第32話: 誰の娘
二十七日目の控えは薄かった。
婚礼の行が一本もない。
花も布も急ぎ賃も、きのうの昼で終わっている。台所と厩と、いつもの家の分だけが並んで尽きた。
十一年、この綴りは薄くなったり厚くなったりしてきた。婚礼の行が入ってからは厚いのが当たり前になっていた。
薄い控えは、静かな家の形をしている。
「止まったのではありません」
昼前に寄ったレオへ、ミラは控えを向けた。
「支える式が、なくなりました。支度は式に付くものです。式が消えれば、行ごと消えます」
「払い残しは」
「三件。仕立ての残りと席の布の裁ち賃と、花の約束の分です。式がなくても、頼んだ分は払いが立ちます」
「それは、いつ」
「母屋の指図待ちです」ミラは言った。「今朝は、まだ出ていません。白紙の翌日に、家がまず決めるのは払いです」
「決められない家は」
「それも、決めません」
「綴りの中身を、最後に読み合わせます」
レオが卓の向かいに座った。ミラは綴りを開かずに、頭のなかの目録を読んだ。
「一つ目、九年前の氏の届けと家の控えの四日。二つ目、連名の八年。三つ目、教区の丁の短い行。四つ目、王都の六年と由緒。五つ目、四つの日付」
「入れないものは」
「借り賃。立てれば巻ごと崩れます。それから、わたしの覚え。証しにならないものは、入れません」
「フーケの断りは」
「断った日付ごと、入っています」
レオは頷いた。読み合わせは、それで終わりだった。入れたものと入れないものの境目を、二人とも諳んじている。
レオの手袋は、卓の端にあった。
きのう置かれたままの形で、指をそろえて並んでいる。
「お忘れです」
「置いてあります」レオは言った。「触れる紙が来たら、はめます」
綴りは三日後に発つ。それまでに触れる紙が来るかどうかは、誰にも分からない。
置かれた手袋は、待っていた。
昼過ぎ、母屋から指図が一本下りた。
払い残しを締めよ。それだけだった。
筆はジェルヴェの手で、署名はない。指図に署名は要らない。要らないことが今日は都合よいのだろうと思って、思ったことは仕舞った。
三件の払いを立てて、締めの線を引く。婚礼の科目がこれで閉じる。
ミラは線を引いた。定規を当てて、まっすぐに。
十一年書いてきて、科目を閉じる線は何度も引いた。実りの年ごとの締め。醸造の巻の終わり。どの線も、同じ太さで引いてきた。
この線も、同じ太さで引いた。
線の下に、余白が残った。
控えを取りに来たジェルヴェは、締めの線の頁で手を止めた。
「お閉めになりましたか」
「指図のとおりに」
「線の下の余る締めは、十一年で二度目でございます」
ミラは顔を上げた。
「一度目は」
「先代さまの葬送の科目で」ジェルヴェは控えを揃えた。「あのときも、線の下が余りました」
「余りは、どうなさいました」
「余りのままに」ジェルヴェは言った。「埋めない余白も、帳面のうちでございますので」
それだけ言って、出ていった。訊かれていないことを、この人が足した。それも、初めてだった。
夕方、戸口に足音が立った。
鳴る足音だ。今日は、乱れていない。
セリーヌだった。
化粧をしていた。髪も結ってある。部屋着ではなく、昼のドレスだ。
きのうより整えてある。整えるのに使った時間のぶんだけ、今日の用は決まっているのだと分かった。
「訊きに来たの」
戸口の内側で、セリーヌは言った。
「きのうは、訊けなかった。何を訊けばいいのか分からなかったから」
「はい」
「一晩、考えたわ」セリーヌは卓の前まで来た。「なぜ、白紙になったの」
問いが形になっていた。
ミラは筆を置いた。
ミラは写しの束から、一枚を出した。白紙状ではない。その二日前に着いた、三行の紙だ。
「まず、これを」
セリーヌは受け取って、読んだ。今度は、長くなかった。
「拝受って」
「受け取りました、です」
「二通、確かに」セリーヌは顔を上げた。「二通って、なに。家が渡したのは、氏の証しでしょう」
「もう一通は、洗礼の証しです。教区から出ています」
