2;1... - !なかったこと!
夕暮れの風が浴衣の裾をはためかせていた。停留所の上のネオンサインが点滅し、濡れたアスファルトにピンクとブルーの光を投げかけている。いつもの記憶なら、東京のバスはすべての生き物を憎んでいる人間がつくった時刻表で走っている、とかなんとか毒づいているところだ。けれど今日は、いつもの日ではなかった。
今日、彼は、自分が死んだのを見た女から三歩の距離に立っていた。
愛波は、手に持ったコーヒーカップを握りしめ、かろうじて苛立ちを隠した目で彼を見ていた。飲み物から立ちのぼる湯気が冷たい空気に溶けていく。彼女は明らかに、彼が何かしら意味のある言葉を発するのを待っているのだが、記憶はといえば、陸に打ち上げられた魚のように、ただ口を開け閉めして突っ立っているばかりだ。
「ずっと黙ってるつもり?」彼女がついに口を開いた。「それとも、言葉がいらない特殊な会話術でも使ってるわけ?」
記憶はまばたきした。深く息を吸う。吐き出す。そしてようやく、力を振り絞った。
「あなた、屋上にいた」
愛波の動きが止まった。カップを握る指がわずかにきつく締まる。紙コップがかすかにへこんだのを、彼は見逃さなかった。
「何ですって?」彼女の声は一段低く、危うい響きに変わった。
「屋上です」記憶は繰り返した。「学会の後。あなたは屋上にいた。俺たちは話した。時間について。あなたの同僚、セルゲイについて。俺の装置について。あなたは笑った。それから、こう言った……」
「私をつけてたの!?」愛波はぐいと一歩踏み出し、ピンクの瞳を燃え上がらせた。「このストーカー!」
「違うんだ!」記憶は両手を前に突き出した。彼女の怒りだけでなく、この状況の不条理そのものを止めようとするかのように。「つけてなんかない! 俺はただ……俺もあそこにいたんだ! 屋上に!」
愛波は半歩踏み出した姿勢のまま固まった。眉が寄せられる。
「何を……」彼女はゆっくりと言った。「私は、ひとりだったわよ」
「ひとり?」
「ひとり」彼女は腕を胸の前で組んだ。「学会の後、屋上に出た。ひとりで。十五分くらい突っ立って、寒くなったから帰った。そこにあんたはいなかった。何の会話もなかった。あんた、頭でも打ったの?」
記憶は黙り込んだ。こめかみが脈打っている。
「つまり、あの時のことは全部なかったのか」と、頭の中を言葉が駆け抜ける。「会話も。微笑みも。最後の言葉も。これが全部、偽りの記憶だ。あの街の人たちと同じ。施設の廊下の時と同じ。洋子の時と同じだ」
だが、それはあまりに現実だった。
彼は細部のすべてを覚えている。風が彼女のピンクの髪を乱していたのを覚えている。彼女が「うっさい、黙っててよ、もう」と言ったのを覚えている。彼女が初めて、本当の笑みを見せたのを覚えている。彼女の香水の匂いまで覚えている。でっちあげられるはずがない。できるはずがない。
それとも、できたのだろうか?
「じゃあ、俺たちの会話は?」彼は静かに、ほとんど懇願するように尋ねた。「屋上じゃなくて、その前のだ。学会での」
愛波は鼻を鳴らした。
「あの口論のこと?」彼女は首を振った。「あんたは私の講演を台無しにした。私の研究を人前で子供じみてるって言った。正直、まだ腹が立ってるわ」
「でも、あなたは言った。俺の言葉には意味があると」記憶は食い下がった。「誰も自分と対等に話してくれなかった、と」
愛波は目を細めた。
「私、そんなこと言ってないけど」
「でも……」
「いい、聞いて」彼女はため息をつき、ほんのわずか、ほんの少しだけ、苛立ちを和らげたように見えた。「あんたが何を勝手にでっちあげたのか知らないけどね。多分、ほんとに脳震盪か、過労か、どっちかよ。でも、あの会話はなかった」彼女は少し間を置き、まるで気乗りしないかのように付け加えた。「確かに、学会でのあんたの言葉には、ちょっとは意味があったけど。ほんの少し、ごくわずかね。時間を『傷』として捉えるあの考えは、詩的ではある……ないわけじゃない。でも、タイムマシンを『子供じみてる』って言って、私まで子供扱いしたのは、ひどく無礼だった。すごく失礼だったわ」
記憶は彼女の言葉を聞きながら、新たな、恐ろしい構図を頭の中で組み立てていた。
つまり、学会はあった。口論もあった。だが、屋上は、なかった。
では、自分が覚えているあの場面は何なんだ? あんなに鮮やかで、細密で、本物だった、あの頭の中の情景は?
