第25話: 爪を噛む令嬢
七日目の朝は、写しを取ることに使った。
街道は空で、それでいい。手紙を出したのが五日目で、今日で三日目になる。家政の巻はまだ五日先だ。追いかけた二通目は、その次の日に着く。
婚礼までのふた月を切ってから、六日がたつ。
急ぐ用のない日というものが、この家にもある。
ミラは志の綴りを閉じて、婚礼の支度の控えのほうへ移った。数えるものがあるうちは、待つのが仕事にならない。
菓子と蝋燭と、馬の飼葉。仕立ての中間払い。花の代はまだ立っていない。夏の初めの花は、その月に入ってから買うものだからだ。
この家は、婚礼までにあと二度、大きな払いをする。どちらも、いまは動かない。
止まっているものを数えていると、時が進まない。ミラは日付だけを見た。
昼を過ぎて、廊下に足音がした。
軽い。急いでいない足音だ。
「拾い子さん」
戸口に、セリーヌがいた。今日のドレスは色が沈んでいる。仕立ての途中のものを羽織っているらしく、袖の縁に待ち針が残っている。
「名簿を、書き直してちょうだい」
「招きの返礼の、でしょうか」
「そう」
ミラは棚から控えを出した。きのうジェルヴェが持ってきて、その日のうちに清書して戻したものだ。
「できております」
「知っているわ」セリーヌは扇を鳴らした。「もう一度、書いてちょうだい」
用ではない、とミラは思った。けれど言わなかった。
セリーヌは控えを取り上げて、目を落とした。読むというより、確かめる目だ。
「ノアイユ。ラフォン。モレル」
指は動いていない。頁も繰らないまま、次の名が出てくる。
「そのあとがヴィエル。それから、ボーモンのご一家」
合っている。きのう清書した順のままだ。ヴィエルからあとは、頁をめくらなければ出てこない。
「よく覚えていらっしゃいます」
「これくらい、目を通せば入るわ」セリーヌは控えを卓に戻した。「あなたのように、一つずつ指で追わなくてもね」
棘の形は、十一年変わっていない。追い出される朝にも、この人は指の話をした。
わかる、とは言わなかった。
その順は、志の綴りの順だ。九年、ミラの手が一行ずつ写して、束ねて、棚へ戻してきた。
覚えている人と、書いている人が、同じ順を持っている。セリーヌのほうは、それを知らない。
この順を決めているのは奥さまで、毎年動かない。きのうジェルヴェがそう言った。
九年、母が決めた順を、娘が覚えている。それだけのことだ。
セリーヌは卓の向かいに立ったまま、帳場のなかを見ている。
棚の封。床の油の跡。積まれた控え。
「ずいぶん散らかっているのね」
「片づけると、順が崩れますので」
「順」セリーヌは笑った。「あなた、そればかり」
笑ったあと、少し黙った。黙り方が、いつもと違う。
「王都の役人は、まだいるの」
「おいでです」
「あの人、何を見ているの」
「数です」
「数」セリーヌは扇を開いて、また閉じた。「数なんて、どこの家にもあるでしょう」
「あります。合わない数も、どこの家にもあります」
扇が止まった。
「壊れることが、あるの」
「何がでしょう」
「婚礼よ」セリーヌは言った。「監査が入った家に、あちらが娘を寄越すと思う」
娘を寄越す、という言い方をした。自分が行く側なのに。
「わたしには、決められません」
「あなた、わたしを脅しているの」
「いいえ。合わない数のある家に、わたしは十一年いました。それだけです」
セリーヌの口が動いて、音にならずに閉じた。
文句が出てこなかったのではないと思う。
「あの人、いつまでいるの」
「存じません」
「訊いていないの」
ミラは黙っていた。それが答えになった。
セリーヌは、何か考える顔になった。
「日取りは、変わらないのよ」セリーヌは言った。「夏の初め。もう仕立ても頼んであるし、先方にも使いが行っているの」
「うかがっています」
「秋のはずだった、なんて、もう誰も言わないわ」
言ったのは自分だ、と言いかけて、ミラはやめた。六日前、この帳場で、この人が言った。何を急いでいるの、と。
あのとき返せたのは、わかりません、だけだった。いまも同じだ。
「なぜ早まったのか、お尋ねになりましたか」
口に出してから、これは訊いてよかったのかと思った。
「訊いたわ」セリーヌは言った。「先方のご都合、ですって」
「そうですか」
