第29話: 手ぶらの使い
十四日目。手紙の十日目の朝の控えは、いつもより一枚多かった。
人件の側だ。婚礼の支度に人を使えば、その手当がここへ立つ。花を運ぶ者、席を並べる者、馬を引く者。この十日で見慣れた並びだった。
いちばん下に、見慣れないものが二行ある。
使いの手当。二人ぶん。
ミラは日付を見た。きのうの朝だ。
行き先は書いていない。人件に立つのは、誰に払ったかだけだ。どこへやったかは、書く欄がない。
ただ、額が違う。
上が低く、下が高い。同じ日に出した二人で、手当が違う。
ミラは十日ぶんの使いの手当を繰った。立っているのは三通りだけだ。いちばん低いのが、日のうちに帰った先。その次が、一晩泊まった先。その上は、泊まった数だけ増えている。
この家の日当は、泊まりの数で決まる。着いた晩までを往きに数えて、その分は出る朝に渡す。泊まりのあるときは、帰りの分を戻った日に別に立てる。道で使う金だからだ。
ミラは低いほうを指で押さえた。泊まりなし。日のうちに帰る先だ。
高いほうは、四泊ぶんある。往きだけで四泊かかる先だ。
「二人出ています」レオが帳場へ来たとき、ミラはそう言った。
「同じ日に」
「きのうの朝です」
レオが控えの端をつまんで、自分のほうへ向けた。
「行き先は」
「書きません。人件は、誰に払ったかの帳面です」
「では、わかりませんか」
「額でわかります」ミラは二つの行を並べて見せた。「下の行が四泊ぶん、上の行が泊まりなしです」
「近いところと、遠いところ」
「はい」
「四泊のほうは」
「王都です」ミラは言った。「往きに四日。この家から四日かかる先は、ほかにありません」
「宿場町では」
「ありません」ミラは言った。「宿場町なら二泊ぶんです。九日目の荷取りが、その額で立っています」
レオは頷いた。
「近いほうは」
「日のうちに帰れる先です。宿場町は入りません」
残るものを、ミラは指で数えた。粉屋。麓の村。教区。それと、隣の谷の家。
この十日で、どれにも使いを出した。
もう一つ、無いものがあった。
進物の行だ。
ミラは十日ぶんを繰り直した。指の腹で行を送り、進物、の二文字を拾う。菓子。蝋燭。季節の品。
どれも、よその家へ出した使いに付いている。粉屋へは付かない。買いに行くのは用であって、家へ行くのではないからだ。
きのうの二行の下には、何も付いていない。
「持たせていません」
「二人とも」
「二人ともです」
「持たせないなら、運ぶものは物ではありません」
「この十日で、家へ出した使いに手ぶらはいません」
「口上ですか」
「口上なら、進物が付きます。あれは挨拶ですから」
レオが窓のほうへ半歩動いた。
「付かないのは」
「行った先が、家ではないときです」
ミラは指で残りを潰した。粉屋は今月ぶんが済んでいる。麓の村も、隣の谷の家も、家だ。行けば進物が付く。
日のうちに帰れて、家ではない先。
「教区です」
「王都のほうも」
「同じです。家ではありません」
言ってから、先へ歩いたと気づく。紙に立っているのは名と額と日付だけだ。あとは全部、こちらが足している。
「見当です」ミラは言い直した。
「見当は、どこまで」
「家ではない先へ、二人。そこまでです」
教区へ人をやって、証しは出ていない。
ミラは書きつけの一枚目を開いた。
求めの日。その下の欄は、三日たっても白い。
半日の道だ。求めを立てられるのは、家長か、家長に言いつかった者だ。二行の名は、どちらも使いの名だった。
言いつけたのなら、立てられる。
「取りにやったのではありませんね」
「ちがいます」ミラは言った。「言いつけて取りにやったのなら、下の欄が埋まるはずです。埋まっていません」
レオの指が桟の上で止まった。
「では、何をやりましたか」
「言葉です」
証しを出すのは司祭の役目だ。求めがなければ、出しようがない。
求めのない先へ、手ぶらの使いをやる。
この家は二十年、収穫のあとに教区へ志を出している。十一年前に二十四から十二へ落として、それきり動かしていない。
落とした側が、求めも立てずに人だけをやる。
持っていくものが物でも紙でもないなら、残るのは一つだ。
縁組の科目を開いたのは、そのあとだった。
いつもの並びに、一行増えている。
持参金。
額が変わっていた。前より大きい。
ミラは前の縁組の書式と突き合わせた。
書き方は正しい。額の出だしも、署名の下の余白も、違わない。この家の書式は先の家令の代からのもので、写す者が変わっても形は変わらない。
わたしの字ではない。母屋で書いて、下ろしてきた行だ。
崩れていないのに、置かれている場所がおかしかった。
出納の側に、動いた銭が一リーヴルもない。
「額を上げています」ミラは言った。
「いつ」