「わたしの洗礼」
「はい」
「家は、出していないのに」
「先方の司祭が、こちらの司祭へ求めを書きました。家の手の届かない道です」
セリーヌは紙を置いて、卓の縁に手を置いた。
「それを読むと、白紙になるの」
「二通には、日付があります」ミラは言った。「洗礼の証しに十七年前。氏の証しに九年前。あいだが八年」
「八年」
「この家の子として生まれた者に、八年後の氏の届けは要りません」
言ってから、ミラは相手の顔を見た。
セリーヌはまばたきをしなかった。八年、ともう一度、口の中で言った。数える人の言い方だった。
「覚えて、いないの」
「なにをですか」
「八つより前」セリーヌは自分の手を見た。「覚えていないのよ。乳母がいて、部屋があって、それだけ。どこの部屋だったのか、考えたこともなかった」
覚えは、証しにならない。ないことも証しにならない。幼い日を覚えていない人は、どこにでもいる。
ただ、この人はいま、初めてそこを覗きこんでいる。
「わたし、八つまで、氏がなかったの」
「届けの上では」
「届けの上では」セリーヌは繰り返した。「便利ね、その言い方も」
棘の形はしていたが、刺さる先が違った。ミラにではなく、言い方そのものに向いていた。
「まだ、あるのでしょう」
「何がですか」
「あなたの言い方で分かるわ。紙が知っていることまでは、と言ったもの。まだ、そこまでしか聞いていない」
この人は、聞き方も覚えている。
「洗礼の証しは、原簿から写します」ミラは言った。「写すときは、行のとおりに写します」
「行のとおり」
「わたしは、原簿の行を見ています。三年前に来た司祭が、一葉だけ見せてくれました」
セリーヌの手が、卓の縁で止まった。
「どう、書いてあったの」
ミラは少しだけ間を置いた。この先は、言えば戻せない。
言わなければ、この人は行の白さを知らないまま、白さの意味だけを疑い続ける。
「粉屋の子。鍛冶の娘」ミラは言った。「並びの行には、そう続きます。誰の子か、が書いてあります」
「わたしの行は」
「名で終わっています」
長い沈黙だった。
セリーヌは卓の縁から手を離して、自分の指を見た。爪が口もとへ上がりかけて、途中で止まった。上がりきらず、下りもせず、胸の高さで止まっている。
「短いのね」
やがてそう言った。きのうと同じ言葉を、きのうと違うもののために。
「はい」
「書かなかったのかしら。書けなかったのかしら」
ミラは答えなかった。
「答えられないの。答えないの」
「答えられません」ミラは言った。「書かなかったなら、書かない理由があります。書けなかったなら、書けない事情があります。どちらかは、行の白さから読めません」
「白さが証すのは」
「そこまでです」
「ねえ、ミラ」
名を呼ばれた。この人がミラの名を呼ぶのは、久しぶりだった。
「わたしは、誰の娘なの」
窓の外はまだ明るかった。帳場の棚と綴りの背と卓の上の写し、部屋にあるすべての紙が、その問いには答えを持っていなかった。
「分かりません」
ミラは言った。それしか、言えるものがなかった。
「紙は、そこを書いていません。書いていないことは、わたしには読めません」
「あなたでも」
「わたしでも」
セリーヌは頷いた。責める形ではなかった。確かめる形だった。
「そう。あなたでも読めないのね」
戸口へ向かって、途中で止まった。振り向かずに、言った。
「調べてとは、言わないわ」
「はい」
「言わないけれど」
その先は、なかった。言わないと言うために止まったのか、その先を言わないためか。背中からは読めなかった。
静かに廊下へ出ていった。足音は鳴って遠ざかって、一度も乱れなかった。
問いは置いていかれた。
わたしは、誰の娘なの。
あの人の問いだ。あの人のための問いだ。そのはずだった。
夜が来るまでミラは控えの写しを三枚仕上げた。手は動いた。数字は並んだ。間違えなかった。
間違えないまま、問いは卓の隅にいた。
