第26話: 急ぎ賃
母屋の二階、奥の間の鎧戸が、朝から閉じている。
閉じた鎧戸は人払いの合図だ。話が長いだけなら、開けておく。
レオは朝食のまえに廊下を渡っていった。当主に呼ばれたとかで、それきり出てこない。
婚礼の支度の控えに、一行だけ空けてある。仕立ての払いの二枚目、中間払いの行だ。先月から空いたままになっている。一枚目の手付はその上に立っている。二枚目は、ジェルヴェが届いたら回すと言ったきりだ。
婚礼の日取りが動いてから、九日目の朝だった。きのうは一日、綴りの背をそろえ直して終わっている。手元にあるのは奥向きの綴りだけで、そこはもう繰り終えている。出るものは、あらかた出た。
家政の巻が着くのは手紙の八日目、今日で五日目だから、あと三日ある。人件はその次の日だ。
昼が過ぎても、鎧戸はまだ閉じていた。
足音が来たとき、ミラは書く手を止めなかった。廊下の板の同じところで、一度だけ高くなる足音だ。
「いまなら、誰も来ないでしょう」
セリーヌは戸口で立ち止まって、そう言った。
用のない顔ではなかった。
「あの人は、まだ母屋」
「存じません」
「朝からよ」セリーヌは中へ入ってきた。「わたし、見ていたの。荷が下りるのも、見ていたわ」
見ていた、と言った。待っていた、とは言わない。
「なにか、ご用でしょうか」
セリーヌは答えずに、卓の前まで来た。
右手に、たたんだ紙を一枚持っている。扇はない。持ち方が固かった。角を潰さないように持つ持ち方とは違う。離すまい、という持ち方だ。
朝のうちに、家の使いが宿場から荷を取ってきている。届いた紙はジェルヴェが受けて、奥へ通してから帳場へ下ろす。まだ下りてきていない。
下りてくる前のものが、いま戸口にある。
「わたしの支度、いくらだと思っているの」
「伺っておりません」
「お父さまは、支度のことは心配しなくていいとおっしゃるだけ」
声が作られていた。
「聞いてもいないのに、書くのね」
「立った額を写すだけです」
「立った額」
その言い方を、この人はいま覚えたようだった。
セリーヌは卓の上を見た。開いてある控えの、空いている行のところで目が止まった。
「そこが、わたし」
「そうです」
「削られていると思うのよ」
ミラは筆を置いた。
「わたしのところだけ削って、別の名で立てている。そういうことは、できるわね」
できる。十一年見てきて、それができないと言えたことは一度もない。
「できます。けれど、この家では立て替えの科目が細かく割れています。削るなら、割れているぶんだけ跡が残ります」
「見れば、わかるのかしら」
「請求です。届いた紙と、立った額を並べます。立っていなければ、前の年の同じ品と並べます」
右手の紙が、わずかに動いた。
「なら、あなたは待っていればいいのね。いずれ回ってくるもの」
「回ってきてから見ます」
セリーヌは黙った。
回ってくるのを待てば、それは家の紙になる。奥を通ったあとでは、誰が先に見たかがわからない。
この人はそれを、たぶん言葉では考えていない。ただ、手が離さない。
「あなた、人に言う」
「どういうことでしょう」
「わたしがここへ来たこと。話したこと」
「控えには書けません」ミラは言った。「銭も物も動きませんので」
「書かないのと、言わないのは違うわ」
「言う相手がおりません」
そのとおりだった。この家でミラに口をきく者は、もう数えるほどもいない。
セリーヌは、そのことに気がついたようだった。気がついて、少しだけ姿勢を戻した。
この家の外になら一人いる。それは黙っていた。
「読んで」
言ったあとで、この人は自分の声を聞いたらしい。少し高くなっていた。
紙が卓の上に置かれた。置いてから、指が離れるまでに間があった。
開くと、折り目が二本あった。谷のところが潰れている。朝からたたんで、たたんだまま握っていた紙だ。
王都の仕立て屋の請求だった。屋号はフーケ。
いちばん上に家の名がある。その次の一行が繰越で、前の勘定から送られてきた残りだ。
それから品目が並ぶ。本仕立て。裏地。縁の飾り。留めの金具。
品目の列の、いちばん下にもう一行あった。
急ぎ賃。
その下に、手付を落とした差引がある。
「これ」セリーヌが指したのは、飾りの行だった。「ここが高いのよ」
ミラは上の四行を順に押さえた。
「本仕立ての工賃も裏地も金具も、去年と同じ値です。飾りは去年より安い。数が多いので長く見えるだけで、一つあたりは下がっています」
「去年のぶんまで」
「同じ屋号から一枚来ました。写しましたので」
「では、なぜこんなに」
ミラは、さっきの一行を指で押さえた。
「ここです」
「急ぎ賃」
セリーヌは、その三文字を読んだ。字は読める。意味が乗ってこないだけだ。