「きのうです。使いの日と同じ日付です」
レオが椅子を引いた。腰は下ろさない。
「出納は」
「動いていません」
「一リーヴルも」
「一リーヴルもです」
この婚礼の出納には、官の裏書きが要る。当主はそれを知っている。半月ちかく、知りつづけている。
だから、動かさなかった。
「約束は、出納ではありません」ミラは言った。「払うと書いただけの数です。それだけなら、裏書きは要りません」
「止められますか」
「出るものは止まります」レオは言った。「負うものを止める書式が、こちらにありません」
いくらまでなら通る、と当主はあの日に訊いた。答えは、通します、だった。ただし署名の下に署名が並ぶ。
動かせば、並ぶ。書くだけなら、並ばない。
レオはしばらく黙っていた。
「先に言ったのは、どちらです」レオが言った。「こちらの申し出ですか。先方の言い値ですか」
「言い値なら、書式が違います」ミラは書式を開き直した。「先方が額を言ってきたのなら、その紙が下りてきます。進物と席に掛かるものは帳場まで回りますから、額の掛かるものも回ります」
「回っていない」
「回っていません。こちらから、書いています」
レオは頷いた。
「払えますか」
「払えません」
「では、なぜ書くのです」
ミラは書式を閉じた。
「わかりません」
わからない、と言ってから、わからないことの形だけは見えていると思った。
払える額を約束するのが買収なら、払えない額を約束するのは、それではない。
「受ければ、あちらは払えない家に縛られます」ミラは言った。「断れば、額を見て断ったことになります」
「どちらに転んでも」
「あちらの分が悪くなります」
「受けたうえで、取り立てたら」
「取り立てれば、取り立てたことが残ります」ミラは言った。「式のあとで嫁の家から取るのは、家格の話になります。あちらが欲しいのは、家格のほうです」
これは買うのではない。置いていくのだ。
「これは、どうやって先方へ渡りますか」レオが言った。
「使いが出ます」
「きのうの二人は」
「どちらも先方ではありません」ミラは言った。「先方は家です。家へやれば、進物が付きます」
付いていない。先方へは、まだ出ていない。
レオは窓の桟に指を置いた。それから、置いたまま動かさなかった。
「先方が求めているのは、証しです」
「出していません」
「かわりに、額を上げた」
「はい」
「訊かれたことに、訊かれていないもので答えています」ミラは言った。
「それは」
「帳場では、答えられないという意味です」
「答えられない問いです」ミラは言った。
「そう読みますか」
「金で足りるなら、金で足ります。足りないから、金を出しています」
言ってから、順を間違えたと思った。
「金は出ていません。出すと書いただけです」
「同じことでは」
「違います」ミラは言った。「出せる人は、出します。出せない人が、書きます」
昼前に、ジェルヴェが帳場へ来た。
今日は控えを取りに来たのではなかった。手ぶらで、戸口の内側に立っている。
持たせていない、とミラは思った。今朝、二行の下で数えたのと同じことだ。
この人も、挨拶に来たのではない。
「巻は、お手元でございますか」
おとといと同じ形の問いに見えた。
同じではない。おとといは、着きましたか、だった。今日は、お手元ですか、だ。
着いたかを訊くのは、届いたかを知りたいときだ。手元かを訊くのは、まだそこにあるかを知りたいときだった。
「あります」ミラは言った。
「さようでございますか」
二度目だ。
十一年、一度も訊かなかった人が、三日のうちに二度、同じことを訊いている。
訊いてどうなるのかを、ミラは考えた。
おととい訊かれて、きのうの朝に使いが二人出ている。
訊いて、その晩に報せて、翌日に動いた。そう読める。
ほかの順でも足りる。きのう動くと決めていた人が、ついでに訊かせただけでも。
「ジェルヴェさん」
「はい」
「おととい、お答えしました」
「うかがいました」
「今日も、同じです」
ジェルヴェは戸口の内側から動かない。
「明日も、同じでございますか」
訊き方が変わった。ミラは筆を置いた。
「同じです」
「では、明日はうかがいません」
控えは取りに来る。訊きには来ない、という切り方だった。
二度で足りたのかもしれない。報せる先が答えを受け取ったのかもしれない。
ジェルヴェは戸口の内側から動かずに一礼して、下がっていった。板は鳴らなかった。この人は、いつも鳴らない場所を歩く。
「訊けと言われていますね」レオが言った。
「わかりません」ミラは言った。「そう読めるだけです。この人が自分で気になったのでも、こちらからは同じに見えます」
「あなたは、いま同じ答えをした」
「同じ答えをしました」
