46.入れ知恵
夏休みが始まって二日目。
遠くの方から聞こえるセミの声で、俺は目を覚ました。
首筋には薄っすらと汗。昨晩は熱帯夜だったのでエアコンは付けっぱなしで寝たのだが、それでもこうなるのだから昨今の温暖化事情には辟易とするばかりである。
俺はエアコンを切って、寝間着を着替えて、自室を出た。
一階のリビングからテレビの音が漏れている。
確か今日は、両親ともに仕事で早くから家を空けているはず。
……と、言うことは。
「あ、あっくん。おはよう」
「うん。おはよう、奏」
奏はエプロンを着た状態でソファに座り、リビングでテレビを見ていた。
「今日もいつも通りの時間に起きれたね。偉いよ、あっくん」
「あはは。全肯定ありがとう」
「うふふ。じゃあ、朝ごはん作るから待っててね」
この前まで、両親が仕事でいない朝は自分で朝食の準備をしていたのだが……奏が帰国してきてからは、どういうわけか両親が仕事で朝早くから家を空ける日には決まって奏が家にやってきていて、朝食を振舞ってくれるようになった。
……母に、両親の出勤表でももらっているのかな?
「ん。美味しい」
奏の作ってくれる朝ごはんはいつも美味しい。
「本当? うふふ。ありがとう」
「心なしか、母さんの味付けに似てきた気もする」
「うふふ。本当? それなら教えてもらった甲斐があったよ」
……なんと。
最近、奏の味付けが母に似てきたと思っていたが、それは奏が母から味付けを教えてもらっていたかららしい。
……もしかして奏、ウチの味付けが好みなのかな?
「あっくん。寝間着、洗濯機にかけてくるよ」
「え? 自分で持っていくよ?」
「大丈夫だから」
「……じゃあ、はい」
俺は洗濯機に入れようと自室から持って来ていた寝間着を奏に渡した。
ちなみに寝間着は隣の椅子にかけていた。ずっと持っていたわけではない。
「ありがとう」
奏は寝間着を受け取ると……。
「……すぅん」
匂いを嗅ぎ始めた。
「あっくん、今晩は寝汗掻いた?」
奏が尋ねてきた。
「うん。臭くてごめんね」
「……そんなこと。……すぅん」
奏は五分くらい、なぜか俺の寝間着の匂いを嗅いでいた。
そういえば、両親が朝早くから家を空ける日は、奏から度々こうして寝間着をせがまれ、匂いを嗅がれる。
……まあ、時々臭いものの匂いを嗅ぎたくなる時もあるし、それと同じことなんだろうか?
たださすがに……この時ばかりは俺も恥ずかしさが勝る。
「か、奏。そろそろ洗濯機にもっていかないと。洗濯かけたら、高垣さんとの約束に遅刻するかも」
「……むぅ。綾香ちゃんめ」
……奏は頬を膨らませながら立ち上がり、寝間着を嗅いだままリビングを出た。
まもなく脱衣所の方から洗濯機の轟音が響き始めた。
……気付けば奏は、ウチの洗濯機の使い方も熟知しているようだ。
「……奏、気付いたらウチに住み着いてたりして」
あはは。そんなことあるわけ……。
……あるわけ。
…………あるわけ。
俺は思考を巡らせ……。
「ま、そんなことはないか」
先日、奏の家に発熱した彼女の看病に行った際、奏の母から奏が俺の家を思い出に浸る場所として活用していることを教えてもらった。
だから彼女はこの家に入り浸る。
……俺に朝食を振舞ってくれる理由も。洗濯機の使い方も覚えた理由も。
きっと……思い出に浸る場所を提供している俺達へのささやかながらのお礼のつもりなのだろう。
「……ただいま。洗濯、急速コースに設定してきたから、三十分後くらいには家を出れると思う!」
「ありがとう、奏」
「ううん。気にしないで」
「……奏、これからは俺も家事を手伝うよ」
ただ……お礼なんて不要だ。
ずっと彼女の世話になっているわけにはいかないし……俺はそう提案した。
こう言えば、奏はきっと喜ぶと思っていたんだ。
……奏は。
「……あっくん」
瞳の光を消していた。
「誰の入れ知恵?」
「い、入れ知恵?」
「……うん。教えて、あっくん」
奏はニッコリと微笑んだ。
「誰の入れ知恵でもないよ」
しばしの無言の後、俺は言った。
「ただ……俺がそうしたいと思ったんだ」
「……」
「君の負担になりたくないから」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「もーっ、あっくん。あたしのこと、好きすぎだよっ!」
奏は嬉しそうに体をクネクネ捻っていた。
「そ、それならっ! これからは家事を共同でやろうねっ!」
「え? あ、うん」
「うふふ。約束だよ。うふふふふ」
……よくわかんないけど、奏の了解は取れたみたいだし、まあいいか。
そんなやり取りを経て、俺達は身支度を済ませて、家を出た。
向かった先は、高垣さんとの待ち合わせでもある空港だった。




