第27話: 淡い青
十一日目。手紙を出してから七日目の朝に、荷が二つ下りてきた。
一つは仕立ての請求。もう一つは先方からの書面で、そちらには式次第のほかに、もう一項あった。
請求は、額が奥を通ってようやく帳場まで来た。控えの空いていた行が、これで埋まる。
ミラは数を写した。品目の下に急ぎ賃が乗って、その下が差引だ。おととい読んだ数と、一の位まで同じ。上がった分は、この紙で説明がつく。
写し終えて、行の端の余りを詰めた。二枚目の中間払い。先月から空いていた場所に、いま数が入っている。
空いていた行が埋まる音は、しない。
書面のほうは、ジェルヴェが奥へ通してから写しが下りてきた。進物と席に掛かるものは帳場まで回る。婚礼の話が出たときからだ。
式次第の確認が三項あった。
花の受け渡しの刻限。式の朝に届くものだから、受ける者と刻限を決めておく。
席の順。近在の家をどこへ入れるか。
当日の供の数。門と厩の支度に掛かる。
どれも実務で、どれも角がない。
その一項が、これだった。
お家の洗礼の証しを、一通。
ミラは、そこで筆を置いた。
証しは、婚礼の話を決めるときに取り交わす。相手の家の者が誰かを確かめてから話を進める。順として先に来る。
この話はこの春に決まった。ミラが家を出た日の朝だ。取り交わしがどう済んだかを、ミラは見ていない。
ただ、出したのが何かは見当がつく。氏の届けの証しだ。九年前に氏の立った、あの一行から写す。名があって、家の名があって、年がある。一枚で読むかぎり、角の立つところは一つもない。
今度の書面は、そこを名指ししていない。
ミラは写しを引き寄せた。四項目だけが、紙の端に近い。
洗礼の、と書いてある。
理由は書いていない。丁重な、書式どおりの文だ。角はどこにも立っていない。それが、この春に済ませたはずのものを求めてくる。
角は、紙の外にある。
卓の隅の手袋は、おとといから同じ場所にある。
レオは朝から帳場にいた。今日は母屋へ呼ばれていない。
書面の写しを渡すと、二度読んで窓のほうへ持っていった。明るいところで見る癖がある。紙の端を持つのは、おととい手袋を外したほうの手だ。
「三項までは、下の者が書きます」
「四項目は」
「家令の字か、当主の字です」レオは写しを卓へ戻した。「同じ紙に、書いた手が二つある」
ミラは並びを見直した。言われてみれば、四項目だけ字の詰め方が違う。ほかの三項より縦に詰まっている。
「あとから足したのですね」
「三項を書いたあとで、誰かがもう一行入れろと言った。入れる場所は下しかありません」
書式のある家では、そのとおりに書く。外のことを言いたいときは、書式のある一項を借りる。
「直にお訊きにならないのは、なぜでしょう」
「訊けば、訊いたことが残ります」レオは窓の桟に指を置いた。「あとで話が続いたときに、訊いた側が困る。書式の一項なら、確かめただけになります」
「続けるつもりも、まだあるということですか」
「両方の支度をしています」レオは言った。「降りる支度と、続ける支度と。四項目はどちらにも使えます。だから、まだ選ばずに置ける」
選ばれるのは、証しが着いたあとだ。
午後の帳面を開いた。二行めまで書いたところで、戸口が暗くなった。
「立ったわね」
セリーヌは戸口で言った。今度は用があると自分から言う。
「立ちました」
敷居を越えて、卓の端に手をかけた。
控えを開いて向けると、身を乗り出した。読めるところだけを追っている。品目は飛ばして、いちばん下の額へ行く。
「聞いていたのより多いわ」
「急ぎ賃が乗っています」
「そう」
多い理由を、この人はもう知っている。そのうえで、数のほうを見に来た。
顔を上げたとき、窓のそばのレオに気がついた。
背筋が、わずかに変わった。
声も一段落ちた。
棘は出なかった。監査官の耳に入るからだ。この人が官の前にいるところを、ミラは今日はじめて見ている。
「あの、もう一つの紙は」
「もう一つ」
「奥で読み上げていたわ。お父さまが。式のことだと言っていたけれど、途中で声が変わったわ」
声が変わった、という数え方をする。この人はいつもそうだ。
「わたしが入ったら、やめたわ」
言うかどうかを、ミラは量らなかった。
この人は下りてくる前の紙を自分で押さえてくる。奥のものが写しで帳場へ来ることも知っていた。
「式次第の確認が三項あります」ミラは言った。「花の刻限と、席の順と、供の数です」
「席の順」セリーヌが顔を上げた。「どこまで書いてあるの」
「近在の家をどう入れるか、だけです」
「ノアイユは前のほう」
「名は挙がっていません。数だけです」
この人にとって、席の順は春から考えてきたものだ。あちらにとっては、門と厩の支度と同じ欄に並ぶ一項でしかない。
