第30話: 返した日
収穫のあとの志は、年に一度しか動かない。秋に決めて、次の秋まで置く。
額が最後に動いたのは十一年前だ。二十四から十二へ落ちて、それきりだ。
十五日目の朝、ミラはその綴りを開いていた。手紙を出して十一日目になる。
坂を上ってくる蹄の音がした。
一頭きりで、荷は曳いていない。窓へは寄らない。誰が来たかは、下で誰が出るかで分かる。
出たのはジェルヴェではなく、厩の者だった。
廊下を来る足音が二つ。戸口に立ったのは、黒い上着の若い男だった。
「聖アニエスのアンセルムです」
ミラは立った。
三年前に来た司祭だ。先だって原簿を一葉だけ見せて、それきり閉じた人が、半日の道を自分で来た。
「母屋へ、お通ししませんでしたか」
「わたしが、こちらでと申し上げました」
アンセルムは麻の包みを、載せるようにして持っていた。
「返しにまいりました」
ミラは手を出さずにいた。受け取ってしまえば、受け取ったことになる。
「お返しになるのは、どちらのものです」
「お家のものでございます」
「なら、母屋です」
「寄進の受け渡しは、帳場の控えに立ちます」アンセルムは言った。「受け取らないことも、そのうちで」
ミラは卓の端を空けた。包みが置かれた。
結び目は、解いてまた掛け直しただけだ。中を見せる用意がある。
開くと、二枚だった。
一枚目は寄進の申し出だ。表題と、額と、下に署名がある。
額のところで、ミラの指が止まった。
三十六。十二の三倍だ。落とす前の二十四より、なお上にある。
どの年のぶんか、書いていない。
「お受けになりませんでしたか」
「受けられません」
「額が大きすぎますか」
「額ではございません」アンセルムは言った。「途中で足したものは、どの年のものか分かりません」
ミラは綴りを、卓の上で回した。
「同じことが、こちらにも書いてあります」
「では、お分かりでございましょう」
「動かした年が途中にないので、動かせば見えます」
「使いの方にも申しました」アンセルムは言った。「聞いて、帰られました」
この家の帳場が、二十年その形を守ってきた。
銭は一リーヴルも出ていない。出ていないものに、裏書きは要らない。
ミラは日付を見た。
きのうではない。おとといだ。十三日目の日付が、署名の上にある。
使いの手当が控えに上がったのは十四日目の朝、払いの日付はおとといの朝だ。
紙は、人の出る朝までに書かれている。順は合っている。
順は合っていて、読みが外れていた。
行った先が家ではないから進物が付かない。そこまではいい。
そのあとを、言葉です、と言った。紙だった。手ぶらに見えたのは、進物が付かなかったからだ。
ミラは筆の先を、紙から離したままにした。
「持ってきたのは、使いですね」
「おとといの昼でございます」
「手ぶらでしたか」
「手には、何も」
懐、とは言わなかった。訊いていないからだ。
ミラの筆は動かない。答えは、卓の上にある。
二枚目を引いた。
表題がなく、当家の由緒、と読める字から文が続いている。
教区へ礼を尽くす筋の文だ。先代からの縁、堂の屋根を葺いた年、施しの冬。額を上げる口上だ。
三行目の途中に、六年、とあった。
当家が王都に居を借りておりました六年のあいだ、奥方さま御息女ともにかしこにおいでで、当家は収穫のあとの志を一年も欠かしておりません。
ミラは、その一行をもう一度読んだ。
六年、と書いてある。居を借りておりました、とも。
王都の六年は、家政の巻に立っていた。仕立てと、冬の炭と、灯りの油。三行きりだ。
借り賃の行はない。三日前に開いたままにした。どちらとも決めなかった。
この紙は、借りていた、と書いた。置かせてもらっていた、という枝を、向こうが閉じた。
名の欄には、六年とも奥さまだけが立っていた。人件では、女中がひとり。
返された紙は、二人いたと言っている。
四つ目には、突き合わせる相手がなかった。いま、相手のほうから来た。
書きつけの一枚目には、求めの日の下が四日白いままだ。
白さが証すのは、そこまでだ。運んだものまでは証さない。
この家は、帳面に立てずに紙を出した。
ミラは扉の外へ声をかけた。
「レオさまは」
「昼までにお戻りです」
階の下から、厩の者の声が返った。
返された紙は母屋へ行く。控えが立つまでが、ここにある時間だ。
レオが戻ったのは昼近くだった。戸口で司祭を見て足を止め、卓の二枚を見た。
「きのう申し上げたことが、外れています」ミラは言った。
「どれです」
「運んだのは言葉です、と申しました」
「言いましたね」
「紙でした」
「進物の話は」
「合っています。日当も」
外套を着たまま、卓の脇に立った。
「では、どこで外れました」
「無いものを、無いままで置かずに中身を言いました」ミラは言った。「手は見えます。懐は見えません」
