたことに答えて、訊かれないことを言わない。いつものこの人に戻っていた。
珍しいことが、いくつか続いた家令だった。戻れることも、務めの芸のうちなのだろう。
レオの手袋は、まだ卓の端にある。触れる紙は、まだ来ない。
鳴る足音も、あれから来ない。あの人がどこで何をしているのか、帳場からは見えない。見えないものは、控えに立たない。
棚のいちばん奥に、奥向きの綴りがある。
発たなかった紙だ。監査の綴りに入れたのは写しと書式で、綴りそのものは二十年、この棚を出ていない。
ミラは背表紙を見た。二十年ぶんの背は、日に焼けた色が三段に分かれている。
古い焼けと、あいだの焼けと、新しい焼け。手の切れ目は、開かなくても背に出る。
見ただけで、開かなかった。今日の勘定に、要る巻ではない。
その次の日、母屋の指図は一本も下りなかった。
支度の行が消えて、控えは薄いままだ。薄い控えが続くと、家の暮らしの芯が見えてくる。
竈の薪。飼葉。塩と油。派手な行が一本もなくて、家はこういう行で立っている。
窓の外の緑が濃くなっていた。
中庭で厩の者が馬を洗っている。婚礼に出すはずだった鹿毛だ。
水を汲みに来た男が、帳場の窓の下で足を止めた。
「飼葉の行は、いつもどおりで」
「いつもどおりに」ミラは言った。「馬は、減っていませんから」
「へえ」男は桶を持ち直した。「馬だけは、何も知らんで肥えていきます」
式がなくても、馬は洗う。飼葉の行が立つ。洗った馬は、どこへも行かずに厩へ戻る。
春が尽きかけている。婚礼のはずだった季節が、婚礼のないまま終わっていく。急いだ日付も、白紙の日付も、みんな春のものになった。
帳面のうえでは、この春は四つの日付で残る。読み返す人があれば、そう読める形で綴じてある。
読み返す人がいるかどうかは、帳面の知らないことだ。
三十三日目の昼、ミラは指を折らずに数えた。
発った日を一日目に数えて、今日が四日目。綴りは今日、王都に着く。
「着く読みの日です」
「着いた日には読まれません」レオは言った。「検めと、目録の突き合わせが先です」
「読まれるのは」
「あすからです」
「五つの行を」
「読む人が、順に」
それきり、レオは立たなかった。立つ用のある人が、立たずにいる。
「訊き残したことの、二つ目を」
「はい」
「長く、置いた問いです」レオは言った。「奥向きの綴りを、あなたは二十年ぶん、二度繰りました」
「繰りました」
「わたしは向かいで、見ていました」
「何をですか」
「あなたの指を」レオは言った。「二度とも、速くなる丁が一枚ありました」
ミラは筆を置いた。
指の速さを、見られていた。丁を繰る手つきなど、数えるものではないと思っていた。この人は、人の手を数える。
「速くなる指は、二つあります」レオは言った。「読み飛ばす指と、読まないと決めている指です」
「どう、違いますか」
「読み飛ばす指は、戻ります」レオは言った。「あなたの指は、戻りませんでした」
「どの丁かは、訊きませんでした」
「なぜですか」
「監査が閉じていなかったからです」レオは言った。「開いた口は、監査のために使うと決めていました」
「いまは」
「綴りは発ちました。五つの行は、読む人の卓へ向かっています」
レオは卓の上で手を組んだ。
「わたしの用は、待つことだけになりました」
だから、いま訊く。この人の順番は、いつも書式でできている。
「あなたも、あの綴りに頁を持っています」
「持っています」ミラは言った。隠す筋のものではない。「氏の届けの行です。来た年の冬に立ちました」
「読みましたか」
「知っています。どこにあるかも、何が書いてあるかも」ミラは言った。「開くまでもありません」
「短い行ですか」
「短い行です」ミラは言った。「氏と、届けの日。それだけです。産の行は、ありません」
「では、一つだけ」
レオは手袋に触れなかった。紙に触れる問いではないからだ。
「あなたの頁を書いた手は、誰のものですか」
帳場が静かになった。窓の外で鳥が短く鳴いて、やんだ。
あの綴りの手の切れ目は、三つある。十三年前までが先の家令の字。そこから二年が、誰のものとも知れない別の手。十年前から、ミラの字だ。
ミラの行は、来た年の冬に立った。書き役を継いだのは、そのあとのことだ。
別の手の、二年の内側だ。