「それで声は変わらないでしょう」
「四項目があります」
「なに」
「証しを、一通」
セリーヌは、その言葉を受け取るのに少し時間を使った。
「わたしの」
「お家の、と書いてあります」
「それ、春に出したでしょう」
「出しています」
ミラは書面の写しを卓へ置いた。日付のところが上になるように、向きだけ変えた。
「春に出したのは、氏のほうです。お嬢さまの氏が立った年の、あの一行から写します」
「今度は」
「洗礼の、と書いてあります」
「同じことでしょう」
「別の行です」
「なら、なぜ」
「わかりません。紙には書いてありません」
「書いていないことを、あなたはいつも見当で言うでしょう」
言われて、ミラは口を閉じた。
見当なら、ある。
一度確かめたものをもう一度確かめる家というのは、外で何かを聞いた家だ。あるいは、手元の紙を並べ直した家だ。
金の話であれば、訊く先は帳場になる。仕入れの筋でも、払いの遅れでも、書式の一項は勘定の側に立つ。
四項目は、勘定の側に立っていない。
中身のほうは書面に載らない。載せれば角が立つ。だから置ける場所は、下にしかない。
書いた手が二つあるのは、そのためだ。
丁重に、この人たちは確かめ直しにきている。
「外で、何か言われているわ」
ミラは答えなかった。
「言われているから、もう一度出せと言ってくるのよ」
「見当です」
「見当でいいわ」
「見当は渡せません」
「知らない人は、そういう顔をしないわ」
顔のことを言われて、ミラは自分の頬を意識した。
この人は数を読めない。かわりに、人の顔を読む。十一年、この家でそうやって生きてきた。
「お心当たりが」
訊いてから、余計だったと思った。窓のそばに、聞いている人がいる。
セリーヌも、そちらを一度見た。
見て、それから言った。
「あるわ」
「わたし、お父さまにも、お母さまにも似ていないわ」
レオは動かなかった。窓のほうを向いたままで、こちらを見ない。それでも、聞こえてはいる。
「昔から言われるわ。似ておいでではない、って。悪気のない顔で言うのよ。誰も、悪気なんて持っていないわ」
この人はそれを一度も否定していない。打ち消す材料がないからだ。
「似ていないことは、紙に立つのかしら」
ミラの言い方だった。借りたのではなく、組んである。
「立ちません」
「どうして」
「科目にならないからです」ミラは言った。「帳面が拾うのは、動いた銭と、動いた物と、届けの出た日です。色は動きません」
「では、消せもしないのね」
「消せません」
十一年、この家の合わない数を一つずつ拾ってきた。拾えるものは拾った。拾えないものが、いま卓の向こうに立っている。
「消せないことを、あの人たちは書面にしないの」
「しません。書けば角が立ちます」
「けれど、確かめには来る」
「はい」
「紙にならないことのために、紙を出せと言ってきたのね」
セリーヌは、そこまで自分で歩いた。
ミラが並べたのは項目だけだ。それだけで、この人は先まで行った。数は読めなくても、順は読める。
「出さないと、どうなるの」
「出さない家は、隠している家だと見られます」
「出したら」
「出したものが、あちらの手に残ります」
残る、と言ったところで、自分の声が少し落ちたのをミラは聞いた。
「取りにいくのは、誰」
「家として頼める人です」
「家として」
「教区は、原簿を見せません」ミラは言った。「出すのは、一人の名について一通だけです。求めを立てられるのは、その家の家長と、代わりを言いつかった者です」
あのとき渋られたのは、頁の写しだ。読み違えた一行が紙になって歩き出す、と言われた。
名の一通は別だ。読み方ではなく、書式で決まっている。求めに応じて出すまでが、あの司祭の役目のうちだ。
セリーヌは、しばらく黙った。左の親指が、口もとまで上がりかけて、止まって、脇へ下りた。
婚約の話は出ていない。上がったのは、家長、と言われたところだ。
氏を持っているだけでは足りない。セリーヌにも氏はある。足りないのは、家として口をきく権のほうだ。
「お父さまが行くわけね」
「そうなります」
証しを取りにいくなら、教区へ行く。
あの原簿の、十七年前の丁だ。
ミラは一度だけ見ている。司祭がめくり、見たのは一葉きりで、触れてはいない。
名の欄が短かった。ほかの行には、粉屋の子、鍛冶の娘、と続いている。あの行だけが、名で終わっていた。
証しは原簿から写す。写すときは、行のとおりに写す。
短い行は、短いまま出ていく。
欲しかったものだ。
筆はまだ手にあった。墨が乾いて、先が軽くなっている。
外に紙があるという一枚を、ずっと探してきた。それが、いま向こうから取りにこられようとしている。