そのとき、不意に思い至った。思考というより、みぞおちの辺りを冷たく粘つくものが這う感覚だった。
もし、あれが過去の記憶ではなかったとしたら?
未来の?
あるいは——別のサイクルの?
彼は夢月を思い出した。時計の罅割れ。彼女の涙。ひとつの記憶のふたつのバージョンを見せた装置。
「もし俺が見たのが、これから起きるはずの出来事だったら? あるいは、すでに別の反復で起きた出来事で、その反復では彼女が……死んだ?」
「ちょっと、何黙ってるのよ」愛波の声が彼の思索を打ち破った。「まるで幽霊でも見たみたいな顔して」
記憶は彼女に目を向けた。
「見たのかもしれません」彼は静かに言った。
愛波は眉をひそめた。明らかに何か言い返そうとした——おそらく、また嫌味を——が、思いとどまった。代わりに、道路のほうを見て、苛立たしげに舌を鳴らした。
「なに、あのバス、遅れてるし」彼女はぶつぶつ言った。「物事が思い通りにならないのって、ほんと嫌い」
「俺もです」記憶は機械的に答えた。
二人は隣り合って立っていた——お互いの存在を感じるには十分近く、距離を保つには十分離れて。風が強くなっていく。ネオンサインは点滅を続けている。バスはまだ来ない。
記憶は考えていた。
愛波が——生きた、本物の、苛立った彼女が——今、一メートル先に立っている。これは事実だ。しかし、それ以外のすべては事実なのか? 偽りの記憶と本物の記憶をどう区別する? 何が現実で、何が別のサイクルの残響なのか、どうやって見極める?
自分の言葉を思い出した。洋子が研究室で書き取った、あの独白の一節だ。「時間は直線なんかじゃない。自分の尾さえ忘れて丸まった蛇みたいなもので、急所をひと突きすれば、するすると解けてしまうんだよ」
彼は今、その言葉が実際に何を意味するのか、理解し始めている気がした。
「あの」彼は突然言った。「久沙さん」
彼女は不承不承ながらも、彼に向き直った。
「何?」
「あなたは、記憶が……偽物になり得ると思いますか?」
彼女は長いこと彼を見つめた。ただ答えたくないだけの人間にしては、あまりに長かった。
「私はね」彼女はついに言った。「脳は、私たちに意地悪な悪戯をすることがあるって信じてる。特に疲れてるとき。特に、本当じゃない何かを、本当だと思い込みたいときにはね」
「もし、それが脳じゃないとしたら?」記憶は尋ねた。「もし、時間そのものだとしたら?」
愛波は答えなかった。なぜなら、まさにそのとき、黄色いバスが角から現れたからだ。明るいヘッドライトをつけ、アスファルトの上を轟かせて。
「やっと来た」愛波は息をついた。彼女は歩道の端に歩み寄ったが、ほんの一瞬立ち止まり、肩越しに言った。「もし自分の理論を議論したいなら、明日、研究所に来て。常識的な時間に。まともな論拠を持って。それと、サーカスじみた真似はなしで」
バスが止まった。ドアが空気音とともに開く。愛波は身軽にステップを上がり、振り返りさえしなかった。
記憶は歩道に残った。
彼は後を追わなかった。自分は別方向に行く必要があったし、それに、頭の中を渦巻く思考は、むっとするバスの車内には到底収まりそうになかった。
彼は立ったまま、黄色いバスが橋の方角へ遠ざかるのを見送った。愛波のピンクの髪は、しばらくのあいだ後部ガラス越しに見えていたが、やがて消えた——夜の灯りの流れに溶けていった。
「あの会話はなかった」
「私は、ひとりだった」
「すべては、違うものになる」
記憶はゆっくりと、停留所のベンチに腰を下ろした。冷たい金属の冷たさが浴衣の布地を通して刺す。彼はポケットからスマートフォンを取り出した。あの写真を開く——自分が撮った覚えのない、あの一枚。2026年11月。自分が、見知らぬ者たちに囲まれて屋上に立っている。そしてその中の一人が……
彼は画像を拡大した。
フレームの隅、写真の端でほとんど切れかかっているところに、女性の姿が見えた。長い髪。ぼやけて、ピントが合っていない。しかしその色は……
その色は、ピンクだった。
「そんなはずは」記憶はささやいた。
バスはとっくに角を曲がって消えていた。都市は自分の生を生きていた——騒がしく、きらびやかに、呼吸しながら。そしてこの街のどこか、地下室のラボには、すでに一度、現実のふたつのバージョンを見せた、黒いつや消しの装置が置かれている。
そしてどうやら、そいつはもうひとつ別のバージョンを見せようとしているらしかった。




