第28話: 一人ぶん
門のほうで、鎖の音がした。
荷馬車だ。手紙を出して八日目、日取りが動いてから十二日目の朝だった。
帳場の卓に、麻布でくるんだ束が置かれる。ジェルヴェは紐に手をかけずに、封のところだけ検めた。
「監査院の封でございます」
「はい」
「わたくしの役目は、ここまでで」
封を切るのはこちらではない、という言い方だった。棚のことを言うときと同じ切り方をする。ミラは礼を言って、廊下へ出ていくまで待った。
封は、昼前に戻ったレオが切った。
麻布の下から、厚い一つと、薄い包みが出た。
厚いほうが家政の巻だ。薄いほうは巻ではなく、宿場町で分けたという報せだった。人件は明日の朝に上がります、と書いてある。
ミラは報せを卓の端へ置いて、厚いほうを引き寄せた。
背は硬い。糸が二本、切れかけている。紙は焼けて、縁が茶色くなっていた。開くと、埃ではない匂いがした。閉じたまま年を越した紙の匂いだ。
十七年前から、十二年前まで。六年ぶんが一つに綴じてある。
監査院の書庫で、この綴じ方を見たことがある。あのときは別の巻だった。
最初の丁を繰った。
買ったものが並んでいる。薪。蝋燭。塩。麦。屋根の葺き替え。馬の沓。どれもこの家で使われたものだ。
探しているのは、それではない。
この綴りは、家の方の入り用も引き受けている。
十七年前の頁に、それは載っていた。先代の弟君の入り用だ。仕立てと、冬の炭。家の炭とは別に、一行を割いてある。
誰の分か、書いてある。
支度の行は何を買ったかだけを書くが、産の行は誰のためかを書く。二十年、どの年も。科目ごとに割った巻も同じはずだ、とミラは前に自分へ言った。
同じだった。
「何を先に見ますか」レオが訊いた。
「外へ出た分です」ミラは言った。「お嬢さまが王都においでだったのなら、そのぶんがこの紙に立ちます」
「六日前に、わたしが言ったことです」
「外にいた者の払いは、外に立つ」
「そのとおりに立っていたら」
「家の言い分が、一つ通ります」
ミラは最初の年の秋まで指を戻した。焼けた紙は音が高い。
あった。
王都、とある。
その下に三行。
仕立て。冬の炭。灯りの油。
額は小さくない。仕立てだけで年に十リーヴルを超えている。この家がよそへ払うときの厚みだ。
次の年にも同じ三行がある。その次にも。指は六年目まで止まらなかった。
六年、切れずに続いていた。
ミラは息を吐いた。
「立ちます」
レオが卓のこちら側へ来た。
「立ちますか」
「立ちます。王都においでだった、は否定できません」
否定できない、で終わるなら、八日待った意味がない。
ミラは最初の年へ戻した。今度は名の欄を見る。
三行の左に、欄がある。弟君の炭に弟君と振ってあるのと、同じ位置に、同じ大きさで。
「王都へ預けられたのなら、お嬢さまで立ちます」
「立っていますか」
「いいえ」
レオが頁を覗きこんだ。触れずに、上から。
「では、誰です」
「奥さまです」ミラは言った。「六年、この欄はそれだけです」
言ってしまってから、自分の声の低さに気づいた。
紙は何も言っていない。載っていないことを、載っていないと読んだだけだ。
けれど、そう読める形にしたのはこの家だ。誰の分か書く、と決めたのはこの家の帳場で、十七年前の弟君にはそのとおりにした。
同じ紙が、同じ年に、片方だけを落とすことはしない。
「反対から言ってみます」レオが言った。
「どうぞ」
「幼い子の入り用は小さい。奥さまの行へ混ぜて書いた」
「この家は、混ぜません」ミラは言った。「奥向きの綴りに、庭番の子が双子だった年があります。産着も乳持ちも二人ぶん立って、行が二つに割れています。同じ屋根の下の二人で、それです」
「二つ目です。子の仕立ては、そもそも安い」
「この家では安くありません」ミラは言った。「使用人の子で、産着が一リーヴルと四ソルです。家の方なら、その上に付きます。生まれた年で、それです。育てば布は増えます」
「三つ目。家政は物の帳面です。名の欄があるのは、産のほうではありませんか」
「家の方の入り用だけは、宛が立ちます」ミラは弟君の行を指した。「これが物の行なら、誰の分かを書く要りはありません。書いてあります」
「四つ目」レオは指を一本立てた。「書いたのがここでも、数は王都から上がってきます。向こうが一つにまとめて寄越したなら、こちらの手はそのとおりに写すだけです」
ミラは口を閉じた。
これは、字では塞げない。
「五つ目」レオが言った。「奥さまは十二年前、ここでジェルヴェへ引き継いでいます。あなたが直に聞いた話です」
「聞きました」
「では、この欄は、どこにいたかを書いていない」
「書いていません」ミラは言った。「誰の分か、を書いています」
「同じことでは」
