第24話: 社交界の耳
六日目の朝、街道には何も来なかった。
来るはずもない。手紙が出たのはきのうで、往って四日、還って四日だ。今日は二日目にあたる。
かわりに、出ていくものがあった。人件を追いかける二通目が、朝の便に乗った。
「出しました」レオは言った。「あれも八日です。着くのは、家政の次の日になります」
ミラは奥向きの綴りを開き直して、寄進のうち、収穫あとの一行ではないほうを拾いはじめた。
折々の志だ。
押収された額の巻に、この志は立たない。あちらに残るのは教区へ出した一行だけだ。人へ出した志は、この綴りにしか宛が残らない。
年に一度の分とちがって、こちらは決まった月がない。誰かが死ねば出る。橋が落ちれば出る。冬が長ければ出る。
十年前までは、宛が短い。
道の普請に二リーヴル。橋の板に一リーヴルと十ソル。冬の施しに三リーヴル。二十年前から十年前まで、十いくつ。出ない年のほうが多い。
どれも、場所か、用途で書いてある。
十六年前から十四年前は、三年つづけて秋の一行きりだった。きのう、葬いを探して繰った三年だ。
どの年も、出た理由が同じ行に書いてある。橋の年には、その春に水が出ている。施しの年は、前の秋の麦が薄い。
跳ねた年には、跳ねた理由が載っている。この綴りはずっとそういう書き方をしてきた。
九年前の頁で、行の数が増えた。
その年は七件ある。翌年は八件。そこから去年まで、六件を下回らない。
額のほうは増えていない。どれも一リーヴルに満たない。
増えた理由は、書いていない。
その九年ぶんは、どれもミラの字だ。年に何度か、言われたとおりに一行ずつ書いた。今日はじめて、並べて見た。
同じ家に、九年つづけて見舞いの要る不幸はない。
水も出ていない。麦も薄くない。七件を一度に呼ぶ理由は、外にない。この家で立ったのは、氏の届けが一つだけだ。
ミラは指を止めた。
増えたのは件数で、額ではない。
そして宛が変わっている。場所でも用途でもなく、家の名だ。ノアイユ。ラフォン。モレル。名の下に、見舞い、祝い、香典、と一語ずつ添えてある。
九年前の頁には、もう一つある。ダルシー。
一リーヴルに満たない見舞いは、金ではない。行った、という記録だ。
順にも決まりがある。ノアイユがいつも先で、ラフォンがその次に来る。モレルはたいてい三番目だ。同じ月に二件出た年でも、書かれる順は動かない。
どなたにどう挨拶するか、どなたには挨拶しないか。
この帳場で、お嬢さまがそう言っていた。覚えることが山ほどあるのだ、と。
「九年前から、この家は人へ配りはじめました」ミラは言った。
レオは戸口の柱に肩を預けたまま聞いている。今日は綴りを覗きにも来ない。
「額は」
「増えていません。件数だけです」
「その名は、いま何をしていますか」
ミラは答えられなかった。名は紙の上にあるが、その人たちが今どこにいて何をしているかは、この綴りに書いていない。
「わかりません」
「今日、わかります」レオは言った。「婚礼が近い家には、人が来ます」
「監査の最中にですか」
「監査の最中だから来るのです」レオは言った。「見に来ます」
昼前に、門のほうが騒がしくなった。
婚礼が近い。近在の家から挨拶が来る時期だ。厨房と洗い場が朝から動いていたのは、そのためだった。
ミラは帳場を出なかった。出る用がない。
けれど支度の払いは書きつける側に回ってくる。菓子、蝋燭、馬の飼葉。ジェルヴェが控えを置いていき、何も言わずに戻っていく。
三件目の控えの上に、ノアイユ、とあった。
その名を今朝、紙の上で見ている。
九年前から毎年、見舞いか祝いが出ている家だ。
ミラは控えを繰った。ラフォンの名もある。モレルもある。今日来ている家の順が、志の綴りに並んだ順と、ほとんど同じだった。
ほとんど、というのは、一つだけ落ちているからだ。
その落ちた一つを確かめる前に、戸口に人が立った。
背の低い、白いものの混じった髪の人だ。手袋を外しながら、帳場のなかを珍しそうに見ている。
奥の間から離れてきたらしい。今日は人が、門と厨房のほうへ出ている。
「ここにいるとうかがったの」その人は言った。「書き物のお嬢さんが、いらっしゃると」
ミラは立って、頭を下げた。夫人は勧められる前に、壁ぎわの椅子へ腰を下ろした。
「ノアイユと申します」その人は言った。「隣の谷です。十五年、こちらの奥さまとお付き合いをいただいて」
十五年、とミラは頭のなかで置いた。志が立ちはじめたのは九年前だ。付き合いのほうが、六年古い。
「王室監査院のヴァンスです」
戸口の柱のところに、レオが立っていた。いつからいたのか、ミラにも分からない。
「まあ」夫人の声が高くなった。「では、あの話は本当なのね」