「先方のご都合で、こちらの支度がふた月ぶん縮むのよ」セリーヌは笑った。笑い方が、うまくいっていなかった。「おかしいでしょう」
「おかしいと、どなたかにおっしゃいましたか」
「言ったわ。お父さまに」
「なんと」
「支度のことは、おまえが心配することではない」セリーヌは声を作った。真似ているらしい。「そう言われたら、それきりよ」
この家では、言われたらそれきりになる。ミラも十一年そうしてきた。
左の手が上がった。
親指の爪が口もとの手前まで来て、そこで止まる。止まってから、脇へ下りる。
十一年、婚約の話が出るたびに、この人はそうしてきた。
贈り先が家の名に変わった年も、その順が動かなくなってからも、この人はそれを知らずに、手のほうだけが落ち着かずにいたことになる。
噛むところまで行く年もあった。ミラはまとめて、噛んだ、と覚えていた。たいていは、上がって、止まって、下りる。
噛まずに下りる回数のほうを、ミラは数えていた。そのことに、いま気がついた。
「あなた、その帳面で何がわかるの」セリーヌが言った。
「払ったものと、払わなかったものが」
「払わなかったもの」
「はい」ミラは言った。「払っていないことも、行として残ります。残らないのではなく、空いた形で残ります」
セリーヌは黙った。
「わたし、そういう言い方が嫌いよ」
「はい」
「何かを言っているようで、何も言っていないもの」
「そうかもしれません」
言い返さないことが、この人にはいちばん効く。十一年、それだけは覚えた。
「あなた、いくつだったかしら」
思いがけない問いだった。
「十六です」
言ってから、指が頁の端を探した。探すものは、そこにない。
「わたしは十七」セリーヌは言った。「一つしか違わないのね。ずっと、もっと違うつもりでいたわ」
ミラは答えなかった。答える形の問いではない。
この人がそう思ってきたのは、たぶん本当だ。お嬢さまと、拾い子。年で分ける必要のない分け方が、はじめからあった。
「ねえ」
セリーヌは、手の扇を卓の縁に置いた。手ぶらになった指が、行き場をなくしている。
「わたし、幼いころは王都にいたのですって」
ミラは、書きかけていた行を最後まで書いた。
「みんな言うわ」その手が、袖の待ち針の頭にふれて、離れた。「ノアイユの奥さまも、この前そうおっしゃっていたわ。小さいころ向こうにおいででしたのだから、王都の作法は身についていらっしゃるはずですわね、と」
「その方は、どなたからと」
「訊かないわよ、そんなこと。この家では、前からそう言うもの」
「では、そうなのでしょう」
「そうなんでしょうね」
声の張りが、戻ってこない。
「でも、覚えていないの」
帳場が静かになった。
外で、荷車が門を出ていく音がする。菓子の空箱を返しに行く車だ。今朝の控えに書いた。
「五つや六つのことを、みなさま覚えていらっしゃるものかしら」セリーヌは言った。「わたし、ひとつも覚えていないのよ。向こうの部屋も、通りも、誰の家にいたのかも」
「ご親戚の」
「そのうち話します、ですって」セリーヌは肩を上げた。
「お家の名も、おっしゃいませんでしたか」
「訊けば言うでしょうけれど」セリーヌは指を組んだ。「訊きなおすと、しつこいと思われるでしょう」
「どなたに」
セリーヌは答えなかった。卓の扇の骨を、一本ずつ数えるように見ている。
「いつ、お訊きになりましたか」
「いつでも」セリーヌの声が乾いた。「八つのときも、十二のときも、去年も。返事は同じよ。そのうち話します」
訊いた年が三つ、間を置いて並んでいる。
去年の分は、ミラも覚えている。
夏の食堂で、お嬢さまが同じことを訊いた。返ってきたのは同じ一言で、話が次へ移るまでに、三つ数えるほどもなかった。
訊いた側も、それきり訊かなかった。
毎年そうしてきた人の、慣れた引き下がり方だった。
「お嬢さま」
「なに」
「そのうち、と言われて、いつまで待たれましたか」
返事はなかった。九年という数のほうが、先に出ている。
九年前だ。この家で、ほかにも始まっているものがある年だ。
「お嬢さま」
「なによ」
「お戻りになったのは、いくつのころだと」
「それも訊いたわ」セリーヌは早口になった。「小さいころ、と」
小さいころ。そのうち。
日付のない言葉ばかりだ。
どの家に預けられたのか。誰が連れていったのか。帰りは誰が迎えに来たのか。