「違います」ミラは頁を戻した。「どこにいたかの欄なら、この六年は使えません。誰の分かの欄なら、使えます」
「どこにいても」
「どこにいても、です。王都で仕立てた分が奥さまの分なら、奥さまで立ちます。お嬢さまの分があったなら、お嬢さまで立ちます」
「明日まで、待たせてください」
「明日」
「人件です」ミラは言った。「まとめて寄越す家には、こちらが直に払う先がありません。直に払っていたなら、名が要ります」
レオは頷いて、それから窓のほうを見た。
「もう一つあります。この三行には、宿の代がない」
ミラは指を止めた。
六年、仕立てと炭と油だけだ。住むところの代も、食べるものの代も、この紙には出てこない。
それを言えば、この巻は王都の暮らしを写していないことになる。写していない巻なら、子の分が無いことも言えなくなる。
「借り賃の行がありません」ミラは言った。「借りていたなら、立ちます。置かせてもらっていたなら、立ちません」
「置かせた家があるなら」
「その家に志が立つはずです」ミラは言った。「ただ、この家が名指しで配りはじめるのは、もっとあとです。この六年には、物差しがありません」
「では、そこは」
「開いたままです」
言ってしまうと、思ったより軽かった。塞げないところを塞げないと言うのは、塞ぐより早い。
「食は」
「炭と油が家に付くのと同じで、月ぎめのものは人件のほうへ括られます。それも、明日わかります」
昼を過ぎて、ミラは書きつけを開いた。
三つ並んでいる。
公文書。九年前の氏の届け。家の控えのほうが四日早い。
帳簿。連名の八年。その八年に、この家はお嬢さまを家の者として届けていない。
教区。十七年前の丁。名の欄が短い。
三つとも、この家の紙か、教区の紙だ。どちらも、この家の手の届くところにある。
四つ目を、今日はじめて書いた。
外の巻。王都の六年。名の欄に、お嬢さまがない。
「四つ目は」レオが訊いた。
「取り上げられません」ミラは言った。「もう監査院にあるものです」
最後の丁で、ミラは指を止めた。
十二年前。字が変わっている。先の家令の手ではなく、そのあと二年だけ入った、誰のものとも知れない手だ。
この巻は、そこで終わっている。
ミラは頁を戻して、その丁を閉じた。今日はそこではない。
夕方、ジェルヴェが今日の控えをまとめに来た。
ミラは差し出してから、一行だけ指で押さえた。
「これは、いつ入りましたか」
「今朝でございます」
急ぎ賃が、もう一行増えている。前のものの下に、日付だけが新しい。額は前より小さい。
「日取りが、また動きましたか」
「支度の順は、変わっておりません」
順は訊いていない。ミラはそれ以上訊かなかった。訊けば、訊いたことが残る。
ジェルヴェは控えを揃えて、袖の縁で手をそろえた。
「巻は、無事に着きましたか」
「着きました」
「さようでございますか」
廊下へ出る前に、この人は一度だけ卓のほうを見た。棚を見るときの目の動かし方だった。
開いてよい棚と、開いてはならない棚。
十一年、この人は帳場に何が来たかを訊いたことがない。訊いたのは、訊けと言われたからか、自分で気になったからか。
ミラは書きつけの端に、訊かれた、とだけ書いた。どちらかは書かなかった。
十三日目。手紙の九日目。
人件の巻は、朝のうちに上がってきた。
家政が何を買ったかなら、人件は誰に払ったかだ。
ミラは先に十六年前を引いた。
乳持ちの手当の下に、受け取り手の名が並んでいる。頼み落として、追いかける紙を出した名だ。
ミラはそれを書きつけへ移した。読まずに、写しただけだ。
「その名は」
「あとにします」ミラは言った。「今日は、六年です」
王都の六年を引いた。
払われている。年に二回、決まった月に。
受け取り手は一人。女中が一人、王都で雇われている。
直に雇って、直に払っている。まとめて寄越した紙ではない。
「きのうの四つ目が落ちました」ミラは言った。
「落ちましたか」
「向こうがまとめて寄越したのなら、この欄は空になります。空ではありません」
食の行も、その女中の手当に括られていた。きのう言ったとおりの形だ。
「子がいれば、人が増えます」ミラは言った。
レオは卓の向こうへ来ていた。今日は外套を脱いでいる。
「増えますか」
「この家の紙が、そう教えています。厨房頭の子にも、門番の子にも、乳持ちの手当が三月ぶん立ちます。三月で切れますが、切れるまでは紙に残ります」
「王都の六年には」
「ありません。夜に起きる者も、手のあく者も」
ミラは指で年を追った。同じ月に、同じ額が、六度。
「では、子はいないと」
「そこまでは言えません」ミラは筆を止めた。「外で雇えば、この紙には出ません」
「では、何が言えますか」