読んだあとで、あちらは何をするか。婚礼を進めるためには使わない。降りるために使う。
同じ一行が、同じことを言う。言った先が違うだけで、行き着く場所がまるで変わる。
「黙るのね」
いつもの高さを外していた。
セリーヌが言った。
きのうまでなら量った。今日は先に答えが出ている。
この人に、あの行のことは言えない。
口にすれば、この人は自分で先へ歩く。そこにあるものを、ミラはまだ紙で押さえていない。
見当は、この人の手のなかで数に変わらない。
「証しは、教区から出ます」ミラは言った。「取りにいくのは家の役目です。わたしの手からは出ません」
「それ、答えていないのと同じよ」
「同じです」
セリーヌは黙って、卓の書面を見ていた。字を追う目ではない。並びのほうを見ている。
「あなたは、わたしの味方ではないのよね」
しばらくして、そう言った。
「はい」
「そう」
「あちらの味方でもありません」
「どちらでもないと」
「紙のほうにおります」
セリーヌは息を吐いた。笑いに似ていたが、出方が変わっただけだ。
「それ、いちばん質が悪いわ」
戸口まで行って、そこで一度、こちらを向いた。
窓のほうを見ないようにしているのが、こちらからは見えた。
「わたし、青いのよ」
「はい」
「お父さまとも、お母さまとも違うのよ。わたしだけが青いの。子どものころから知っているわ」
知っていて、十一年、この人はミラの前で一度もその話をしなかった。
「訊いても、そのうち話しますと返るだけ」
袖の音が遠くなって、廊下の途中できれた。それから、聞こえない。
「お嬢さまは、ご自分でおっしゃいましたね」
レオが窓のそばを離れた。
「口にされたことがあるなら、あの言い方はしません。それを監査官のいる部屋で言いました。宛先は、こちらではありません」
「では、どちらへ」
「先方へです」レオは卓の前まで来た。「この家で誰か一人でも先に言ってくれれば、確かめられる前に済む。そう思う人の言い方でした」
言われて、ミラはさっきの間合いを数え直した。
窓のほうを一度見てから、言った。あの一度が、宛先だ。
「あの書面は、写しがこちらに残りますか」
「綴じます」レオは言った。「日付を控えてください。求められた日と、出した日と、二つ」
ミラは筆に墨を含ませた。
「お出しになる前提で」
「出します」レオは言った。「家が出さないと決めても、証しは教区から出るものです。婚礼を挙げるのは、あちらの教区です。あちらの司祭がこちらの司祭へ書けば、家の手はどこにも要りません」
レオは卓の隅の手袋を取った。はめずに、二つ折りで懐へ入れた。
「あの一行を、あなたも見ておいでです」
「見ました」
レオはそれだけ言った。何が短かったかも、短いとどうなるかも言わない。
あの日から今日まで、この人は一度もあの行の話をしていない。ミラも訊かなかった。同じ一葉を、二人とも数え終えている。
止められない、という言葉を書きつけの端へ置いた。
教区の紙が家の手の外にあることを、ずっと利点として数えてきた。その欄を、押さえ直す。
「ひとつ、伺います」
「どうぞ」
「あの証しに書かれることを、あちらが読んで、こちらが読めない。そういうことは起きますか」
「起きます」
「どういうときに」
「あちらが、こちらへ言わずに頼んだときです」レオは言った。「書式の一項で訊いてきたのは、断られる前にこちらの手を見ておくためでしょう。断られれば、言わずに頼む筋へ移ります」
「あの方は、どちらが先に済むかを数えておいでですね」
「そう見ています」
「巻の着く日を訊いていたのは」
「動かせない日だからです」レオは戸口のほうを見た。「動かせるのは、式の日のほうです」
監査の閉じる日、と二日前にこの人は読んだ。あれは動かせない。
今日、動かせない日がもう一本増えた。
「聖アニエスまでは、半日かかりませんでした」
「紙のほうは早いです」レオは言った。「遅らせられるのは求める側の手つきだけで、それが止まれば、あちらの司祭が書きます」
当主の手にあるのは、式の一本きりだ。四項目が宙に浮くのは、式が二本より前に来たときだ。
ふた月を縮めたとき、あの人が前へ置こうとしていたのは一本だった。今日、置く先が二本になった。
縮めた分の増しは、今朝の控えの、差引の一つ上にある。急ぎ賃という名で。もう一度縮めれば、その下にもう一行立つ。
灯を入れた。
家政の巻は明日着く。人件はその次の日だ。三日と数えていたものが、あと一日になっている。
ミラは書きつけを開いた。
求められた日。出した日。二つ目は空いている。
空いた行は、いつか埋まる。今朝もひとつ埋まった。
そこへ何が立つかは、まだこちらの手にない。