「どの話でしょう」
「王都の広間で、当主さまがお立ちになったという」夫人は声を落としたが、落としきってはいなかった。「うちの主人が、そう聞いてまいりましたの」
「立ちました」レオは言った。「呼び出しは、こちらから出しています」
「まあ」
夫人はもう一度そう言って、しばらく黙った。黙っているあいだも、膝の上の手袋の、指の一本ずつを順に折っては伸ばしている。
「日取りを繰り上げられたのは、そのせいなのね」
ミラは筆を動かしつづけた。答える立場にない。
「ロズレーさまのほうは、なんとおっしゃっていますか」レオが訊いた。
「なんとも」夫人は膝の手袋を取り上げた。「なんともおっしゃらないのが、いちばん怖いこと。あちらは、そういうお家ですから」
悪気はない。この人には、喋ることが役目なのだ。婚礼の日取りが早まったこと、仕立てが王都から来ること、席の順がまだ決まらないこと。
ミラは筆を置かずに聞いていた。菓子の数と蝋燭の数は、今日のうちに書きつけなければならない。
「お嬢さまは、お幸せね」ノアイユ夫人は言った。「ずっとご苦労なさったんですもの」
ミラは顔を上げた。
レオは動かない。柱に肩を預けたまま、その手袋のあたりを見ている。自分の手袋には、指をかけもしない。
「ご苦労、とおっしゃいますと」
「ご存じないの」夫人はすこし身を乗り出した。「幼いころは、王都においででしたのよ。この家にはずっといらっしゃらなかったの」
筆が止まった。
「どなたから、そうお聞きになりましたか」
「どなたから、というのは」夫人は考える顔をした。「さあ。前からそう申しますでしょう。皆さん、そう申しますわ」
「奥さまから、直に伺いましたか」
「奥さまは、そういうことをおっしゃる方ではありませんもの」夫人は手袋を持ちかえた。「わたくしどもが存じているだけ」
誰から聞いたのでもなく、いつのことでもない。
きのう、蔵で同じ形のものを聞いている。
「王都のどちらに」ミラは訊いた。
「そこまでは」夫人は笑った。「ご親戚か、どなたかのお手元でしょう。よくあることですし」
「いつごろ、お戻りに」
「あら」夫人はすこし黙った。「いつだったかしら。気がついたら、こちらにいらしたわ」
「気がついたら」
「そういうものでしょう。子どもは、育つのが早うございますから」
よくあることだ。家格を保つために、子を王都へやる家はある。作法も、言葉も、向こうで身につけたほうが早い。
外の話として、それは何ひとつ不自然に聞こえない。
ミラは筆を置いた。
使用人の名なら、持って帰られても年の話にならない。
「もう一つ、伺ってもよろしいですか。こちらに、以前、女中頭をなさっていた方がおいででした」
「オディールね」夫人は即座に言った。「あの方はお辞めになって、ずいぶんになりますわ」
名が出た。今朝までどこにもなかった名だ。
「どちらへ」
「息子さんのところと聞きましたけれど」夫人は首をかしげた。「北のほう。海のあるほうだったかしら」
ノアイユ夫人が帰ったあと、レオは柱から離れた。
「隣の谷まで来ています」レオは言った。「回りきる前に済ませる、という算段でしたが」
婚礼を繰り上げた理由が、繰り上げた分より早く歩いている。
「あの人は、嘘をついていません」
「はい」
「隠してもいない」レオは言った。「隠している人は、訊かれたところで一度止まります。あの人は止まらなかった。いつ戻ったのか、というところだけ止まった」
「気がついたら、と」
「思い出せないのではありません」レオは言った。「思い出すものがないのです」
ミラは奥向きの綴りを開いたままにしていた。
十七年前から十年前まで、この綴りにセリーヌの名はない。
あの八年に何もないことを、ミラは八年の空白と呼んできた。
外では、その同じ八年に名前がついている。王都においでだった、と。
「王都においでだった」ミラは声に出してみた。
「合いますか」レオが訊いた。
「合います」
合ってしまう、と言いたかった。けれど帳面には、そういう書き方がない。
無いことは、外の話を否定しない。
むしろ、よく合う。この家にいなかったのなら、仕立ても、冬の炭も、この家の紙に立たないのは当たり前だ。
「後ろの二年は、わたしが見ています」ミラは言った。「十一年前の冬から、この家に」
「覚えですね」
「証しにならないことは、きのう申し上げました」ミラは言った。「それに、あの方の言う幼いころは、その二年より前です」
ミラは筆の尻で卓を叩きたくなって、やめた。それはレオの癖だ。
この家は九年前から、八年ぶんの反証のつかない話を配ってきたことになる。一リーヴルに満たない見舞いと一緒に。