「納めの日を早めた分の増しです」
「早めた」
「もとの納めは秋でした。それを夏の初めへ動かしています。ふた月ぶんです」
「それは、日取りが変わったのだから当たり前でしょう」
「はい」
「なら、この差はどこから出るというの」
「仕立ては人の手だからです。日を縮めたぶんだけ頭数が要って、その頭数が増しになります」
セリーヌは紙を見た。
「わたしの支度は、削られていないわね」
「この紙のなかでは、削られていません。並みより多く払うことになります」ミラは言った。「家の側は、額が立ってからです」
多く払っている、と言われて、この人は晴れなかった。
削られていない、と言われれば済む用件だった。済んだのに、済んだ顔にならない。
ミラは紙を返そうとして、手を止めた。
急ぎ賃の行の右の端に、小さく日付が入っている。
商いの請求では、増しの行に根拠の日付を入れる。増しは客の指図から出るものだから、指図の日を書いておかないと、あとで言い争いになる。
つまりそこにあるのは、納めを繰り上げよと指図が出た日だった。
ミラは、その日付を二度読んだ。
知っている日だった。
その日、ミラは王都の広間に立っていた。自分が十一年書いてきた数を、人が声に出して読むのを聞いていた。
同じ日に、この指図が出ている。
八日前、当主は自分の口で言っている。先方へは使いを出した、と。
あのとき、この人はその場にいなかった。
いなかった人には、別の言い方がされている。先方のご都合、と。
同じ口が、聞く相手で二通りに動いている。
先方が早めてくれと言ってきた筋でも、この日付は立つ。受けて、その日のうちに指図を出した形だ。
立たないのは、そのあと当主が言ったことを並べたときだ。
支度の厚みで、ご得心いただきます。
得心していただく相手とは、まだ承知していない相手のことだ。頼んできた家を、厚みで説く必要はない。
決めた側が、決めていない側へ報せる形だ。
頼まれて動いた筋と、決めて報せた筋。当主の口と並べて立つのは、あとのほうだけだ。
「どうしたの」
顔を上げると、セリーヌがこちらを見ていた。
言うか、言わないか。
言えば、この人の口から家じゅうへ回る。これまでなら、そこで止めた。
けれどこの人は、読めないものを自分の足で運んできた。
その紙を読まずに突き返す理屈が、ミラには見つからなかった。
「一つ、日付が入っています」
「日付」
「急ぎ賃の根拠です。納めを繰り上げよ、と指図の出た日が書いてあります」
ミラは筆を取って、繰越の行を書きつけの端へ写した。写しているあいだ、セリーヌは見ていない。
筆を置き、紙を回した。日付の側を相手のほうへ向けて、卓の縁まで押し、そこで手を離した。
セリーヌは触れなかった。上から覗きこんで、そこで目を止めた。
「いつ」
ミラは日を読み上げた。
セリーヌの指が、袖の縁で止まった。
「それは」
「はい」
「それは、お父さまが王都においでだった日でしょう」
「そうです」
「先方から話が来た日では、ない」
「先方の名は、この紙に一つも出ていません」
しばらく、外の音だけになった。
厩のほうで馬が身じろぎして、鎖が短く鳴った。
「先方のご都合、と聞いたのよ」その声から張りが抜けた。「わたし、そう聞いたわ」
「どなたから、そう伺いましたか」
「お父さまよ」
「あなた、おととい聞いていたわ」
ミラは、置いた筆のほうを見た。
「そのとき、知っていたの」
「八日前に、当主さまが同じことを別の言い方でおっしゃるのを聞きました」ミラは言った。「先方には、もう使いを出した、と」
「それ、意味が違うわ。でも、紙にはならないのでしょう」
覚えた言い方が、もう一つ増えている。今度は自分で組み立てていた。
「なりません。わたしが聞いた、というだけです」
「けれど、聞いたのね」
「聞きました」
セリーヌは口を開いて、閉じた。
「わたし、その使いのことを、あなたに言ったわ」
覚えている。
言った本人が、言った中身を運んでいた。
「あなた、黙っていたわけね」
「はい」
「なぜ」
「言う筋がありませんでした。今日は、ご自分で持っておいでになったので」
セリーヌは日付のところを見ていた。読めない字のほうは、もう見ていない。
「お父さまは王都で決めて、帰ってきて、それから、そう言ったのね」
「紙が言うのは、指図の日です。それより下は、書いてありません」
「そう」
セリーヌは紙をたたみはじめた。折り目の通りに、ていねいに合わせていた。
「それで、あなたは困らないかしら」
手を止めないまま、そう訊いた。
「困ります」
「なら、なぜ」
「困るのと、言わないのは、別のことです」
この人の言い方だった。
セリーヌは畳んだ紙を胸のところへ下ろして、こちらを見た。