「この家が王都へ出した人手は、六年、女中ひとりぶんだということです」
「きのうの続きです」レオが言った。
「王都の紙は、六年、切れていません」
「ただ」
「一人ぶんです」
レオが、四つを書いた一枚だけを引き寄せた。
「家政も、人件も」
「どちらも一人ぶんです。買ったものも、払った先も。そして、その一人はお嬢さまではありません」
「では、お嬢さまはどこに」
「この紙には、いません」
言ってから、ミラは自分の言葉を数え直した。いない、は強すぎる。
「この紙は、いた、と言っていません」
レオは書きつけを卓へ戻した。
「どちらが強いですか」
「あとのほうです。前のは、こちらが足しています」
「産の三点は」レオが訊いた。
「産着と乳持ちは、外の話が持っていきます。外で買って、外で雇ったのなら、この家の紙に立たなくてかまいません」
「残るのは」
「礼です。それは七日前に数えました。立っていません」
「この巻で、そこは動きますか」
ミラは首を振った。
「動きません。礼は別の科目です。この二つには、はじめから載りません」
「載らないものを、載っていないと言ってはいけない」
「はい」
言われる前に自分で言えた、とは思わなかった。言われて、そのとおりだと思っただけだ。
「家はこう言います」レオが言った。「子は預けていた。よその家に、身内に」
「言うと思います」
「そうなると」
「そうなると、その払いがどこかに立ちます」ミラは言った。「預けるのは、ただではありません」
六年ぶんを、もう一度繰った。
この巻には、王都の三行のほかに、外へ出た分がない。
「ただで引き受けた家なら」
「きのう、開いたままにしたところです」ミラは言った。「志で測れるのは、名指しで配りはじめてからです」
レオは頷いた。二度は訊かない人だ。
「では、この六年で言えるのは」
「買ったものと、払った先だけです」
夕方までに、ミラは四つの行を清書した。
四つとも、日付が入っている。そして四つとも、名のところで欠けている。
四日ずれた名。連ならなかった名。家の名の抜けた名。そして、立たなかった名。
どれも、無いことでできている。
無いことは、それだけでは何も言わない。
四つ並べば、形になる。
清書の下に、一行あけて書いた。まだ足りないもの、と自分にだけ分かる字で。
「頼んだのは六年でした」レオが言った。
「六年です」
「八年のうちの、六年です」
ミラは書きつけの端に、残りを書いた。十一年前。十年前。それから、九年前。
「あとの二年は、この綴りに入っていません」
「取り寄せますか」
「取り寄せます」ミラは言った。「ただ、また八日です」
レオは何も言わなかった。八日のあいだに何があるかは、二人とも数えている。
「六年で言えることだけを、六年ぶんの顔で書きます」ミラは言った。「八年ぶんの顔は、させません」
「あと一本、外がありますね」
ミラは頷いた。王都へ出した照会の返しは、まだ先だ。断られることもある。断られても、断った日付は残る。
振ってあるのなら、誰の一着かまで分かる。
「返しはいつです」
「便のとおりなら、あと五日か六日です」
レオは窓の桟を一度だけ叩いた。
「監査は、それより先に閉じます」
「閉じたあとは」
「閉じた綴りは動かせません。開いているうちに入れたものだけが、あとで効きます」
ミラは筆の先を紙から離した。
「もう一つ、伺ってもよろしいですか」レオが言った。
「どうぞ」
「きのうから、増えた行はありますか」
「あります」
「科目は」
「支度の側です」
「額は」
「前より小さいです」
レオはそれ以上訊かなかった。
日付を訊けば、答えなければならない。この人は、こちらが答えられる幅の外側で止めている。
日付そのものは、控えの上にある。渡さないのは、その日と当主の口を並べるからだ。並べたところは、まだ紙になっていない。
四日前に自分で決めたとおりにした。したのに、後ろめたい。
控えを、先に開いた。
差引の上に、急ぎ賃が二つ並んでいる。
一つ目は、ふた月を縮めた分だ。二つ目は、きのうの朝に入った。
誰も日付を言っていない。けれど、行が二つ並んでいる。並んだ行は、言われなくても数えられる。
書きつけの一枚目は、二日前と同じ形のままだった。
求めの日は入っている。その下は、二日たっても白いままだ。
教区までは半日の道で、求めを立てられるのは家長と、その代わりを言いつかった者だ。動けた二日を、この家は動かなかった。
出さない家は、隠している家だと見られる。二日前に自分で言ったことだ。
言ったときは、そうならないでほしいと思っていた。
ミラは筆を置いて、明日の欄には何も引かなかった。
引かずに置く癖は、この十一年でついたものだ。