産着も、乳持ちも、外の話が持っていく。生まれた年から外にいたのなら、この家の紙に立つものが、そもそもない。
残るのは、住まいでは説明のつかない無いものが二つ。
一つは、洗礼の礼だ。
名を届けるのは家の役目だ。子がどこで生まれても、どこにいても、そこは動かない。洗い場の女の産を、二度そう読んだ。里で産んで、家の紙に立っていたのは礼だけだった。
王都へやった家の娘なら、礼は立つ。立っていない。
もう一つは、書いてある一行のほうに無い。十七年前の丁の洗礼の一行には、誰の家の何某か、が書かれていない。
預ける先が遠かろうと、洗礼を授けるのはこの教区だ。その日その子は、誰かの家の子として書かれる。
「確かめられていないことがあります」ミラは言った。「話のほうが九年前より古いなら、配りは話の産物ではありません」
「古い」
「ノアイユさまとのお付き合いは十五年と、あの方はおっしゃいました。志が立ちはじめたのは九年前です。六年ぶん、先にお付き合いがあります」
「その六年に、お嬢さまの話は」
「訊けませんでした」ミラは言った。「訊けば、わたしが何を数えているか、あの方が持って帰ります」
「外の話が覆せるのは、住まいで説明のつく無いものだけです」ミラは言った。「家の役目で立つものには、届きません。洗礼の礼と、あの一行の家の名です」
「あれは、外の話では消えませんね」
「消えません。ただ、あの一行だけでは足りません」ミラは頁の端に指を置いた。「これまでは、落とした氏なら八年も待たない、と言えました」
「言えなくなりましたか」
「外にいたのなら、待ちます」ミラは言った。「あの一行が言うのは、洗礼の日にこの子が誰の家の子でもなかったこと。王都にいなかった証しには、あれだけではなりません」
「ほかは」
「否定できません」ミラは言った。「わたしの手元にある紙は、どれも、この家のなかの紙です」
「外にいた者の払いは、外に立つ」レオが言った。
「立ちます」ミラは言った。「王都にいたのなら、そこに払った先があります。宿でも、預けた家でも、手習いの師でも。人へ払えば人件に立ち、物を買えば家政に立ちます」
レオが振り向いた。
「頼んだ六年は」
「十七年前から、十二年前までです」
八年のうちの、はじめの六年。
王都においでだったという年の、いちばん厚いところだ。
「着くのは」
「家政の巻が着くまで、あと六日です」ミラは言った。「人件が、その次の日に」
「六日」
「六日です。手紙が出た日を一日目に数えて、今日が二日目です」
「北の海まで、人をやれますか」ミラは訊いた。
「巻より遠い」レオは言った。「六日では戻りません」
書きつけておこう、とミラは思った。使うのは、巻が着いたあとだ。
夕方、ジェルヴェが今日の控えをまとめに来た。
ミラは数を読み上げ、家令はそれを黙って聞いた。菓子の数が合わないところが一つあって、そこだけ二度読んだ。
「ジェルヴェさん」ミラは言った。「今日いらした家のなかに、ラフォンさまはおいででしたか」
「おいででした」
「モレルさまは」
「お使いだけです」
「お報せの使いを出す順は、どなたがお決めになりますか」
「奥さまでございます」ジェルヴェは言った。「毎年、同じ順で」
志の綴りに並んだ順で、落ちていたのは一つだ。
「ダルシーさまは」
ジェルヴェは袖の縁で手をそろえた。この人がその手つきをするのを、ミラは前にも一度見ている。
「あちらは、九年前きりでございます」
「九年前きり」
「その年に一度、香典が出ております。それからは、こちらからも、あちらからも」
九年前に一度だけ出て、そこで終わっている家がある。
ほかの家は毎年つづいているのに、その家だけが、はじまった年で切れている。
ミラはその名を書きつけた。使い道はまだない。
「そのお宅は、どちらに」
「峠の向こうです」ジェルヴェは言った。「いまは、どなたもおられません」
いまは、どなたもおられません。
言い回しが揃っている。きのう蔵でも、同じ切り方を聞いた。老人が、当時の女中頭について言った。あのときは、それきりだった。
今日、外から来た人が、北の、海のあるほうだと言った。
ダルシーには、まだ誰も行き先をつけていない。
日が落ちた。
六日目が終わる。婚礼まで、ふた月を切って、もう五日がたっている。
街道のどこかを、二通の手紙が上っている。家政と、人件と。
ミラは灯を入れて、今日の分を書きつけた。件数だけ増えた志。今日来た家の順と、それが毎年同じ順で決まること。九年前で切れた家。峠の向こうの、誰もいない家。北へ辞めた女中頭の名。
外の話は、紙では止められない。
要るのは、外にも紙があったという一枚だ。