「分かりません」
白紙の翌日の夕方、同じ言葉を人に渡した。あのときは、紙が書いていなかった。書いていないものは、誰にも読めない。
今度は、違う。
「読めないのでは、ありません」ミラは言った。「読んでいないのです」
「並べれば、読める字ですか」
「字は、並べれば読めます」ミラは言った。「人の字を十一年、そうやって読んできました」
「あなたは、並べていない」
「並べる問いを、立てていませんでした」
「なぜ」
帳場の作法なら、答えは決まっている。要らない問いは置く。十一年、あの頁は、どの勘定にも要らなかった。
口に出す前に、その答えがもう古いことに気づいた。
「要らない問いでした」ミラは言った。「十一年」
「いまは」
ミラはすぐに答えなかった。卓の上の書きつけは閉じてある。閉じた紙の中の数字は、書いた者にだけ見える。
「問いは、立ちました」ミラは言った。「あなたが、いま立てました」
「立てただけです」レオは言った。「読むのはあなたの仕事です。読む日も、あなたが決める」
「読まない、と決めることも」
「できます」レオは頷いた。「置いた問いを、あなたは忘れない。それで足ります」
置いた場所を覚えている。それを、この人はずっと見ていたのだ。
「なぜ、今日でしたか」
「綴りが着く日だからです」レオは言った。「あなたはこの家の十七年を、五つの行にして王都へ出した」
「出しました」
「人の家の行を立て終えた日に、訊くと決めていました」
「順番ですか」
「順番です」レオは立ち上がった。「人の勘定が先で、自分の勘定はあとです」
あなたが十一年やってきた順番と同じです、と言い足した。
戸口で、レオは一度だけ振り返った。
「順番が回ってきただけです。飛ばしたのではありません」
それだけ言って、出ていった。廊下の足音は、いつもの速さだった。
夜、ミラは書きつけを開いた。
閉じた数字の頁を過ぎて、新しい頁に出た。癖で日付を入れて、それから行を立てた。
一つ。来た日。十一年前の冬。
二つ。氏の届け。同じ冬。
三つ。年に二十四。十一年。
四つ。頁の手。
四つ目だけ、数字がない。名もない。問いの形をした行だ。
書いてから、ミラは自分の字を見た。角の立った字だ。十一年、この家の巻を書いてきた字で、いま初めて、自分の行を書いた。
あの綴りの頁は、そうではない。あの頁を書いたのは、ミラが字を覚えるより前の、誰かの手だ。書かれた側は、書かれたことも知らずにいた。
今夜の四行は、違う。書いた手と書かれた者が、同じだ。
帳簿は、答えの分かっているものだけを書く場所ではない。分かっていないものを、分かっていない形のまま立てておく場所でもある。
十一年、人の帳簿を書いてきた。この家の巻を。醸造の年々を。婚礼の科目を。
そのあいだ、自分の行はどの帳面でも、人の手が書くか、白いままだった。
四行だけの頁が、卓の上にある。
自分の帳簿だ。
朝、王都で綴りが開かれる。読みの上では、今日からそうなる。
どの行から読まれるのかは、帳場から見えない。名の四つが先か、日の一つが先か。読む順は、読む人のものだ。
「返しは、いつごろ」
「読む人しだいです」レオは言った。「読む速さは、読む人が決めます」
「決められるのは」
「待つあいだに、何をするかだけです」
「返しまでのあいだ、こちらは」
「日々の控えと、束の整理です」ミラは言った。「それから、押収の巻の読み残しがあれば、順に」
「それがいい」レオは言った。「急ぐ理由が、いまはありません」
「急がない読みは」
「深くなります」
ミラは頷いて、今日の控えを開いた。台所と厩と、竈の薪。家の暮らしの行が、いつものように並んでいる。
昼、写しを届けに廊下へ出ると、渡りの先に人が立っていた。
セリーヌだった。遠くて、顔は読めない。中庭の緑を見ているのか、その先の門を見ているのか。帳場のほうは、見なかった。
ミラは会釈だけして、通った。足音は追ってこなかった。来ない足音を、初めて、静かだとは思わなかった。
書きつけは手箱に仕舞った。四行の頁は、いちばん新しい頁のままだ。
埋まる日まで、そのままでいる。
窓の外で、春の終わりの風が緑を揺らしている。棚の隙間は、まだ埋まっていない。
埋まっていない場所を、ミラは二つ知っている。