棘が来ない。
左の手も動かなかった。婚約の話が出て、親指の上がらなかった回を、ミラははじめて数えた。
「ありがとう、とは言わないわ」
「けっこうです」
「言ったら、あなたに借りができる」
「借りにはなりません」ミラは筆を取った。「読んだだけです」
セリーヌは口の端で少しだけ笑った。
笑ってから、その顔を自分で仕舞った。
戸口で、こちらを向いた。
「その紙、家へ回してはいけないかしら」
「回してください」ミラは言った。「回らないと、額が立ちません」
「立ったら、あなたが写すわね」
「写します」
「では、立ったころに」
それだけ言って、出ていった。
廊下の板の同じところが、行きよりも高く鳴った。
卓の上に、紙はない。取り上げれば、この人はもう二度と持ってこない。
写しておいたのは、繰越の行だけだ。
繰越があることは、去年にも見ている。そのときは写して、それきりだった。いま同じ行が別のものに見える。
この注文の手付は下の差引で落ちていて、繰越はその上にある。額も合わない。一度きりの客に繰越は立たない。
フーケの帳面は、この家の勘定を送り継いでいる。押収の外にある。
家の外の紙で、この家の年を数えられる。
写した繰越の下へ、ミラは屋号を書き添えた。
夕方、レオが母屋から戻ってきた。
顔色は変わっていない。ただ、右の手袋を外していた。外したまま卓へ置いた。
「長かったですね」
「巻が着くまでの日数を、何度も訊かれました」レオは椅子を引いた。「訊きなおす人は、答えを聞いていません。あの方が知りたいのは、巻の着く日ではないでしょう」
「では」
「監査の閉じる日です」
ミラは書きつけを出した。
「今日、外の紙を一枚見ました」
レオが顔を上げた。
「王都の仕立て屋の請求です。この家との口座に、繰越が立っています」
「何年ぶんの」
「そこまでは書いてありません」ミラはその一行を指で示した。「ただ、繰越があるということは、向こうの帳面が続いているということです」
レオは書きつけの角を持ち上げて、その一行を近くで見た。
素手だった。
「家の外ですね」
「こちらで読めて人の年を数えられる紙は、教区の一葉きりです」
「これまでは、家の紙で足りていました」
足りなくなったのは、おとといだ。家の出した数で家を量ろうとしていた、と自分で降ろした。空いたところを、どこかから埋めなければならない。
急ぎ賃の日付は言わなかった。繰越はこの家の勘定の話で、あの日付はお嬢さまのことだ。帳面と帳面のあいだにないものは、まだ言わない。
教区の帳面は見せてもらえたが、一葉だけだった。蔵の話は人の口から出て、紙になっていない。
外にあって、年ごとに続いていて、こちらから問える。そこに誰の一着かまで振ってあるなら、フーケのほかにない。
「遠いですか」
「往きに四日」レオは言った。「返しにも四日」
「なら、婚礼には届きます」
「日数は届きます」レオは手袋のないほうの手を卓へ置いた。「向こうが出しません。婚礼の前に客の勘定を人へ見せる仕立て屋はいませんし、断る理由ならいくらでも作れます」
「令状では」
「財の記録です。令状なら届きます」レオは指を組んだ。「届かせると、王都の商いに監査院が入ったという話が、その日のうちに立ちます。婚礼の前にこの家の名でそれをやれば、先方に降りる理由を渡すことになります」
この婚礼の出納には、官の裏書きが要る。裏書きをする人が縁組を壊せば、裏書きそのものが疑われる。
「では、式のあとに」
「今日の日付で、照会を書きます」レオは椅子から立った。「便は明日の朝です。断られても書きます」
「断られるとわかっていて」
「断りにも日付が入ります。いつ訊かれて、いつ断ったか。向こうの帳面に残ります」
往きに四日、返しに四日。断りが戻るのは、婚礼よりずっと前だ。
去年の請求は、こちらで写してある。仕立ては奥向きの綴りに載るので、押収の外にある。一枚では年にならない。けれど一枚は、二枚目の置き場所を教える。
レオが書きつけを戻した。ミラはその端に、頼む、と書き足した。
レオは廊下へ出ていった。
窓の外が暗くなった。
家政の巻まで、あと三日。
三日のうちに、こちらの紙で言えることを全部言えるようにしておく。言えないことが残るなら、その形を先に測っておく。
巻が着いてから測るのでは遅い。
卓の隅に、レオの手袋がまだある。
この人が帳場で手袋を外したのを、ミラは今日まで見ていない。来た日に一度だけ訊いて、返ってきた答えは、いまも覚えている。
母屋で何を言われたのかは、訊かなかった。
こわいものへ素手で出てきた人に、訊くのは筋が違う。
額が立てば、お嬢さまはそれを見に来る。来る理由が、はじめてこちらにある。