三つとも訊かなかった。答えれば年が要る。
そのうち、というのは、いつだろう。
その問いは、この人には向けられない。この人の口は、家じゅうへ回る。
訊かなくても、この人は置いていく。
後ろの二年のことは、きのうレオに言った。覚えは証しにならない、とその場で片づけた話だ。
片づけたはずのものが、いま目の前に立っている。
栗の木の下で扇を振っていたこの人を、ミラは見ている。そちらからは、見られていない。
知らないまま、向こうにいたのだと言っている。
言ってやることはできる。できて、それだけだ。証しにはならないし、言えば、こちらが年を数えていることが渡る。
「あなたは覚えているの」セリーヌが言った。「五つのころ」
「覚えています」
「そう」
「寒かったことと、ここへ着いたことだけです」
セリーヌが、まっすぐミラを見た。
その目のことを、ミラは書いたことがない。書く欄がないからだ。
「羨ましいこと」セリーヌは言った。「拾われた日を覚えているなんて」
棘のつもりだったのだろう。届いていなかった。
届かなかったことに、この人も気づいた。気づいて、卓の扇を取り、鳴らした。
「まあ、覚えていたところで、書き写す指があるだけね」
それは、いつもの高さで出た。
セリーヌは廊下へ戻っていった。
待ち針の残った袖が、戸口の暗がりに消える。名簿の話は、入ってきたときで終わっている。
ミラは控えを棚へ戻した。書き直したものを持ってこいとも、いつまでにとも、指図はなかった。
卓の上に、扇の跡が残っている。置かれていた形のところだけ、埃が乱れている。ミラは布で拭いて、それも消した。
用のない来訪を、控えには書けない。銭も物も動いていない。
けれど、来たことは覚えておく。
用のない来訪で、この人は自分の弱いところを置いていった。
こちらはそれを使う。使えば、置いた人がいちばん先に困る。
夕方、レオが戻ってきた。
先に出しておいた使いが戻って、宿場町の荷馬車の便を確かめてきたという。
「便は詰まっていません」レオは言った。「あと五日です」
「手紙の八日目です」
「九日目に、人件が」
灯を入れるまえに、ミラは書いた。
書き直せと言われて、書き直さなかった名簿。一つしか違わない年。覚えていない王都。そのうち話します、という返事。
外の話は、この家のなかにも置いてある。
置かれた先が、その話の当人だ。
「おかしなことが、一つあります」ミラは言った。
「どうぞ」
「王都においでだったのなら、あの方は覚えていていいはずです。五つなら、部屋の一つも、通りの一つも残ります」
それに、と続けかけて、ミラは口を閉じた。
紙のほうは、と言おうとした。紙が言うのは氏の立った年だけだ。九年前。あの方の年でいえば八つ。
その八つは、家の言う十七から引いた数だ。
八つから今日までの九年も、同じ十七から出ている。
家の出した数で、家を量ろうとしていた。
「いえ」ミラは言った。「ご本人の言う五つは、ご本人のものです。そこからあとは、まだ数になりません」
「あなたには、残っていますか」
「はい」
「あの方には」
「ないそうです。ご本人が、そう言いました。訊けば、そのうち話します、と返るそうです。八つから去年まで三度、同じ言葉で」
レオはしばらく黙っていた。
「それは、紙にはなりません」
「なりません」
「五つの記憶がない人は、いくらでもいます」
「います。わたしがおかしいと思ったのは、その先です」
「どこですか」
「ご本人の言う八つから、返事が一つも変わっていないことです」
レオが顔を上げた。ミラは続けた。
「返事の中身が、話すことがない人の返事ではありません」
「話す気のない人の返事です」
「はい。外にはもう配ってあるのに、当人にだけ日付が出ません」
「けれど、聞いておきます」
ミラは書きつけの端に、その一行を足した。どこへ繋がるかは、まだ見えない。
外にいたのなら、払いは外に残っている。泊めた家にも、教えた者にも、名がある。
紙が空いているのは八年ぶんで、紙で問えるのは六年ぶんだ。
その六年の部屋と通りを、紙のほうが覚えているかどうか。物のほうが五日先で、人のほうはその次の日だ。
五日のあいだに、あの人はまた来る。用のない顔で。
こちらから呼びにいくことは、できない。