二十八日目と二十九日目は、写しと目録で終わった。
発つ綴りの目録を二部つくる。一部は綴りに付け、一部は帳場に残す。行の数を数え、丁の数を数え、封の数を数える。
「向こうで検めるのは」
「まず目録です」レオは言った。「目録と中身が合っているか。合っていれば、次に中身へ入ります」
「合っていなければ」
「そこで止まります。だから二度数えます」
数えることには、果てがある。答えの出る仕事は、手を軽くする。
卓の隅の問いには、果てがない。ミラは二日のあいだ、数えられるものだけを数えた。
二十九日目の夕、目録の最後の丁を綴じながら、レオが言った。
「お嬢さまは、あれから」
「来ません」
「訊かれたのですね」
手が、一拍止まった。数えていた丁の数が、どこかへ行った。
「なぜ、分かりますか」
「あなたの筆が、夕方から一度も迷っていないからです」レオは言った。「迷いを仕舞った手は、そういう動き方をします」
ミラは丁を数え直した。答えは、しなかった。しないことが答えになるのは、承知の上だった。
夜、灯りを一つにしてミラは書きつけの新しい頁を開いた。
癖で日付を入れた。それから、手が止まった。
書くことを決めていなかった。決めないまま頁を開いたのは、十一年で初めてだった。
セリーヌの行は、名で終わる。八年あいて、氏が立つ。紙がそう言っていて、紙の言うとおりにあの縁組は白紙になった。
紙は、あの人について、それだけ知っていた。
では。
ミラは筆を持ち直した。
二十四、と書いた。
年に二十四リーヴル。十一年、動かなかった数字だ。
立件のとき、監査院で教育費の巻を繰った。自分に使われた金の帳面だった。受け取った人の名が、毎年書いてある。読める行だった。全部、読める行だった。
読めるのに、答えの出ない行でもあった。
なぜ、無能な拾い子ひとりに、年二十四リーヴルだったのか。
あのとき、その問いは棚に置いた。立件に要らなかったからだ。要らない問いは置く。それが帳場の作法だ。
置いた場所を、ミラはずっと覚えている。
二十四は、割り切れる数だ。十二の二倍。半分にしても、そのまた半分にしても、割り切れる。きれいな数に、きれいな理由が付いているとはかぎらない。それは十一年の帳面が教えてくれたことだ。
この家は、理由のない数を書かない家だった。二割の水増しにも、理由の形だけはあった。急ぎ賃には指図の日が付いていた。三十六にすら、口上が添えてあった。
二十四には、何が添えてあったのだろう。
二十四の下に、何も書かなかった。
書く材料が、手元にない。教育費の巻は監査院にある。奥向きの綴りは棚にある。どの紙に何が立っているか、ミラは知っている。知っていて、開かなかった。
今夜は、開かない。
開くなら、控えを写す手ではなく、調べる手で開くことになる。その手は、まだ誰のものでもない。
ミラは頁を閉じた。二十四だけが、日付の下に残った。
三十日目の朝は晴れた。
荷馬車が門を入って、綴りが積まれた。麻布でくるんで監査院の封をして、レオが手ずから縄を確かめた。
名の四つと、日の一つ。五つの行が、王都へ発つ。
「九日、待ちました」
「九日ぶん、綴りは厚くなりました」レオは言った。「待った日数は、無駄になっていません」
車輪が回って鎖が鳴って、門が閉じた。
「監査は、これで」
「山は越えました」レオは言った。「読む人の返しを待つあいだ、こちらは残りを片づけます」
「残り」
「読み残した紙と、訊き残したこと」
どの紙のことか、ミラは訊かなかった。訊けば、答えが返ってくる。返ってきたものは、置けない。
読む人は、四日先にいる。
帳場へ戻ると、卓の上に書きつけがあった。
ゆうべの頁の、二十四が透けて見える気がした。紙は閉じてある。透けるはずがない。
見える気がするのは、書いた者だけだ。
セリーヌの問いは、あの人のための問いだった。
そのはずだった。
わたしは、誰の娘なの。
問いは形を変えずに、向きだけを変えて、卓の隅からこちらを見ている。