レオは慰めない人だ。
「触れてよろしいですか」
「教区のものではありません」アンセルムが言った。「お返しに上がっただけです」
レオは懐から手袋を出した。
二つ折りのまま、四日そこにあったものだ。折り目に皺が寄っている。
はめてから、紙の端を持ち上げた。
「触れた者を書きます」レオは言った。「日と、誰が」
「なぜです」
「あとで足したと言われないため」
「朝からのぶんも」ミラは言った。「開いたのも引いたのも、わたしです」
「そのあいだは」
「アンセルムさまが、戸口に」
レオが司祭のほうを見た。頷きもしないし、否みもしない。見ていたことは、書けば残る。
アンセルムは戸口の内側にいる。
「同じことを、わたしどもも申します」
「存じています」
「あとから同じ行に足せば、いつ書いたか分かりません」
レオは二枚目を読んだ。
読み終わっても、目は紙の上にある。
「六年、とあります。どの六年です」
その一行に、年はない。
「王都に居を借りていた六年です」
「上は」
「十七年より前になりません」ミラは言った。「御息女がおいでの年。家が言っている年です」
「下は」
「奥さまが十二年前、この家でジェルヴェさんへ引き継いでいます」
「引き継ぎは、出ていく人の形です」
ミラは口を閉じた。帳面を新しい家令へ渡すのは、家を空ける人がやることでもある。
「その札は、使いません」
「では、下は決まりません」
「決めません」ミラは言った。「重なるかどうかだけ、数えます」
ミラは六年の幅を端から当てた。始まりが十二年前までなら、どこからでも巻の年に重なる。
「重なった年には、家の方の分が立ちます。お嬢さまの分があれば、お嬢さまで立ちます」
「立っていない」
「王都の三行は、六年とも奥さまです」
レオが顔を上げた。
「重ならない六年もあります」
「あります」ミラは言った。「十一年前から先が始まりなら、巻の外です」
「そちらは」
「わたしが見ていた年です」ミラは筆を置いた。「覚えは、証しになりません」
「では、そこは」
「紙があります」ミラは言った。「奥向きの綴りは二十年途切れていません。居の入り用は、そこに載ります」
「王都の分は、巻に立つ形では」
「弟君の入り用は、巻にも綴りにも立っています。家の方の分は、両方に」
「立っていますか」
「立っていません」
レオは指を離した。
「反対から。一本目。由緒は口上です。いたいないの精度はありません」
年を挙げるのは、この文の癖だ。堂の屋根も、施しの冬も、年で書いてある。
「いたと書いてあるのは、この一行だけです」レオは続けた。
「二本目。書いたのは家令かも。署名は一枚目にあります」
「一つの包みで届いたのですね」ミラはアンセルムのほうを見た。
「一つでございます」アンセルムが言った。
「同じ包みは、同じ人の言い分です」ミラは言った。「手は、あとです」
レオは手袋の指をそろえた。
「三本目。十七年前の当主は、先代です」
「先代です」
「では、この紙に署名した人は」
「当主です」ミラは言った。「十一年写した字です。見分けます」
「その当主は、十七年前は」
「弟君でした」
そろえた指を、ほどいた。
「先代の代のことを、いまの当主が書いている」
「家の来歴は、いまの当主が書くものです」ミラは言った。「その代にいたかは要らない。要るのは、この家の紙かです」
「出した紙です」
「この家の紙どうしが食い違います」
「四本目。返された紙は、渡っていないことになりませんか」
ミラは司祭へ向き直った。
「受入れには立ちません」アンセルムは言った。「返した日が立ちます」
「返した日は、どちらに」
「両方でございます」
こちらの控えと、教区の帳。片方を書き替えても、もう片方が同じ日を持っている。
「渡って、戻った紙です」ミラは言った。「日が、二つの帳にあります」
レオは黙って、手袋のなかで指を組んだ。
「五本目。写しの重さ。原本は母屋へ行き、焼かれれば写しだけです」
「令状は」
「財の記録には届きます」レオは言った。「約束は出納ではありません。動かない紙を押さえる書式が、ない」
「立ちませんか」
「写した人で、重さが変わります」
ミラは自分の指を見た。この家の紙を十一年写してきた手だ。
「監査官の面前で写せば」
「立ちます」
レオは卓の向かいへ座った。
「写してください。立ち会いは、見ているだけです」
新しい紙を出した。
一枚目から写した。表題。額。日付。署名の位置。
三十六、と書くとき、指に力が入った。太った字は、読む人に何かを伝える。書き直せば、跡が残る。
二枚目に移った。
由緒は長い。全部写した。三行だけ抜けば、抜いたことが疑われる。
写しながら、手が二度止まった。