巻がここにあることは、隠せることではない。荷馬車は門から入って、封は帳場で切られた。隠せないものを隠そうとすると、隠したという行が立つ。
立たせないほうがいい。
「もう一つ、言えます」ミラは言った。「今日また使いが出れば、次はどこへ行ったかも、額でわかります」
訊けば済むことだ、と一度だけ思った。
母屋へ上がって、どこへ何をやりましたか、と訊けばいい。答えないだろうが、答えないことも一つの答えになる。
できない。
ミラは写字者としてここにいる。座る理由は監査の側にあって、家の側にはない。家の主に問いを立てる立場を、この十一年で一度も持ったことがない。持っていたときも、持っていなかった。
訊けるのは、紙にだけだ。
「訊きにいけますか」レオが言った。
「いいえ」
「わたしなら、訊けます」
「訊いた日が残ります」ミラは言った。「残る前に、こちらで読めるだけ読みます」
王都へ、四泊の使いを手ぶらでやる。
運ぶものが物でないなら、書いたものだ。
王都へ出す紙で、この家がいま出せるものを、ミラは数えた。
金の要るものは出せない。裏書きで止まる。
金の要らないもので、王都に宛先があるもの。
一つしかない。
「監査院へ、何か出せますか」ミラは訊いた。
レオが窓のほうへ顔を向けた。
「出せます」
「金の要らないもので」
「願いなら、金は要りません」
「どんな願いが立ちますか」
「調べの区切りを、早めてほしい」レオは言った。「被監査の側から出せる願いは、それです」
ミラは筆を置いた。
手を止めてから、自分が止めたことに気づいた。
閉じる日は動かせない、と三日前に自分で読んだ。
「閉じる日は、動きますか」
「願いだけでは動きません」レオは言った。「ただ、願いが出れば、日を決める人がそれを見ます」
「見て」
「早いほうに寄ることは、あります」
「寄る理由がありますか」
「あります」レオは言った。「調べが長びけば、家は身代を減らします。細ったぶんは、王の取り分からも引かれます」
「早く閉じたほうが、取れる」
「そう読む人が、あの建物には何人かいます」
その何人かの顔を、ミラは知らない。見えない手が日を削る。
きのうの朝に出た紙が、四日で王都へ着く。読まれるのは、その次の日だ。
ミラは日を数えた。すぐに終わる勘定だった。
「閉じた綴りは動かせない、とおっしゃいました」
「言いました」
「開いているうちに入れたものだけが、あとで効く」
「そうです」
四つの行は、まだ書きつけの上にある。清書は済ませた。綴りへは入れていない。
入れるには、書式が要る。書式に立てるなら、食い違う二枚が要る。出どころの違う二枚だ。
「四つ目です」ミラは言った。「王都の六年に、お嬢さまがない」
「ありませんね」
「無いことを、書式のどこへ立てますか」
レオは黙っていた。すぐには返らない問いだ。
四つ目は、紙が一枚しかない。王都の六年だけだ。
一枚は、何とも食い違えない。
「立て方はありますか」ミラは訊いた。
「あります」レオは言った。「引いた紙の側で立てます。王都の六年の家政、と宛を書いて、その丁に何が載っていたかを書く」
「載っていたものを書けば」
「載っていなかったものは、読む人が自分で見ます」
ミラは首を振った。
「読む人が見るなら、それは、こちらが立てた行ではありません」
レオは黙った。
行を立てるというのは、こちらが数を出すということだ。出せない数を、読む人の目で埋めてもらうのは、この十一年で一度もしなかったことだった。
夕方までに、ミラは書式を三つ書いた。
四日ずれた名。連ならなかった名。家の名の抜けた名。
どれも二枚ある。並べれば、どこが食い違うかを人の名で引ける。
四つ目の書式は、下書きのままにした。
清書の紙の下に、まだ足りないもの、とある。きのうの字だ。
消さなかった。
灯を入れる前に、控えをもう一度見た。
今日の分に、使いの手当は立っていない。
日当は出す日に渡す。渡した日に立つ。ただし帳場へ上がるのは、翌る朝だ。
今日の欄が白いのは、まだ上がっていないからでもある。
きのうは、明日の欄に何も引かなかった。
今日は引く。書きつけのほうに、使い、と一語だけ。
控えは渡した銭が立つ帳面だ。明日のことは、まだどちらでもない。
空けた欄は、埋まるときに埋まる。
埋まらないものが一つだけある。
「閉じる日が早まったら」ミラは訊いた。
「三つは入ります」レオは言った。「今日書いたぶんです」
「四つ目は」
「立っていなければ、入りません」
「入らなかったものは」
「読んだ人が覚えているだけになります」
八日かけて取り寄せた六年が、二人の頭のなかに残るだけになる。
覚えていることは、紙ではない。
ミラは四つ目の下書きを、書式の束の下ではなく、上に置き直した。