一度は、六年、の字で。
もう一度は、御息女、の字で。
御息女の三字を、帳場の紙で見たのは初めてだった。
よそへ出す文の言い方だ。帳場の紙は、お嬢さま、と書く。
写し終えて、ミラは日付を入れた。
「めいめいの手で」レオが言った。「一つの手で三人ぶんを書けば、こちらが直したのと同じ形です」
レオが手袋を外して、懐へ入れた。二つ折りにはしなかった。
レオが名を書き、ミラが名を書いた。筆はアンセルムの前で止まった。
「見ておりましたことだけを」
そう書いて、自分の名を足した。
筆が三つの手を渡った。三つの名は、大きさがそろわない。そろわないままが、証しになる。
「四つ目は、立ちますか」
「出どころの違う二枚が要ります」
「どちらもこの家の紙です。片方は十二年前に閉じ、いま官の封の下です。合わせて作れません」
「立つ」
立つ、と、通る、は別だ。レオは、立つ、で止めた。
レオは写しの端を、こちらへ押し戻した。
アンセルムは、まだ戸口の内側にいた。
「一つだけ、伺います」
「どうぞ」
「なぜ、帳場へ持ってこられました」
「受け渡しの控えが、こちらに立ちます」
「それは伺いました。証しの求めは、そちらに立っておりますか」
「立っておりません」
白い欄が、二枚目を得た。
日が高くなっていた。アンセルムは、少し黙った。
「巻にあるかぎり、と申し上げたことがございます」
「伺いました」
「巻にないものの話は、いたしません」アンセルムは言った。「あるものを、あるところへ持ってまいります」
それだけだった。
説明にはなっていない。返す先が母屋なのは承知だ。承知のうえで帳場を選んだ。
理由を言わない人だ。ミラは、その分だけ深く礼をした。
アンセルムは戸口で一礼して、廊下へ出た。
板が鳴った。遠ざかるのを聞いた。
昼を過ぎて、ミラは四つの行をそろえた。
一つ目、九年前の氏の届けと家の控えの四日。二つ目、連名の八年にこの家はお嬢さまを家の者として届けていない。三つ目、教区の十七年前の丁の名の欄が短い。
三つは、きのう書式にした。二枚あることも数えてある。
レオの目が、四つ目で止まった。
「四つ目」
「王都の六年に、名の欄のお嬢さまがありません」ミラは言った。「御息女ともに王都に、と同じ包みの紙にあります」
レオは書式の束へ手をかけて、そのまま止めた。
「六本目。名の欄が空なのは、いなかったからでも、数えなかったからでも、同じ形です」
同じ形だ。空いた欄は、どちらの理由でも空く。
「ですから、いた、いない、では立てません」ミラは由緒を指した。「この紙は御息女と書き、巻の王都には立っていない」
食い違うのは、そこだ。
「二枚ですね」
「二枚です」
「借り賃の行も立っていません」レオが言った。「五つ目ですか」
「なりません」ミラは言った。「立てれば、この巻は王都を写していないことになります。お嬢さまの分も」
「二つは並べられない」
「片方だけです。名の欄のほうを立てます」
「向こうが立てたら」
「四つ目が落ちます」ミラは言った。「一つ目から三つ目は残ります」
三日前に開いたままにした行へ、いま初めて、向こうの手が触れている。
きのうは、決められないものの中身を言った。今日は、決められるほうを書く。
四つとも、二枚ある。同じことを言っている組が、一つもない。
書式の束を綴りへ入れるとき、ミラは手を止めた。写しも、同じ束へ入れる。
入れれば、動かせない。こちらもだ。
「三つ目までは、この家の紙と教区の紙です」
「四つ目は」
「当主の言い分です」
レオは、そこで一度だけこちらを見た。
「書かなければ」
「今日も、相手のないままです」
夕方、ジェルヴェが控えを取りに来た。
何も訊かなかった。きのう、明日はうかがいませんと言った人だ。訊きに来たのではないという形を、自分で守る。
ミラは控えを手もとへ寄せた。
いちばん下に、一行ある。
寄進の申し出、返し。日付。教区名。
寄進には受け渡しの欄がある。渡らなかった受け渡しも、額を空けたまま立つ。
ミラはその行の上へ指を置いて、そのまま隣へ移した。
返された二枚も、控えの下へ重ねた。
控えと二枚を受け取って、ジェルヴェは目だけを一度下へ落とした。それきりだった。
「お預かりいたします」
「お願いします」
今夜、母屋はこの一行を読む。読んでも、返した日は動かない。
暗くなってから、レオが戻ってきた。
「王都へ出した紙は、あした着きます」
「読まれるのは、その次の日ですね」
「そうです」
閉じる日を早めてほしい、という願いだった。出したのは、この家の側だ。
早く閉じても、四つは入る。もう入っている。
願いを出した日には、四つ目の当てがなかった。
ミラは綴りの背へ指をかけた。まだ閉じていない。




